おいしいベランダ。文庫未掲載SS集

竹岡葉月

第1話 まもり、スパイシーでホットで危険な賭。

 ──ここに、一人の男がいる。


 男の名は、亜潟葉二。身長180センチ越えの恵まれた体躯に、シャープに整った顔立ちの持ち主で、長い手足も相まって、ランウェイも歩けそうな男前である。

 ただし。

 そうただし。

 激務のデザイン事務所を退社してフリーになったとたん、ジャージに瓶底眼鏡でそのへんをうろつくようになってしまった。趣味と実益をかねたベランダ菜園も繁栄をきわめ、まもりに対してまったく隠さなくなってしまった。

 その残念きわまりない男はただ今、『パレス練馬』502号室の台所に立って、とんとんと野菜を切っている。


「いいか、まもり。俺が今作ってるのは、なんの変哲もない野菜炒めだ」


 説明すら偉そうである。


「そしてこれから切って入れるのが、運命の分かれ道だ」


 彼がそう言ってザルから取り出したのは、今さっきベランダのプランターから収穫してきたシシトウである。


「こいつは、ナス科のトウガラシの甘味種だ。普通に食えば辛味はない。でも、まれに激辛なものが混じる」

「知ってますよ。前にも当たったことありますし」

「このシシトウが普通のシシトウだった場合、俺は──しばらくジャージを着るのをやめようと思う」

「なんと!」

「多少目が死のうが、極力コンタクトにする努力もしよう」

「瓶底眼鏡も取りやめってことですか!」


 大変だ。夢のようだ。


「ああそうだ。おまえのクソなリクエスト通り、スーツにネクタイ締めて、車で大学に迎えにいってやってもいい」

「待ってください動悸がしてきました」

「でも。万が一にも辛かった場合、この先も好きなようにさせてもらうからな」


 そんな交換条件、先に提示されたドリームに比べれば些細なものだと思った。まもりはうんうんと頷いた。


 かくしてまな板の上でシシトウが刻まれ、他の野菜と一緒に、油を敷いたフライパンに投入された。強火でさっと炒め合わせ、味付けは塩コショウに、中華だしのシンプル路線。


「いざ──ショウダウンだ」


 実際に食卓に上った野菜炒めを一口食べたまもりは、箸を持ったまま叫んだ。


「辛い──っ!」


   ***

 

「……ほんとあの時は、普通に賭に負けたと思ったんですよね」


 まもりは葉二の台所の食料庫を漁りながら、ありし日の約束と敗北を思い返すのだ。


「賭?」

「葉二さん、あの時、この瓶使ってませんでした?」


 まもりは食料庫の奥から、小さな蓋付き瓶を取り出した。じっとりと葉二をにらみ付ける。

 今なら分かるのだ。この瓶の中身は、油だ。

 太白ゴマ油を小鍋に入れ、刻んだ青トウガラシとともに熱して作る自家製白ラー油である。

 一般的なごま油と違い、太白ごま油は色も薄くて無臭に近い。葉二はサラダ油のふりをして、これを野菜炒めに使ったのだ。


「辛かったわけですよ。シシトウの辛さじゃなくて、フライパンに入れた油が辛かったんですから」

「……さあな。証拠があるなら出してみろ」


 しらばっくれるなら目をそらすな、卑怯者め!


「どうしてそうセコい真似しますかね」

「知らないなあ」

「馬鹿──っ!」

「時効だ、時効」 


 男の名は、亜潟葉二。

 見た目はイケメンの、毒舌園芸ジャージ男。

 まもりのお隣さんで、おいしいご飯を作ってくれる人で、それでも大好きな人なのだ──大変困ったことに。

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