無口な相合傘

伊賀ヒロシ

無口な相合傘

―仕事からの帰り道。


駅の改札を出て家に向かって歩いていると、急に雨が降ってきた。

降り始めから強めの雨が私の頬を川のように伝っていく。

顔から跳ね上がるその小さな水飛沫が、暗闇に照らされた街灯に反応する。


私は持ち合わせていたビニール傘をパッとさし、急いで家路へと向かう。

駅から徒歩15分、近道をする為裏通りの砂利道を抜ける。

決して近くはない家まで、足元に気を付けながら歩く。


人通りのあまりない薄暗い裏通りを歩いていると、同じ方向へと歩いている一人の女性が目に映る。

その女性は傘も差さずに、半ば濡れる事を諦めているかのようにゆっくりと歩いていた。ただ、耳に届く雨音と砂利道を踏む音が、彼女の存在をぼやかしていた・・・。


通り過ぎようかと思ったが、その時は視界に映るその女性の後ろ姿が、私の勘違いかもしれないが・・・、何となく寂しそうに見えた。

少し、自分だけ傘を差している事に申し訳なさを感じてしまった私は、気付くとその女性に無意識に声を掛けていた。


「あの、良かったら。一緒に入りませんか。風邪をひきますから・・・。」


私は相手の顔を見る事もなく、真っすぐと正面を向きながら傘の中にその女性を入れた。勿論、嫌がられるかもしれないが、その時は何も考えてはいなかった。


「あ・・・」


彼女が少しだけ驚いた様子で呟いた言葉が雨音に紛れて聞こえてきた。


「有難うございます・・・。」


よく考えると、私が持っていたのは小さなビニール傘だった為に、右手で持つ傘の下に入った彼女の右側は濡れ続け、私の左側もずぶ濡れになっていく。

あまり傘を差す意味は無かったのかもしれないが、そんな事を気にする事も無く、二人はただ一つの傘の下で歩き続ける。


それからの時間、お互いに知らない人と無言で前だけを向いてひたすら歩くだけ。

何とも言えない不思議な時間が二人を包んでいく。

目の前の路面には、街灯によって浮かび上がる斑模様の不揃いな光。

いつもより静かで長く感じる時間が、より周りの僅かな音を耳に届けてくれる。

聞こえてくるのは、傘に叩きつける雨音と、ぬかるんだ砂利道を靴が踏みつける足音だけ。


(ザー、ジャッ、ジャッ、ザー、ジャッ・・・・)


そして、自分の家が近付いた時、私は思わず傘から手を離し相手に渡していた。


「あの、私の家はすぐそこなので使って下さい。」


それだけ言うと、私は走って家まで向かった。


背後からは、


「あ・・・、有難うございます。」


という言葉が微かに聞こえてきた。

結局ずぶ濡れになってしまったが、その数分間の素性も知らない相手との一つの傘の出来事は、何故か時が経っても忘れられない「想い出」となっている。


人との出会いは、言葉の無い世界にも存在するのだと思った夜だった。


― いつからか、その日の出来事が雨粒の反射する光と共に蘇るように・・・。

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無口な相合傘 伊賀ヒロシ @takocher

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