海賊島の墓標
西季幽司
序幕
きっかけは交通事故だった。
悪魔の棲む島で起こった、あの忌まわしい大量殺人事件は人の目に触れることなく、瓦礫の下に埋もれ続けるはずだった。それを一人の小悪党の死が、事件を白日のもとにさらすことになった。
死亡した男の名は
被害者は車に撥ねられ、道端の畑まで弾き飛ばされた。翌朝になって付近を通りかかった車が「田んぼの中に人が倒れている」と通報して、事件が明るみに出た。
生憎、畑の中の一本道で監視カメラのない場所だった。
愛媛県の宇和島市郊外で起きた、この交通事故は、一見、ありふれたひき逃げ事故に見えた。だが、現場検証に当たった宇和島警察署の田中巡査は道路上にブレーキを踏んだ跡がないことに気がついた。
――単なる事故だろうか? 故意に跳ね飛ばされたのではないか?
道路を横断しようとして跳ねられたにしては遺体が畑の中にあったことも変だった。遺体を畑に跳ね飛ばすには、かなりのスピードで車道から歩道へとハンドルを切らなければならない。
路肩のない道路で、歩道と車道の境界は白線だけだ。
道端を歩いていた被害者は後ろから猛スピードでやってきた車に跳ね飛ばされた。車の運転手は歩道を歩く被害者の姿を確かめてから加速して突っ込んだ――そう見えた。そして、被害者を跳ね飛ばすと、そのまま姿を消したのだ。
日が沈むと、辺りは暗闇に包まれてしまう。畑は漆黒の海にしか見えない。事故後に現場を通り掛かった車は畑の中に人が横たわっていることに気がつかなかった。
そして、被害者は息絶えた。
不審を抱いた田中巡査は上司に報告をした。
愛媛県警刑事部捜査一課の
阿佐部は頭脳明晰、鋭い推理力の持ち主だ。小柄で丸顔、たれ目で額が禿げ上がっている。野暮ったい外見のせいで、他人から人畜無害な男と見なされることが多い。性格が温厚で滅多に怒らないことも、それに拍車をかけている。
その実、抜けるように頭が良い。話を聞いて直ぐに本質が理解できるため、つい、「はい、はい」と相槌を打ってしまう。このため、「あいつは頭が良いことを鼻にかけ、人を小馬鹿にしている」と誤解されることがある。
「近藤さん。柴崎高尚が死にました。車に撥ねられたようです。ひき逃げのようです。犯人は捕まっていません。路上にブレーキを踏んだ跡がなく、宇和島警察署から、不審死の疑いがあるいう報告書が上がってきています」阿佐部が相棒の近藤に声をかける。
近藤は座ったまま、肩たたき棒で肩を叩きながら椅子を回転させ、体を阿佐部に向けて言った。「柴崎? 誰だ? そりゃあ~」
頭髪を短く刈り上げ、常に額に縦皺を寄せている。ぎょろりと目が大きく目つきが鋭い。丸い鼻に分厚い唇、見るからに気の強そうな顔つきだ。
相棒なのだが仲が良いとは言えない。かといって、いがみ合っている訳ではない。可もなく不可もない関係だった。
「ほら、この間、人を殺したといって自首してきたやつですよ。確か、柴崎高尚という名前でした。高尚なんていう変わった名前だったので覚えています。間違いありません。彼です。あいつ、ここを放り出されると殺される! ムショに入れてくれと騒いでいましたが、本当に殺されてしまったようです」
「ああ、あの男か。思い出した。あいつは~お前が担当したんだよな。あいつが、殺されたとしたら大変だ。やつを釈放したのはお前だ。責任問題になるんじゃないか?」近藤はそう突き放した。
阿佐部が顔をしかめる。阿佐部と近藤はパートナーだ。当然、柴崎の事情聴取の際は近藤も一緒だった。俺、一人に責任を押し付けられても困るとでも思っただろうが、馬の耳に念仏、近藤に言っても無駄だ。それに、案外、正義感の強いところがある。まるで責任を感じていない訳ではないはずだ。
「課長と相談して来ます」阿佐部は席を立った。
捜査一課長の
報告を受けた篠原は「ふうむ」と腕を組んだ。無論、柴崎が自首してきた件は報告を受けているし、釈放の許可を与えたのは篠原だ。近藤のように、阿佐部に責任を押し付けたりなどしない。
四、五日前のことだ。柴崎高尚という男が「人を殺しました」と自首してきた。そこで、阿佐部と近藤が事情を聴いた。言っていることが現実離れしていて、クスリでもやっているんじゃないかと疑った。それに、汚い身なりで浮浪者にしか見えなかった。寒い季節になると食うに困って自首してくる浮浪者が後を絶たない。柴崎もそういう一人ではないかと先入観を持たなかったと言えば嘘になる。
実際、近藤は「こいつ、食うに困って、あることないことでっち上げてやがる。お前に任せた。適当に相手をして追っ払っておけ」と言って事情聴取を阿佐部に丸投げした。
「話のウラは取ったんだよな?」篠原が尋ねる。
「はい。疑わしい点はありませんでした」
「クスリはどうだ?」
「薬物検査はシロでした」
「そうか・・・事件性はないと考えて釈放したんだったな・・・」篠原が考え込む。
それを見て、阿佐部が言う。「考えすぎかもしれませんが、気になります。ちょっと調べてみたいのですが、よろしいでしょうか?」
「構わないが、どう調べる?」
「先ずは事故現場に行ってみたいと思います。事故か殺されたのか、それを確かめたいと思います。それに、やつはウチを出た後、愛媛放送局の人間と会っていました。あの後、柴崎をどうしたのか、やつから何を聞いたのか、聴取してみようと思います」
「いいだろう。そうしてくれ」と篠原は答えると、「お~い! 近藤。ちょっと」と近藤を呼んだ。
仲間内で腫物に触るように扱われている近藤だが、篠原は遠慮がない。近藤が一課に配属されて直ぐにパートナーとして組んでいたことがあるからだ。刑事としての心構えを、一から叩き込まれたれたのが篠原だ。近藤も、篠原には頭が上がらない。
近藤が飛んでくる。「おい。阿佐部と一緒に、この前、お前らが事情を聴いた柴崎という男のことを調べてくれ。何か分かったら、直ぐに俺に知らせろ」
篠原が直接、命令を下す。近藤のことを分かり過ぎるほど分かっている篠原だ。阿佐部が一人にならないように釘を刺しておいたのだ。
「はい」と近藤は素直に頷いた。
篠原の配慮はありがたかったが、近藤のことだ。課長にチクリやがったと逆恨みしているかもしれない。それに近藤の力を借りなくても、一人で事実を突き止める自信があった。
「知っての通り、今は特別警戒中だ。あまり時間はやれん。まあ、しっかり頼むぞ」篠原が言う。
愛媛県警は大事件を抱えていた。
県警は大騒ぎになった。
――愛媛県警の名にかけて、鈴木を確保しろ!
県警幹部からの激が飛んだ。県内で鈴木の身柄を確保できれば、愛媛県警の実力を満天下に知らしめることができる。
鈴木を確保するため、県警は目下、特別警戒の真っただ中だった。
「分かりました」阿佐部と近藤は同時に頭を下げた。
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