婚約者の王子は正面突破する
buchi
第1話
伯爵家の一人娘、マリゴールドはとてもかわいい女の子で、エメラルドのような目と髪の毛は金茶色だった。誰もが彼女をとてもかわいがっていた。誰も口に出さなかったけれど、彼女は広い伯爵領とそこから上がる莫大な収入の相続人だからという理由もあったかもしれない。でも、それを割り引いても、誰が見ても自然に笑顔になってしまうような無邪気でかわいい女の子だった。
子どもでも親族の集まりや何やかやで、知り合いになることはある。
王妃様のパーティで、王太子殿下とはずっと年の離れた(王位継承権とは縁もゆかりりもない)第三王子のエドワード様はマリゴールドに引きあわされて、彼女のことがとても気に入ったと言い出した。
正確には言わされた。
伯爵家ではあるものの、広大な領地と裕福な産業を抱える伯爵家は、王家の末息子にはぴったりの婿養子先だった。大体、公爵家なんかはそもそもが全員身内だ。公爵位を継いだところで、お金は王室費から支出しなくてはならない。特にお金に困っている王家ではなかったけれど、息子が結婚したいならいいじゃないか。財産の方は難しくても、第三王子に新しい公爵位を与えるのは簡単だった。
エドワード王子はマリゴールド嬢より5つも年上だったので、10歳の子供をつくづくながめた。
「もうちょっと、年上の娘がいいな」
と内心思ったのは内緒である。
母の王妃様の圧がすごかった。なんとなく、逆らってはいけないことを察知した。
まあ、それにマリゴールド嬢はかわいい。将来的には美人になるかもしれない。
それに結婚はだいぶ先だ。変更があるかもしれない。
二人の婚約は華やかに発表され、世の貴族の次男、三男を嘆かせた。
大変に良い婿養子先だったのである。
何がそんなに良かったかというと、財産もさることながらマリゴールド嬢がとてもおとなしそうで、人を疑うことを知らなさそうな娘だったからだ。
チョロそう。
婿になれば伯爵家の財産を自由に使えそうだ。
しかし、エドワード王子が婚約者に決まった後は、誰もがあきらめるしかなかった。
ところがである。
そのマリゴールド嬢の両親が、突然異国の地で亡くなったと言う知らせが届いたのだった。
マリゴールド嬢は当然嘆き悲しみ、屋敷の者も茫然とした。婚約者の一家がすぐに乗り込んでくる話もよくあるが、マリゴールド嬢の婚約者は王子殿下だったので、乗っ取りにくることはなかった。だが、その隙を突いて、一番乗りを果たしたのが父の弟だった。何か若いころ不祥事をやらかして縁を切られていたらしい。ついでに言うと、超貧乏していた。それは全員の服装に現れていた。
このチャンスを逃すまじ。一家はゾロゾロと伯爵邸へ乗り込んできたのだ。
お決まりのお家騒動である。
ちなみに一家のメンバーを紹介すると、父に似ていなくもないが、どことなく下卑た顔付きの叔父。
父より若いはずなのに、どうして年上に見えるのか?
