迷宮(三)
耳に息がかかり、全身の毛がぞわりと逆立つ。桔梗は、希彦が何を言ったか理解するまで、数秒、間が空いた。何の用があって、蘭子の部屋に帝が入ったのか、その理由に本当にまるで検討がつかなかったのだ。桔梗は常に、合理的に物事を判断する。東宮の座に姫たちや各領地の者たちは何年も中には生まれて落ちたその日から、その座につくために努力して、時間を費やす。それを、よくわかっているからこそ、その努力と時間を、帝が台無しにするだなんて、考えもしなかった。そんな誰の得にもならないようなことを、帝がするなんて……
「あれは己の欲を満たすためなら、どんな非道なことだってするんだよ。許されるんだ。誰も咎めない。この国では、帝より偉い人間は存在していないから」
希彦はにやにやと笑いながらそう言って、呆然としている桔梗から離れると、今日のところはこれで捜査は終わりだと言った。すでに日も傾いていたし、いくら中宮の許可は得ているとはいえ、妃候補の大事な姫を長時間拘束するわけにはいない。この続きは明日ということになった。
* * *
「————姫様、姫様ってば!」
「え……?」
「もう、先ほどから何度も聞いているのに! 一体、希彦様と何をお話になっていたのですか!?」
自分の部屋に戻ると、少しぼうっとしていた桔梗に、藤豆は口を尖らせながら憤慨している。桔梗と希彦がコソコソと何を話していたのかと気になっているのだ。希彦に恋をしている藤豆は、まさか東宮の妃候補でありながら、希彦といい仲になったのではないかと、誤解している。
「それに、あんなに近くで希彦様の綺麗なお顔を見られるなんて、ずるいです!!」
「ずるいって……あのなぁ、藤豆。これはそういう問題じゃ」
「じゃぁ、どういう問題ですか!? 私には一生恋をするなと!?」
「……だから、そういう意味じゃ……————もういい。めんどくさい」
一人騒いでいる藤豆を放置して、桔梗は考える。仮に希彦の言うとおり、帝が蘭子を気に入り、手を出したとしても、あまりに早すぎないだろうか。普通、そんなことはしないだろう。相手は、自分の孫を生むかもしれない、息子と変わらぬ若い姫だ。確かに、帝には何人も側室がいた。若い頃から美男子であることは有名だったし、側室がいることは別に悪いことではない。地下に誰にも知られていない道があるのだから、どこへ行くのも帝の自由だ。あの隧道が続いている先であれば、きっと、誰にも知られずに宮中から出ることだって可能だろう。蘭子ではなく、他の女のところへ行くことだってできる。隧道がどこまで続いているのか、まだ全て調べたわけではないが、帝の他にもあの隧道の存在を知っている者が、帝が眠っている間に、毒を飲ませて逃げたのか……
「いや、でも、部屋の前には女房が二人いたから無理か」
東側の棟とは違い、秘密の小部屋は蘭子の部屋とは隣接していない。蘭子の部屋へ行くには小部屋から出て本当に数歩ではあるが廊下を通らなければ……だからこそ、最初に帝が酒瓶を持って訪ねてきたときは、女房たちに姿を見られている。
「帝が毒を飲んだのは、蘭子の部屋に来る前か」
効き目が出るのに、少し時間がかかる毒だったのだろうか、などと考えていると、そこへ粟乃が夕食の膳を持って入って来る。
「姫様、いくら成り行きで捜査を手伝っているとはいえ、あまり深くお考えにならないでくださいませ。眉間に皺が寄ってしまいます。お父上のようになってしまいますよ」
「う……それは嫌だ」
桔梗の父は、眉間に深い皺がある。昔から思い悩むと眉間に力を入れる癖があったようで、そのせいで実年齢よりも老けて見えることを気にしていた。桔梗はそんな父に目元がよく似ており、そういう癖までそっくりだった。ただでさえ、同じ年頃の他の姫や女房たちより上背があるせいか大人びて見える桔梗は、これ以上老け顔にはなりたくない。ぐりぐりと眉間を指でほぐしながら、ぼんやり膳を見ているとキラキラと光っている酒が盃に注がれる。
「……粟乃、このこの酒は?」
「こちらにございますか? 中宮様の計らいだと聞いていおります。なんでも、帝は亡くなる前にこのお酒を好んでお呑みになっておられたそうで、帝を偲んで————とのことです。本来は、皇族の限られた一部の方でしか呑むことができない、希少なお酒だそうですよ」
盃の中で、小さな泡が浮いては割れてゆく。帝の秘密の部屋に並んでいた酒瓶の状態では、全く気がつかなかったが、実際に口にしてみるとそれはしゅわしゅわとしている甘い味の酒だった。
「へぇ、味はまるで違うけれど……あれに似た口当たりだな」
桔梗がふと思い出したのは、瑠璃領で三年前に流行した謎の病だ。特に若い男女の間で流行したその病は、瑠璃領の医師の誰も原因を突き止めることができなかったが、たまたま病を発症した者たちの共通点に気が付いたのが桔梗だった。病が流行りだす前、瑠璃領では山間にあるとある滝から採れる水が飲むとしゅわしゅわとしている不思議な水として有名になった。飲むと健康に良いとされていたのだ。さらに水とほぼ同時期に流行ったのが、他国の商船が運んできた
蜂蜜と滝の水を一緒に摂ると、嘔吐や高熱という症状が出るのだ。どちらも健康に良いとされるものだったが、この二つをかけ合わせると、毒に変わってしまう。滝を封鎖し、滝の水を飲んだ日は小龍を食べてはいけないことを領民たちに周知させると、すっかり病は治ったのである。
「姫様は、あの日以来、あの滝の水を一切口にしておりませんものね」
「ああ、私は滝の水か小龍を選べと言われたら、小龍の方が好きだからな。水には味がないし……————食べ合わせ?」
桔梗は空になった盃を見つめながら、ふとそう呟いた。この光る酒も、あの滝の水と同じだとしたら、何か、一緒に口にしてはいけないものを、帝が口にしたのではないか————と、そう考えたのだ。
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