わたしは旦那さまがいいので【わた婚SS】
紅雪
第1話 綺麗な人
玄関のすりガラスから差し込む淡い光に照らされた
陶器のように白い肌に、切れ長なまなざし。
この家に来てからしばらく経つが、まだ清霞の美しさに慣れることは無く、きっとこの先も息をのむような美しさに見とれる日々が続くのだろう。
清霞が美世に「どうかしたか」と声をかけるよりも先に、透けるような薄茶の髪がはらりとほどけて、その髪を束ねてあった紫色の髪紐が床へぽとりと落ちる。
美世が清霞にあげた初めての贈り物をずっと大切に使ってくれているのだが、今日は結び目が緩かったのだろう。
清霞はすぐに長く美しい指先で髪紐を拾い上げて「結ってくれるか」と美世に尋ねた。
「はい。今すぐ。」
清霞の淡々とした物言いは冷徹とも受け取れ、世間では鬼のようだとか、血が通っていないなどという噂もあるようだが美世の前では違う。
美世が結びやすいように清霞はゆっくりと背を向けて腰をおろし、彼女が丁寧に髪を結ぶのを静かに待った。
何度も清霞に触れているというのに、彼が美しすぎるからだろうか。鼓動がどくん、どくんと跳ね上がり、頬が熱くなる。
触れている髪を通して体温が伝わることはないだろう。けれど、ぐんと高まっていく体の熱がどうかして旦那さまに伝わってしまいそうで、美世は気持ちを落ち着かせようとゆっくり息を吸い込んだ。
士官としての地位も高く、異能の能力も別格、産まれ育った家柄や気品、外見、何をとっても到底わたしなんかが妻でいていい人ではないとわかっている。
「で、できました。旦那さま。」
美世が丁寧に清霞の髪を結び終え、声をかけると、清霞は美世のほうへ振り向いて優しく微笑んだ。
「ありがとう。では、行こうか」
それでも、旦那さまは「お前と一緒になりたい。」と言ってくださったのだ。少しでも期待に添いたい。そして、一日でも長く、一秒でも長く、旦那さまのお傍にいたい。
美世は柔らかく微笑んで、一歩先を歩く清霞の背中を嬉しそうに追いかけた。
日差しはまだ強さが残るが、頬を撫でる風はずいぶんと涼やかなものへと変わった。
着物も夏物から秋物へと変え、今日は淡い橙色にトンボを写したものだ。
もちろん旦那さまがこの季節にと配慮し贈ってくれたもので、もう十分ですと何度か伝えたが、彼は短く「わかった」というだけで贈り物は止まらない。
「あの・・・今日は、旦那さまの文具を買いに行くのですよね。」
清霞はあまりものを欲しがらないが、先日、普段使っていた万年筆を失くしたらしい。
ついでに、紙も買い足しておきたいのだという。
清霞が贔屓にしている文具屋で物を選んでいる間、美世も展示してある文房具を眺めながら彼を待った。
わたしには使い方もわからないものが多いわ
物を選んでいる間も、ちらちらと美世のほうを清霞が確認する様子が伺える。
出かける前だって何度も「私の渡した式は持ったか。御守りも持っているか」と確認したのに、旦那さまに気にかけていただけるのが嬉しいような、心配をかけているのが申し訳ないような、二つの気持ちが揺れ動いて結局申し訳なさが勝ってしまう。
わたしの異能がもっと強かったら
そう心が疼いた、その時だった。
「美世」
先ほどまで柔らかかった旦那さまの瞳は、一瞬で軍人の鋭いものへと変わり、わたしを少々乱暴に引き寄せた。
心の準備もなく旦那さまの腕の中へすっぽりと納まったわたしの心はまたどくんと跳ね上がり、身がふわりと軽くなる。
「どうかされましたか」と恥ずかしさと混乱で震えそうな声で尋ねようと思ったが、しかし、旦那さまの急な行動がなんのためであったのかを理解して、ぎゅっと胸の前で手を握りしめた。
「異形だ。」
表の通路から、何人かの女性の甲高い悲鳴が上がり、何かから逃げるようにこちらへ走ってくる多くの人々が店の前を転がりそうな勢いで走り抜けていく。
清霞はすぐに胸ポケットから簡易的な式を飛ばし、隊に連絡を計った。
