第62話

 凛は大きく呼吸を乱しながら、ダンジョンを歩いていた。

 ダンジョンの中は、冬の寒さを極めたような冷たい風が吹き抜けていた。

 薄暗い洞窟のような内部を、凛はゆっくりと進んでいった。

 昨日から休みなく、連続でダンジョンに潜っていた。


 湿った空気が頬を撫で、背筋を冷やしていく。

 震えそうになる心を押し殺し、凛はテレキネシスで浮かせていたスマホのライトを使い、道の先を照らす。

 夜での攻略はほとんどしてこなかった凛としては、ダンジョンの闇はほぼ初めての経験だった。


 その闇が、余計に不安にさせる。

 どうして、こんな場所にいるのか……浮かんだ疑問を掻き消すように、凛は首を横に振る。

 頑張らないと。頑張って頑張って頑張らないと。周りの人たちに迷惑をかけてしまう。そう、自分に言い聞かせた凛は、鉛のように重くなった足で前に進む。

 呼吸は浅い。胸の奥に居座る不安と罪悪感が凛を縛りつけていた。


(私のせいで、他の人たちまで何かを言われる……それだけは嫌だった)


 ふと、頭に浮かぶのは、ネットで見た言葉たちだった。


『天草がサボり方を教えたんじゃねw』

『さすが探索者の楽な道を知ってるからな』


 拳が震えた。

 違う。違うのに。


(晴人は、関係ない。何も悪くない。全部、私のせいだ。全部、どこまでも……全部全部全部……私のせいだ)


 凛は唇を噛みしめた。いつも、誰かを傷つけてしまう。自分が足りないから、周りを巻き込んでしまう。

 そのとき、スマホが震えた。母からのメッセージだ。


 恐る恐る開いてみると、そこには簡素な文字だけが並んでいた。


『お金使い切っちゃったから、また送金して』


 その文字をみた瞬間、凛の中で静かに、何かがぷつりと切れた。


(……なんのために?)


 手に持ったスマホを、凛は呆然と見つめた。

 魔物がいる危険な場所に入って、何度も何度も命を削るように戦って、それで何が残るのか。


(……晴人や、由奈からも……メッセージが……電話が……怖い。きっと……怒ってる……私のせいで、何か言われているんだ……みたく、ない)


 凛はスマホを見ないよう、再びテレキネシスを使って道を照らすための道具として距離をとる。


(何のために一生懸命、ダンジョンに入ってるんだろう……)


 答えは見つからなかった。

 

(家族のため? 晴人のため? ……それとも、知らない誰かを、助けるため?)


 浮かんできた数々の中で、凛は晴人に助けてもらった時のことを少しだけ思い出していた。

 わずかに心が温かくなる中で、すぐにネットで書かれていた言葉が凛に浮かび、涙が頬を伝う。


(きっと、晴人だって……私のことなんか……)

『顔がいいだけ』

『アバズレ』

『役立たず』

『暗い女』


 そんなネットの書き込み。どれも、真実なんて一つもないのに、真実とばかりに伝わっていく。

 自分には何もないのだから、何もかもを持っている晴人のことを想うことは許されないことだと、考えていた。


(もう、いっそのこと……)


