第16話 雨

 昼を過ぎるといつの間にか空が曇り、ぽつりぽつりと雨が落ち始めた。

 急に暗くなったのは、雨雲のせいだったのだろう。雨がパラパラと屋根を打つ音が聞こえる。

「泰時どのが濡れないといいのだけれど」

 ここのところ帰宅の時間が遅いのは遠征の準備のせいだ。

 杏珠は本降りになり始めた外を見ながら呟く。

「たぶん通り雨でしょうから、お戻りになるころにはやむでしょう。ご心配はいりませんよ」

 声をかけてきたのは、ラン。ランはミズチの妻で、本来は屋敷の厨房で働く女性だ。杏珠の傍で世話をするものがおらず、やむを得ず抜擢されたということらしい。よく笑い、気働きの利く女性で、学はないかもしれないが、利発な女性だ。

 平民出身ゆえ、元皇女である杏珠に侍ることを畏れ多いと思っているようだが、杏珠はすぐに彼女のことが好きになった。

「あまりに酷い雨になるようでしたら、あちらにお泊りになるかもしれませんが」

「あちらって? どこかお泊りになるお屋敷が?」

 杏珠が首を傾げると、ランは慌てて首をふった。

「お役所にですよ。旦那さまは杏珠さま一筋のお方ですから、よそのお屋敷にお泊まりになるはずなどあるはずもございません」

「……そうなの、かな?」

「そうですよ。これまでも何度かいろんなお話がおありだったようですが、かたくなに初恋の君を思い続けておられましたから」

 ふふっとランは杏珠をからかうように笑う。

「初恋」

「そうですよ。大旦那さまが生きていらっしゃった頃は、身分違いだからあきらめろと言い争いになることが多かったとか。それが煩わしくて、東域に駐在任務に就かれたと夫からは聞いております」

 結果として泰時は数々の功績を立て、どんどん出世をすることになったらしい。

「こうして杏珠さまを迎え入れることができたのは、本当に愛ゆえでございましょう」

「……」

 杏珠は思わず顔が熱くなるのを感じた。

「私……まだ、信じられなくて」

 泰時から昔から杏珠を知っていたと告げられた時、皇帝の命令ということにあまりにも驚いてしまって、詳細を聞くのを忘れてしまった。今更ながら、杏珠の何を気に入ってもらったのか、きちんと聞くべきだったと後悔している。

 泰時は一方的な思い出だから泰時にしか意味のないことだと思っているようだが、ひょっとしたら、杏珠の記憶のどこかに泰時がその名を知らぬまま残っているかもしれない。そう思うと、欠片だけでも思い出したいと願ってしまう。泰時の思い出と杏珠の思い出がどこかで重なっていて欲しい。

 泰時のことは好ましいと感じている。貴族の男性にしてはたくましい体格に焼けた肌も、意外に優しい大きな目も、杏珠の胸を騒がせるが、それが恋なのかどうかはまだわからない。

 優しくされたら相手を好きになるのは当たり前かもしれないが、例えばランに感じる好きと泰時に感じる好きはどう違うのだろう。

 杏珠は泰時から向けられる想いにどう応えたらいいのか。

「杏珠さま。今すぐに旦那さまと同じだけの想いを抱いていなくても大丈夫なのです。ご心配いりません」

 杏珠の表情に何かを感じたのか、ランは微笑する。

「失礼ながら旦那さまがちょっと重すぎなのです。負担に感じられる必要はございません」

「負担とかではないわ。ただ信じられないだけなの。もちろん気持ちを疑っているというわけではなくて、自分に自信がないというか」

 杏珠は首を振った。泰時はけっして気持ちを押し付けてきているわけではない。ただ、伝えてくれただけなのだ。

「私はずっと宮廷内では変わり者扱いをされていたし、姿かたちで褒められるのは、いつも姉の柘榴だったの。母を早くに失くしたこともあって、宮廷での影はとても薄かったわ。そんな私を想っていたと言われてもあまり現実味がないというか」

「まあ。高貴な方は見る目がないのかしら? そもそも皆さま、御簾の向こうにおられてお顔が見えないのですよね?」

 ランは不思議そうに首を傾げた。

「四六時中、顔を隠しているわけではないわ。宮廷につとめる使用人たちは当然、顔を見る機会もあるわ。大臣などになれば、かなり皇族の傍に侍ることになるし」

 杏珠と柘榴は年が近いのと、母親の実家が同程度の権勢のため、よく比べられた。柘榴の実家は雅楽寮で頭角を現している釜石家。当然、音曲や詩歌の教育に熱心で、また、柘榴はその期待に応えるだけの才を持っていた。妹の杏珠からみても柘榴は美しく、優雅な所作であり、しかも貴族の女性として必要な教養が高く、美しいと言われるに値する皇女だ。

 対して杏珠は、頼りにされながらも恐れ忌避されがちな陰陽師を輩出する山科家の教育を受けて育ってきた。しかもどちらかといえば、秘密裡に。江頭行橋に醜いと言われたのは、さすがに驚いたが、怪しいだの変人だのと言われるのはある意味では仕方のないことだ。

「実は旦那さまから、杏珠さまは天女のような方だと以前からうかがっておりました。正直、この目で見るまでは、高貴すぎるお立場のお方ゆえ、そのようにおっしゃっているのかと私どもは話半分に聞いていたのですわ。ですが、実際にお会いしたら、本当にお美しくてびっくり致しました。狩衣姿で男のような恰好をなさると、より、この世の人ではないような気がしてなりません」

「幽鬼みたいに見えるってこと?」

「違います。なんというか、素の美しさが現れるのでしょう」

 ランはうっとりしたように杏珠を見上げる。

「しかも美しいだけでなく、とてもお強い。旦那さまがずっと恋焦がれるのも無理はありません」

「さすがに褒めすぎではないかしら」

 杏珠は苦笑する。

「私がこんなふうだから、あなたも東域に行くことになったのに」

 そう。杏珠の世話をするために、ランは遠征に同行することが決まったのだ。東域の結界に近づけば、魔物が出現することもある。そうでなくても、軍に同行する長い旅路は体力的に辛い可能性が高い。

「あら。私は都から離れたことがないので楽しみにしているのですよ。このような機会がなければ、旅などできないでしょうし。何より杏珠さまと一緒なら、安全ですわ」

 無論、泰時は杏珠の安全を最優先するだろう。しかも体力的に考えるなら、ランより杏珠の方がよほどついていけない可能性が高い。

「さあさ、旅の荷づくりを始めましょう。不足のものがないか早いうちに確認しないといけませんから」

「そうね」

 杏珠は頷く。

 雨はまだ降りやまず、屋根を叩き続けていた。


 

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