彼の飛ばした鶴の折り紙のような式は青い空へと向かって飛び、上空へあがるころ霞のように雲と溶けて消えていく。
「私のそばから離れるな。すぐに応援がくる。」
「は、はい。」
さっと美世を背に隠し、清霞は簡単だが強力な結界を張って異形と対峙した。
異形は一般人には見えず、それは美世も例外ではではない。
見鬼の才を持たない美世には、いま旦那さまがどんな異形と戦っていらっしゃるのか見ることはできなかった。
しかし、見えない何かが襲ってくるほど恐ろしいものは無いのだ。
敵がどこにいるのか、どんな姿をしているのかも、わからず人々はあちらこちらへと思い思いに逃げまどい、静かだった街は一気に混乱へと陥った。
美世を背にしたまま旦那さまはじっと何かを凝視している。
一歩踏み出そうか、踏み出すまいか、彼には珍しく迷いが見えた。
「旦那さま。わたしはここにいますから。行ってくださいまし。」
隊の中でも抜群の実力を持ち合わせた旦那さまの実力であれば、今そこにいるであろう異形を散らすことなど、たいしたことではないのだろう。
ただ、自分が離れるとわたしが危ないと守ってくださっているから。
わたしって旦那さまから何もかもをいただいてばかり
今だってわたしのせいで旦那さまは動けずにいる
わたしが役立たずでなかったら。わたしが一緒でなかったら
家での柔らかい表情とは一転して、苦い表情を浮かべている旦那さまの横顔。
澄んだ肌に汗がじんわりと浮かび、歯がゆさからか額には青筋が立っている。
それでも整った顔立ちと、頼もしい背中が雲の上の上の人のように神々しくて眩しく映る。
見えている世界が違う
生きている世界が違う
美しくて、強くて、地位も名誉もある久堂清霞と自分は、横に並ぶ対象でも、命を懸けて守ってもらう対象でもないのだ。
ほんの一瞬、気まぐれでそばにいさせてもらえた。
それだけで十分すぎるほど、十分だ。
「わたしには旦那さまからいただいた御守りも式もあります。ですから、大丈夫です」
清霞は一瞬、美世のほうを振り向いて、胸の前で式と御守りを抱きしめる彼女を見た。
安心させるために笑顔を浮かべているのだろうが、もともと美世は嘘が下手すぎるのだ。
そよ風でも当たれば崩れそうなほど脆い、美世の笑顔。
目に涙が浮かんでいないか。
少し近づいたと思っていた彼女との距離がまた、ずっと遠くに離れていってしまったような気がした。
「いい、お前を守るのが最優先だ」
美世の儚さが気になって気を削がれてしまった。その隙を異形は見逃すことなくこちらへと手を伸ばす
「少し大人しくしていろ」
清霞が手を払うと大きないかずちが天空を割って異形の脳天へと突き落とされた。
地が割れんばかりの爆音があたりに響き、息をのんで静かに見守っていた人々がまた困惑して泣き叫ぶ。
騒々しい辺りに清霞はいっそう面倒くさそうな表情を浮かべながらも、防御態勢は崩さなかった。
そんな中、異形とそう遠くない位置から聞こえるひとつの小さな泣き声が美世の耳に届いた。
美世が気になってそちらのほうを見ると、物と物の間に挟まるように身を隠しながら、小さくなって震える5つか6つの男の子の姿があった。
逃げ遅れ、頑張って声を押し殺していたのだろうが、さきほどの清霞の雷鳴が発端となってついに泣き出してしまったらしい。
本来、美世には見えるはずのない異形の姿。
けれど、旦那さまが傍にいるからだろうか、旦那さまの式が手助けしてくれているからだろうか
うっすらとした透明な輪郭が太陽の光に反射して、宙を動いているのが見えた、ような、気がしたのだ。
その透明な何かが、泣き始めた男の子をめがけゆっくりと振り下ろされていく。
「あぶないっ!」
美世が無意識に男の子へ向かって走り出し、それに気が付いた清霞が集中力を失って結界を破られたのはほぼ同時であった。
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