第二章 捜索

捜索(一)


「『手に入れたいものがあるのなら、そのもののことを。誰かに会いたいのであれば、会いたい人を心に思い浮かべなさい』……って」

 本当に御堂の中に一人にされてしまった葵は、指南書を読んで眉根を寄せた。今まで付き添いで来たことはあるが、自分でやるのは初めてのことだった。

 こういう神仏の力を信じていないわけではない。誰かが亡くなれば成仏して欲しいと弔う気持ちを持つこともある。熱心に信仰しているというわけではないけれど、「悪いことをしたらお天道様が見ている」だとか、そういう迷信じみたことは常に身近にあった。

 盆や正月、縁起物を集めてみたり、御三家と呼ばれている領主の屋敷でそのほとんどを過ごしていたということもあり、よくわからない神事の準備を手伝うなんてことも。

 そう考えると今日会ったばかりの、あの胡散臭い怪しい男より、由緒正しいお寺の方が信用できる。

「……でもこれで見つかったら、願掛けのおかげってことになるのかしら? それとも、あの男のおかげ?」

 どちらとも取れるじゃないかと、あれこれ考えていたが、いなくなった桜子のことを思うと、見つかりさえすればいいや、という結論に至った。

 葵は指南書に書かれている通り、黄金に光り輝いている観音菩薩の前に座り、読経を始める。難しい漢字と口馴染みのない言葉の連続で、最初は桜子の顔を思い浮かべるどころか、読むこと自体に苦労したが、七回目を超えたあたりですっかり口が慣れてしまった。数珠も置いてあった為、一周すれば百八回唱えたことになる。その間、葵は桜子のことを思い浮かべた。


 桜子に戻って来て欲しい。どうにか、生きていて欲しい。そして、東宮の妃選びで正室に選ばれ、将来は皇后の座に。桜子を皇后にする為に、幼い頃から色々とやらされて来たのだ。その肝心の桜子がいなくては、これまで自分がしてきたことは一体なんだったのか……

 母と離れた後も、他の大人たちに混ざって、将来は桜子の女房として支える為に、一緒に受けた貴族としての教養だけじゃない、葵はいざという時のために、女であるが剣術や体術も学ばされた。身体中に痣ができて、手には潰れた豆の痕が固まって、皮膚を分厚くしている。

 柔らかくて、すべすべとした桜子の手とは違う、男みたいな手だ。綺麗だと思った桜子の母の手とも、水仕事ばかりで荒れていた母の手とも違うものになっている。

 それもこれも、すべて、桜子のためだ。


 ————姫さまを必ず、皇后様に。


 それは、葵だけじゃない。

 翡翠領の者なら、皆が願うことだ。

 皇后に翡翠領出身の桜子が立てば、翡翠領も少なからずその恩恵を受けることになる。

 翡翠領の景気が良くなれば、あの頃の自分のように、金に困って他領に売られそうになる、そんな子供達を少しでも減らせれば……

 自分の手が男のようでも、構わない。

 左の頬にできた痘痕も、皇后付きの女房となってしまえば、己の肌の美しさなどどうでもいい。


 経を唱えながら、葵は桜子と初めて会った日のことを思い出した。

 それは、葵にとっては二番目に古い記憶である。

 一番古い記憶は、大きな熊のような、毛むくじゃらの見知らぬ大男に連れ去られそうになった時、男の肩から見下ろした、青ざめた母の顔である。




 * * *



 葵は、自分の父親の顔を覚えていない。母の話しによれば、父は翡翠領に住む下級貴族であったそうだが、葵が三歳になるころに病気で死んでしまった。その葬儀に、借金取りが取り立てに来るまで、母は自分の夫が多額の借金を抱えていることを知らなかった。当然、すぐに返せるわけもなく、顔も腕も毛むくじゃらで、熊のような借金取りの大男は葵を借金の形として連れ去ろうとしたのだ。

 どうすることもできず、困っていた母と葵を助けたのは、葬式に遅れてやって来た、当時の翡翠領の当主・央尋なかひろである。央尋は葵の父に何か大きな借りがあったらしく、その時の礼だと言って、父が作った借金を代わりに全て返し、当分の生活費も出してくれたのだが、働き口を探さなければ、とても今まで通りの生活はできない状態だった。

 そこで母が相談すると、央尋のお屋敷で女房として雇ってもらえることになったのだ。

 当主家としては、ちょうど将来、桜子が皇后となる時、そばで支える人材の育成をしようと考えていた頃で、葵がいたから、女房として雇ってもらえたという面もあった。最初の頃は家から通っていたが、桜子が葵を気に入った為、母子は翡翠領で一番大きな当主屋敷に移り住むことになる。

 葵が自分の母の手と、桜子の母の手がまるで違うことに気づいたのは五歳になったばかりの頃で、その年の終わりに、桜子の母は末の弟を産んですぐに死んでしまった。


「葵、葵! これを見て」

「なんですか? 姫さま」


 その葬儀が始まる前、桜子が葵に見せたのが、あの翡翠の桜の簪だ。


「これね、お母様の形見なの。とっても綺麗でしょう? わたしね、ずうっとこれが欲しかったのよ」


 そう言って笑っていた桜子の顔は、とても嬉しそうだった。

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