事件(二)

 桔梗と藤豆は、その死体を見た。蘭子の部屋は桔梗の部屋の真向かいにあり、二人は騒ぎを聞いて様子を見に廊下に出たのだ。若い女房と武装した女官が急いで医師を呼びに慌ただしく出ていった後、扉は開け放たれたままで、中を覗くと青い顔をしている年配の女房が蘭子に寄り添い、蘭子は何が起きたのか分からずに呆然としながら布団の上に座っていた。そのすぐ足元で、口から何か、泡のような物を出し、猫のような大きな目を見開いた男が倒れている。二人ともどうしたらいいのかわからないという様子だった。すぐに医師と騒ぎを聞きつけた側仕えらしき男など大人数がどっと集まってきた。妃候補のいるこの区域は、基本的には東宮以外の男子禁制であるが、そんなことを気にしている場合ではない。帝が、こんなところで死んだ。それも、明らかに何か毒を盛られたような形跡がある。状況から見て最初に容疑をかけられたのは、蘭子だった。

 桔梗は、紫苑に渡された小瓶の中身を疑ったが、あれは東宮との間に子をなしやすくするためのものだ。蘭子がそれを帝に飲ませたとは考えにくい。蘭子自身も、なぜ帝が死んだのか何もわからない様子だったし、嘘をついているようには、桔梗も思えない。


 とにかく謎が多いこの事件の捜査の指揮をとったのは、鈍色の狩衣を着た希彦まれひこという若い男だった。中宮の命で動いているとのことであったが、当日の事情聴取に来た希彦を見て、桔梗も藤豆も絶句する。

「そんなに驚いた顔をされても困るのだが……」

 あまりにも、希彦の顔は死んだ帝に似ていたのだ。猫のような目元が、特に。一瞬、帝が化けて出たのかと思ったくらいである。

「桔梗殿は、蘭子殿の部屋から何か物音を聞いていたり、何かを見ていたりはしていないだろうか?」

 眉尻を下げ、少し困ったような表情でそう訊ねる希彦は、なぜだかとても色っぽい。桔梗の隣にいた藤豆は、思わず頬を赤く染めていた。桔梗とは逆で、こちらは上背はあるが女のような美しい顔をしていた。藤豆は「綺麗……」とつぶやいた後、すっかり上の空になってしまっている。

「特に何も……あの日は東宮様と個別にお話をした後は、特にすることはなかったので早いうちに寝てしまったので」

 事件の前日は、午後から妃候補が一堂に会して妃選びが無事に終わること願う儀式が行われていた。帝と中宮、東宮は御簾の向こう側からその様子を観ているだけだったが、その後、順に一人一人個別に呼ばれた為、東宮とは直接話す時間があった。それも東宮は御簾の向こう側にいて、桔梗からは東宮の顔はよく見えなかったが……。桔梗が呼ばれたのは、紅玉領の姫たちの後の三番目で、四番目が蘭子。その後、翡翠領の姫たちという順番だった。本格的な試験は明日からという事で、紫苑から渡されたあの怪しげな小瓶を隠し後は夕食を食べ、普段より早く寝てしまていた。

「夜中に一度、目を覚ましましたが……不審な音や話し声などは聞いていません。東宮様の御渡りがあったようだと、女房が話していたのが聞こえたくらいですね」

 桔梗が聞いたのは、蘭子側の女房たちだ。まさか初日から御渡りになるとは思っておらず、慌てて準備をしているようだった。

「随分と積極的でいらっしゃるなぁと、少し驚きはしましたが……」

 顔は見れなかったが、東宮と二人で話をした感じではなんとなく奥手というか、とても誠実そうに思えた桔梗は、意外だなぁと思ったくらいで、少し話したくらいでは男はわからないものだなぁとさえ思っていた。初日からとは、実はかなりの女好きなのではないか————と、口出しそうだったのをぐっと堪える。こんな事を言ったら不敬になるかもしれないからだ。

 そういうところは弁えているからこそ、妃候補に選ばれたのが桔梗という女である。頭はかなり良いし、基本的に合理主義はなのだ。余計な発言をして、厄介なことに巻き込まれるのは避けたい。だからこそ、あの小瓶の話もしなかった。隠していたわけではない。希彦が中宮からの命を受けて捜査をしているなら、小瓶の中身が原因ではないはずだからだ。わざわざ蘭子に毒を持たせて帝を殺し、その犯人を探すように命じるわけがない。あの薬は、東宮に飲ませるもので、息子である東宮を紫苑が殺害する理由にも見当がつかなかった。そんな事をしでかして、なんの得になるのかがわからない。

「私より、警護の者に聞いた方が役に立つのでは? こちらでは不審者の侵入を防ぐために、夜間の見回りを女官たちがしていると聞いていますが」

 東宮殿の手前に建てられている三棟の建物は、妃選びの期間、男子禁制となる。その為、警護の為に武の心得がある訓練を受け武装した女官たちが昼夜問わず常駐していた。蘭子の部屋で倒れていたのが帝だと気づき、御上と呼びかけていたのもその女官の一人だったと聞いている。

「いやぁ、それがもちろん、最初に聞いたんだが……誰も見ていないと言うんだよ」

「……怪しい人物をですか?」

 そんなの職務怠慢じゃないか、と言おうとした瞬間、希彦は否定した。

「いや、主上の方だ。あの夜、警護についていた女官の誰も、主上がここに入るところを見ていないんだ」

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