菊咲月
火鳥明日香
一
店内は満員に近く、少々騒がしい。奥のテーブル席にオリーブコートを着た女が座っていた。
テーブルには灰皿とコーヒーだけだ。
彼女はずいぶんと熱心に本を読んでいる。
無造作に煙草の煙を宙に吹き出し、灰皿に煙草を置き本を再び読む。彼女は気配に気づいたのか本から顔をあげ、俺を見る。少し微笑んでみた、悪意がないことを示すための微笑みだ。
「間違っていたらすまない、前に一度会ったことがあるよね」
「ええ、きっとあるわ」
ウェイトレスが戻てきて尋ねる。
「ご一緒ですか?」
「そう、一緒」
ウェイトレスはメニューをテーブルの上に置く。俺は彼女の向かい側に腰を下ろし、メニューを手に取る。
「少しだけ座って良いかい。バーが開くまでだから」
彼女は少し顔をしかめる。
「そう言うことって、まず最初に尋ねるものじゃないの?」
俺はその意味について少し考える。
「誰かと待ち合わせしているのか?」
「ちがう、礼儀の問題として」
「そうだな。相席して良いかどうか最初に尋ねるべきだった」
彼女はめんどくさそうに小鼻をさすった。
「もう食事は済ませたのかい?」
「特に何も食べてない」
俺はメニューを一通り見てからメニューをテーブルに置いた。
ウェイトレスが水の入ったグラスを持ってきた。ドリップコーヒーとポテトを注文した。
「それと彼女のコーヒーをおかわり」
ウェイトレスは手にした機械に注文を打ち込み、読み上げて確認する。
「ご注文以上ですね、すぐにお持ちいたします」
ウェイトレスが去っていくのを眺める。彼女は確かめるように顔を見つめる。
「名前が思い出せないんだけど、教えてくれない?」
「俺の名前?」
「そう」
「教える必要もないさ、とことんつまらない名前なんだ。時々自分でさえ忘れてしまいたくなる。君の名前は?」
「じゅんこっていうの。おばさんくさい名前でしょ、嫌になっちゃう」
彼女は灰皿で煙草をもみ消す。
ウェイトレスがドリップコーヒーとポテトをテーブルに運んでくる。彼女のコーヒーカップに新しいコーヒーを入れる。そして注文された物が全て揃っているか確認する。
俺は運ばれてきたコーヒーを一口啜る。それから片手で二、三本ポテトをつまんで食べる。
「君はなんでそんなに分厚い本を読んでいるんだ?」
「なんとなくよ。読んでいないと落ち着かないの、あなたは?」
「俺はなんとなく外でコーヒーを飲みたくなったんだ。君とほぼ同じ理由だ」
俺はコーヒーカップを皿に置き、彼女を見つめる。
「どんな本を読んでるんだい?」
彼女は黙っている。書店のカバーがかかっていてなんの本なのかわからない。
「持ち運ぶにも大変な大きさじゃないか」
彼女はやはり黙っている。
俺はポテトを食べ終えた。ウェイトレスが水のおかわりを注ぎにくる。俺はそれを断る。
「そろそろ行かなくっちゃ」
「私も一緒に行かせて」
「そりゃ良い、一緒に飲もう」
伝票を手に取り、金額を確認する。
「俺が払う」
「ありがとう」
彼女は頷きながら微笑んだ。店内にはボブ・ディランの『風に吹かれて』が小さく流れている。
二
重い扉を押し開けてから、暖房の暖かい空気
を吸い込んだ。店の中には煙草とウイスキーの匂いが混じり合って漂っている。
俺と彼女は仄暗いバーのカウンターに横並びで座った。俺はビールを二つ注文してから音楽をリクエストした。
「ソニーをかけてくれ。ロリンズの方だ」
俺はカクテルを何杯かずつ飲んだ。
彼女はあまり酒に強くないらしく数杯ですっかり泥酔してしまった。
バーが少しずつではあるが、あまり居心地が良いとは言えないほど混み合ってきた。
「俺の家に行こう」
「ええ、今日は疲れたわ」
俺と彼女は二人でバスルームで体を子供のように洗い合あう。そして彼女の髪を拭いてあげた。彼女の肌は艶とハリがあり胸はそれなりにあった。俺は彼女をそっと抱いた。
男のシャンプーの匂いにまじって彼女の髪の甘い香りがする。俺は指で彼女の下腹部を撫で彼女の柔らかい肌の感触を確かめた。
俺は彼女の中に入った、彼女と熱く愛し合いそして彼女の中に射精した。
「あなたって、どんな仕事をしているの?」
「フリーター」
本気?バカみたいね。と彼女が大笑いしながら言った。
仕方ない、20代後半をこんな生活で台無しにしているんだから、だが働くことこそが正義なのか。俺はそうは思わない。
菊咲月 火鳥明日香 @ASUKALIT
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