失踪(四)

「まったく、これでは足跡も追うのは不可能だな」

 小柄な側仕えの男・狗丸いぬまると葵だけを引き連れて、桜子が行方不明となった山寺を訪れた希彦は、御堂周りの地面を見て呆れていた。

「足跡を追う……?」

 それまでただ黙ってついてきた葵は、意味がわからず聞き返した。最初は希彦をただのお坊ちゃんだと思っていた葵であったが、狗丸の話によれば朝廷には帝直属の人探しやどの部署に任せるべきか微妙な事件などを調査する部署があり、希彦は若くしてその長を務めているらしい。「一見やる気がないように見えるかも知れないが、帝からの信頼の厚い優秀なお方であるから、安心するように」と言われて、半信半疑のまま様子を見るため、葵は黙っていたのだ。

「これを見てみろ」

そんな葵が、ついに口を開いたせいか、少し得意げに微笑し、希彦は地面を指差しながら続ける。

「二の姫が消えた日は、早朝まで雨が降っていた。土はぬかるみ、何者かがこの場所から連れ出したか、本人が人知れず抜け出したのであれば、その足跡をたどる。足跡を見るのは人探しの基本だ。それが、見てみろ」

 御堂周辺の地面には、無数の足跡が残っていた。桜子がいなくなったことに気がつき、周辺を捜索した多くの者たちの足跡だ。

「……確かに、これでは、どれが姫さまを攫った輩のものかわかりませんね」

「そういうことだ。足跡があれば、ある程度どちらの方角へ進んだかわかったものを……これだから素人は困る。まぁ、地下にでも抜け道があって、まるで違う道を通ったというのであれば、それも無意味ではあるが」

 希彦が顎を軽く上げて指図すると、狗丸が立てかけられているだけになっている障子扉を退けた。内側から鍵がかかっていたため、僧侶たちが体当たりで扉を壊したので、修繕の大工が来るまではこの状態なのだという。鍵をかけることはできないので、若い僧たちが代わる代わる警備のために立っていたので、狗丸は戸惑う彼らに扉を手渡した。見た目に反して、狗丸は力持ちだなと葵が思っていると、希彦は浅沓あさぐつのままづかづかと土足で御堂の中に入ってしまった。


 葵はきちんと草履を脱いで、床に残ったままの小梅の血の跡を踏まないように気をつけて中に入った。

 この御堂での願掛けは、観音菩薩の前に座り、願い事を心に思い浮かべながら経を百八回唱えるのだが、その姿を誰にも見られてはいけないという決まりがあった。それは昔からいわれているもので、何故見られてはいけないのか、という疑問をおそらく誰も抱いたことはない。読み上げる経本と一緒に、その手順や決まりが書かれた指南書も置いてあるため、そういうものであるという認識しかなかった。

 翡翠領の上級貴族なら一度は必ず来たことがある有名な山寺だ。葵もまだ女童だった頃に何度か付き添いで来たことがある。いつも小梅がやっていたように、読経が始まったら障子扉の前に座って終わるのを待ってるのが仕事だった。当時は障子扉に穴は空いていなかったが、もし空いていたとしても、決まりごとは守る真面目な性格な葵であれば、きっと覗いたりはしなかっただろう。


 希彦は台の上に置いてあった指南書をぱらりとめくりながら、葵に訊ねる。

「左目を無くした女童の話では、興味本位で中を覗いてしまったのだったな? 決して、経を読み上げている姿を見られてはいけないという決まりがあったというのに……」

「ええ、そう聞いています。障子扉に穴が空いていたので、出来心だったようです」

 その出来心を抑えられず、小梅はあんな目にあってしまった。ここへ来る前に目を覚ました小梅の話によれば、白い光が経を読んでいた桜子の背中を包んでいたらしいが————

「そして、中に誰もいないことに気づき、扉を壊して中に入れば、二の姫の姿は消えていたと。例の

 葵は、その唯一残されていた翡翠の簪を楓から預かっている。翡翠で作られた桜の形をした飾りがついたその簪は、今は亡き桜子の生母の形見である。桜子は常にその簪を持ち歩いていたし、妃選びのために東宮殿へ登る時も髪に挿すはずだった。御堂に桜子の姿はなかったが、その簪だけは残っていた。

「今その簪はどこにある?」

「私が持っておりますが……」

「見せよ」

 桜色の帛紗ふくさに包まれたそれを出して、そっと広げて希彦に見せる。

「……折れているな。誰がやった?」

「わかりません。見つかった時には、すでにこの状態であったと聞いています」

 簪を見つけたのは楓だ。桜子が座していたであろう場所に、折れた状態で落ちていたそうだ。手で曲げて折られたとか、足で踏んだというより、脆くなり形が崩れて割れたような、不自然な壊れ方をしていた。改めて折れてしまった簪を見て、葵は桜子が心配になる。


 ————姫さま、どうか、どうかご無事でいてください。


 この簪のように、桜子がどこかで傷ついているのではないかと、悪い想像ばかりが膨らんで、泣きそうになるのをぐっと堪えながら下を向く。桜子の裳着で泣いてしまったあの日以来、葵はもう泣かないと決意した。自分がしっかりして、桜子を支えるのだと、ずっとそう思って生きてきたのに……


「これは、人の仕業ではないかも知れないぞ?」


 そんな葵の心情なんて意に介さず、希彦は朗朗とした声でそう言った。

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