叔母の方はもっと嫌だった。
でっぷり太って、声は甲高く次から次へと取り留めもない話をずっと話し続ける。
肉に押し込まれたような黒い目が何だか酷薄そうで怖い。
そして一番問題なのは二人の従姉妹。
こちらは黙っていたが、じろじろじろじろ穴が開きそうなくらいマリゴールドを観察した。
「いい服着てるわね」
妹の方がついに口を切った。
「部屋を案内してよ。あんたの部屋を」
あんた? マリゴールドはまだ十五歳。マリゴールドの方が背は高いが、十八歳と十六歳の従姉妹は、マリゴールドよりずっと貫禄があった。
圧がすごい。それに多勢に無勢だった。
押し込まれるようにマリゴールドは自分の部屋を案内しなくてはならなくなり、親族の皆様方の圧力に耐えかねた執事や女中頭は、あまりよく知らない夫婦がご主人様の部屋を占拠していく様子を黙ってみてるほかなかった。
なにしろ、マリゴールド様ご一家に親族は少なかった。
奥様は一人娘だったし、だんなさまのご兄弟はこの叔父一人だけ。
叔父の素行がどうのこうので、彼はマルゴールドの祖父に家を追い出され、長い間貧乏してきたらしい。
「ずっと不公平だったんだ。兄貴ばかりが褒められて、財産を継いで。やっと天罰が下ったってもんだ」
「このドレス、ウエストがキツイわ。明日にでもドレスメーカーを呼ばなくちゃ」
叔父が父のガウンに身を包み、悠々と父の葉巻をふかして執事に高級ワインを注がせ、叔母は文句を言いながらも母の優雅な部屋着を嬉しそうに撫でていた。前が閉まっていなかったが。
その様子を見て温厚なマリゴールドも頭に血が上ってきて、「叔父様、そのガウンは父のものですわ」と抗議しようとした途端、誰かに後ろから足を引っ張られて床に転んだ。
「あらあ! まぬけな子ね」
姉のエレンが大きな声を出した。彼女は大柄で声も大きいのだ。
「おかあさま、令嬢教育は礼儀作法だけではありませんわ。厨房のお仕事や、部屋の片付けも知っとかなければいけないと思いますの!」
「それはそうね」
「私たちは既に習得済みですが、このマリゴールドには全く足りないと思います」
「特訓が必要ですわ」
妹のアメリアが嫌な目つきで宣言した。アメリアは母親に似てよく太って背が低く、姉妹二人とも真っ黒な癖の強い髪質だった。そして茶色と薄茶色のよく動く目をしていた。
嫌な予感は当たる。
マリゴールドは、その日から台所に追いやられ、人間がどんなに冷酷なのか思い知らされることになった。
これまでマリゴールドをちやほやしてきた料理人や女中たちは、最初こそ気を使ってつらい仕事に割り当てないようにしてくれたが、叔父たち夫婦やお嬢様のエレン様とアメリア様のご機嫌を取るには、マリゴールドの悪口を言うのが一番だと言うことに気が付いた。
彼女たちは、貴族社会の法律なんか知らなかったから、ご主人様が変わったのだと解釈したのだ。
それに楽をしたかった。
つらい水仕事やマリゴールドには無理そうな力仕事がどんどん回ってきた。
同じ年頃の娘たちもいたけれど、これまで地上の天使と崇められていたマリゴールドが途方に暮れたような顔をしているのを見ると、なんだか腹が立ってきたらしい。
これまで、どうして、皿の洗い方もわからない娘の機嫌を取り続けてきたのだろう。
いざ家事仕事をさせると、この小娘は何のとりえもなかった。
料理ができるわけでもなかったし、掃除や洗濯の要領の悪いことときたらお話にもならない。何も知らないバカである。
「どこの田舎出身の娘でも、あんたよりはマシだよね」
手順を教えながら、怒った女中は口汚く罵った。
「何回教えたらわかるんだい」
それから、自分より弱い立場の者がいると、つい権力をふるいたくなるらしい。
「奥様の部屋の掃除はあんたに任せた」
言い捨てて女中は出て行ってしまった。
マリゴールドは家事労働などやったことがないので要領が悪い。時間がかかる。どんなに働いてもなかなか片付かない。他人の分の割り当ての仕事までするとなると、ぼろが出る。
これには奥様が怒った。
「なんだい、この有様は!」
帰ってきた女中が、マリゴールド様がしてくださると言うお話でしたので、と言いつくろう。
「こんなのは簡単だ、任せろとおっしゃるので仕方なく出て行きました」
料理番も出てきた。マリゴールドはもともとは鍋を磨く仕事を言いつかっていたのである。
「鍋も満足に磨けません」
料理番は性悪だった。
