第一話②

【――――け】


 この響きは忘れない。あの時、事故にあったときと同じ響きだった。思わず窓の方へ視線を送った。

 昔の妖怪の絵で見るような、この世のものとは思えない風貌ふうぼうの化け物が窓からこちらを見ていた。

 大きくて全身を見ることは叶わないが、虎のような猿のような顔に体はコウロギのような昆虫だった。


 

 その姿の感想が頭に浮かぶより前に、窓の外の異形がなにやら呟いた。


【とびゆけ】



 今度ははっきりと聞こえた。その言葉の意味を頭で理解するよりも早く、意味は身体が理解した。

 車ほどのスピードで窓とは正反対に吹き飛び、身体は部屋を抜け、廊下を抜け、廊下の窓すらも抜け、病院の中庭まで強引に運ばれた。一瞬の出来事につき脳内が疑問符で満たされたが、その疑問符に答を求める余裕があった。


 それほどまでに吹き飛ばされたはずなのに、何故か不思議と痛みはほとんど感じなかったのである」

 

 外からなら全身が確認できた。それは大型トラック並みの大きさだった。

 

 なんだよ、あれ……

 あの化け物は何?

 なんで自分が?

 なんで動ける? なんで痛くない?

 

 疑問符は1つも解消されることは無く、ただ病院の屋上にたたずみ、中庭の自分をじっと見つめる化け物を目でとらえることに精一杯だった。化け物の方も、ぴんぴんしている自分を見つめ不思議そうに首をかしげていた。

 


 瞬間、奴がまた叫ぶ。

【とまりて】

 

 奴が言葉を発した瞬間、何やら空気のゆがみの様なものが自分に飛んでくるのが分かった。

 駆ける。

 まずは逃げなければ。あの歪みに当たったらダメだ。

 

 奴が屋上から降りて自分を追いかける、ドアや壁などはお構いなしに一直線だ。 

 

 このままじゃ死ぬ。

 怖い。

 怖い。

 怖い。


 

 今まであった疑問符はどこかへと消え、ただそう心の中で唱えながら駆ける。

 逃げながら辿り着いた病院の大広間。そこの鏡のようにきれいに反射する銀色の柱を見た。

 

 

 そこに写るのは必至に逃げている自分と追いかけてくる化け物、———そしてボロボロになっていく病院。


 

 ———ふと自分を励ましてくれた人たちの事が脳裏によぎった。

 

「お前が何をこれからしようとも、応援してるぜ」

「ライブに何回も行ってました! これからも頑張ってください! 」

「あんたテレビでよく見る人だよな? 腐るなよ。今は谷だろうが、いつかきっと山がくる」

「お兄ちゃんがオセロしてくれるから病気も怖くない! 」


「お互い退院したらパーっと宴会でもしましょうよ!」


 考えるより先に身体が動き、大広間から外の駐車場にでた。車もほとんどない空間で奴と一対一になった。

 自分が何とかしなければ。———まだ彼らに恩返しができていない。

 ここまで走ったのに息が切れていない不思議な身体に後押しされるように、そう心の中で呟いた。走る方向を変えた。


 


 ———数刻すうこく後、自分と化け物の間に見覚えのある黒髪が降ってきた。


 

【とびゆけ】


 

 化け物が病院に向かって勢いよく吹き飛んだ。

「流石。あなたの予定通りの出現ね、弦之助げんのすけくん。律歌りっかちゃんの祓所はらえどの展開もいいタイミングだったわ」

 

 このシルエットと声は間違いない。華子さんだ。

 

「よかった。響くんに施した拝詞(はいし)も効いたみたいね。流石に二言目からは、完全には防ぎきれなかったみたいだけど」

 彼女が自分を一瞥し、呟く。

 

 なんでここに華子さんが? さっきの名前は誰? ハラエド?ハイシ?

 

 ———1つも、一言も理解が出来なかった。


 

 彼女のまとう雰囲気も、口調も、自分と楽しそうに会話していた時のそれとは全く異なっていた。

 ただ平伏しそうになるほどの気品を感じた。

 

「さて響くん。お疲れ様。よくがんばったわね」

「あとこれも。一時的だけどね。あなた次第だけど。」


 

 ———そう矢継ぎ早に話しながら、なにやら小さなしめ縄のような物を首に付けられた。まるでチョーカーのようだ。


「こ、これは?」


 


 ———?


 


「あれ、声が出る」

 こんな状況なのに、正直これまでの出来事が霞むほど嬉しかった。

「な、なんで? あ、ありがとうございます! これは一体、あとなんであなたが、–––––」

「どういたしまして。話はまた後でね。とりあえずあいつを浄化しないと」

 自分の言葉を遮るように彼女は答え、こちらに叫びながら向かってくる化け物に向かって飛ぶ。

 

「いいとこ見せなきゃね。一瞬で終わらせるわ 」

 

 空中で呟き、彼女の入院着が変化していく。

 あれは着物だろうか。 子供の頃に神社の祭りでみた神主の風貌ふうぼうに似ていた。

 蝶の柄の綺麗な紋様もんようで、黒髪をたなびかせ宙を舞う彼女は、さながら本物の蝶のように妖艶だった。


【とびゆけ】


 奴の上空に一飛びした彼女が呟く。化け物が地面に押しつぶされた。

 

「やっぱり同じ言葉だ……」

「ふふっ。もう終わりかしら 」

 

 奴の前に降り立った彼女が言った。傷ついた奴が悔しそうに叫ぶ。


【つぶれよ】ォォォォ!

 奴の目の前周囲10メートルほどの地面がえぐれるように凹んだ。–––––彼女が立っている場所を除いて。

 彼女はじっと奴を見つめながら言う。

 

「ちょっと大人しくしてもらうね 」


【とまりて】


 奴が何かに縛られたように動かなくなった。

「す、すごい……」

 

 何が起きているかは全く理解が出来ないが、声が戻ったことの喜びと、ただ目の前で起こっている非日常に少しばかり興奮してしまっていた。

 ただ茫然と見とれて佇んでいる自分をちらりと見、彼女は口を袖で隠し呟いた。

「もう一押しって所ね。ちょっと派手なもの見せようかしら」


大祓詞おおはらえのことばかわひらこノゆめ】


 彼女がそう唱えた瞬間、着物の蝶文様ちょうもんようが無数の蝶となり飛び立ち、奴の全身を包んだ。



 

 ———蝶が舞う。奴はもういない。




 

 蝶の紋様が消え、無紋むもんの白い彼女は目の前にいた。ただ茫然と立ち尽くす自分に向かって彼女は言った。

 

「私は神主なの。 突然だけどあなたには神主の才能がある」

 

 続けて言った。

「あなたも今の使ってみたい? 使えるわよ。 私に付いてくればね 」



 

 ——————またステージに立てる気がした。 

 




 第一話 転職

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