 弱気になっていた心に、考えてはいけないとおもっていたことが浮かぶ。

 次の瞬間、洞窟内に響く低い唸り声に凛は現実へと引き戻された。


 視線を上げると、闇の中から一頭の魔物が姿を現す。異様な黒い体毛に覆われた魔物――ジェネラルウルフ。魔石二つ持ちの個体だ。

 凛は震える手で氷の刃を作り出す。

 今の心の状態を表したのか、はたまた疲労なのかはわからないが、自分の発動した異能のあまりの脆さに、凛は一瞬動きを止める。


「ガアア!」


 その一瞬の隙をつくように、ジェネラルウルフが地面を蹴った。

 凛の間合いまで迫り、慌てて横に跳んでかわそうとしたが、間に合わない。


「ぐ……っ!?」


 激痛が全身を駆け抜け、凛は悲鳴をあげながら地面を転がった。硬い岩肌が肌を擦り、体中に鈍い痛みが広がる。

 それでも、すぐに体を起こして刀を構え、ジェネラルウルフを切り裂く。


 すぐに、次の魔物が姿を見せた。

 凛はまた刀を構え、戦闘を行なっていくが……心の中にぽっかりと穴が開いていく。

 連戦の中で、疲労もあって対応が遅れる。傷が増えていく。

 攻撃を喰らうたび、心に、暗い影が落ちる。


(私……何してるんだろう)


 目の奥がじんわりと熱くなる。視界は滲み、涙がこぼれるのを止められなかった。

 誰も自分のことなんて知らない。何も知らないくせに、好き勝手に言葉を投げつけてくる。


(こんなに頑張っても、意味、ない。また、どこかで……否定、される)


 ネットの書き込みを思い出し、凛はぎゅっと唇を噛んだ。


(……こんなことなら、生まれてこなければよかった)


 ふいに浮かんだその考えに、凛自身が驚いた。けれど、同時にそれがどこか正しいようにも感じられた。


(私なんか、いなくてもいい。誰にも期待されてない……誰も、私なんか……)


 思考がどんどん深い闇に沈んでいく。

 ジェネラルウルフが唸り声をあげ、凛に向かって再び突進してくる。

 弾き飛ばされた凛は、刀を手からこぼし……迫るジェネラルウルフへと視線を向ける。


(戦える。……戦う力は、まだある。でも――)


 凛の異能は圧倒的だった。これまでだって、どんな強敵だろうと、何度だって立ち向かってきた。

 けれど――今は違う。

 力を振り絞る理由が見つからない。異能を形にするために、心が動いてくれなかった。

 凛の頭には、ネットで見た悪意の言葉が何度も何度も蘇る。


(戦って、何になるの? 頑張ったって、誰も見てくれない。誰も認めてくれない。傷つく、だけ)


 探索者を始めた時は、家族のためだった。

 皆が笑顔になると信じていたから。

 それは間違っていなかった。お金が増え、家族は喜んだ。

 だけど、お金は家族を壊していった。

 

 見知らぬ誰かのために、頑張ろうとした。

 でも、その人たちに今は敵意を向けられている。

 感謝も労いもなく、ただ無意味に時間を、心を、命を削られていく。


(……私は、何のために戦っているんだろう)


 体を動かそうとするたびに、湧き上がるのは虚しさだった。

 もう戦いたくない。誰のためにもならない戦いに、命を削るのは嫌だ。


(普通に……普通に生きていたいだけなのに)


 友達と笑い合ったり、家族と普通の会話をしたり、好きな服を買いに行ったり、好きなものを食べたり、誰かを好きになって、恋をしたり――ただそんな、ありふれた毎日を送りたかった。

 でも、凛にはその当たり前が許されなかった。


(……晴人や、由奈や……霧島さんや早乙女さん。……最後にちょっとだけ、友達……みたいな人たちができて、良かった)


 そんな皆に、否定されるのが嫌だった。

 ――皆、自分をしっかりと持っていて、力強くて、優しくて、自分とは違う。引っ込み思案で、ダメな自分なんか、きっと目にも留めないだろう。


(……いっそのこと、これで終われば……楽になれるのかな)


 涙が頬を伝い、冷たい岩肌に染み込んでいく。

 迫る死の気配に、凛は心が静かに凍りついていくような感覚を覚えていた。

 ジェネラルウルフの体が迫る。その牙が光り、喉元を狙っているのが見えた。

 凛はゆっくりと目を閉じる。


(もう、いいや)

 

 その時だった――。


 魔物の唸り声とは違う声がダンジョン内へと響いた。

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