「ご飯を抜きましょう」
なぜかこの提案にハッとしたのは奥方だった。薄暗い思いが鎌首をもたげた気がした。
マリゴールドは、かわいらしい娘だった。名前の通り黄色い髪が渦を巻き、星のような目をしている。ただ、細い。丈夫そうではない。
「晩御飯を抜きなさい」
料理番は陰湿な笑いを浮かべた。
この後、些細なことでマリゴールドの食事は減らされ、面倒くさいからと残り物を食べることになった。
他人の家の中のことなんか、外からはわからないだろう。何をしてもばれない。
一方で、兄夫妻の死後、叔父夫婦は、熱心に社交界に顔を出していた。だが、マリゴールドの話題には出来るだけ触れず、他人からどうして連れてこないのか聞かれた時も、まだ子どもですからで済ませていた。彼らにはそれより大事なことがあったのだ。年ごろの二人の娘を貴族社会に売り出すことだ。
「せっかく伯爵家になれたんですものね」
認識がよくわからないが、マリゴールドの叔母はよくそう口にした。嘘も百回も言えば本当になると言うヤツだろうか。
エレンとアメリアは、マリゴールドに比べたら格段に、何と言うか貴族的な雰囲気がなかった。
物欲しそうにあたりをキョロキョロし、年頃の男性を見かけるとガン見して、二人で何ごとかコソコソささやいている。
ドレスは豪華なのだが、なんだか似合っていない。
「伯爵家の娘ですから」
叔父夫婦は誇らしげに娘たちをそう紹介した。正確には伯爵家の娘ではないだろう。それに、だから何だと言うのだろう。
誰もがそう感じ、どの男性も遠巻きにしていたが、ある夜会で二人に接触してきた男性がいた。
誰あろう、エドワード王子その人である。
「「「「まあ、殿下の方からお越しくださるだなんて!」」」」
四人はとても嬉しそうだった。理由はわからなかったが、どうも夜会では浮いているような気がしていたのである。
新生伯爵家一家という触れ込みで、マリゴールド宛ての招待状も伯爵家宛ての招待状も、一通も漏らさず全部出席してきた。なにしろ新伯爵家一家なのだ。皆様に早く知っていただきたい。
それなのに、なんだかいつも会の雰囲気が芳しくない。
みんな愛想はよいのだが、聞くことはマリゴールドの話題のみ。その後、話が続かない。ぜひ聞いて欲しい自称・新伯爵家一家の話には興味がないようで、気持ちよく相槌を打ってくれるが、それで終わり。それに高位貴族になればなるほど、二度と話しかけてこないのだ。
「貴族って、冷たくて失礼な人が多いのねえ」
だが、王子殿下が話しかけてくだされば、事情は変わるだろう。
実は叔母はマリゴールドの婚約のことを知っていた。
王子との婚約! まるで夢のようではないか!
夫が伯爵になれば、娘たちも王子と結婚できるのか? 王子様って何人いたっけ?
「男兄弟は3人だな。なぜ、そんなことを聞く」
王子殿下はうるさそうに手を振った。
「じゃあ、もう売り切れですね」
偽伯爵夫人は残念そうに感想を述べた。
「それより、マリゴールド嬢はどうしている? 母に一度家を訪ねるよう言われているのだが」
王子殿下は不機嫌そうに尋ねた。
「マリゴールドは勉強熱心なんです」
叔母は答えた。答えになっていない。
「勉強? 婚約に興味がないなら、そう言ってもらえばいい」
「当家との婚約ですか? マリゴールドでなくても、もっと美しくて王子殿下をお慕いする娘が二人も当家にはおりますわ」
エドワード殿下は、自分と同じ黒髪と茶色い目の二人の娘を見つめた。
もっと、年上がいいなーと思っていた王子の望みをかなえるような豊満な娘たちである。それが尊敬とあこがれの目でエドワード殿下を見つめていた。
「マリゴールドはちっとも肉が付かなくて」
「今でも子供のようですわ」
これはまごう方なき真実だった。マリゴールドは痩せて幽霊みたいになっていた。
「一度、お邪魔させていただこう。マリゴールド嬢本人にお目にかかり、婚約について意見をお聞きしたい」
婚約解消はよくある話だった。条件が折り合わなくなれば当然の話だ。
「マリゴールドは殿下との結婚を望んでおりませんわ」
姉のエレンが思いがけないことを言い始めた。
「ええ?」
王子殿下は思いっきり驚いた。
本人ではない姉のエレンが口出ししたのに驚いたのではない。
不肖エドワード、はばかりながらこれまで女性には事欠かなかった。皆さんからイケメン、イケボと讃えられ、剣の腕前も一流、学業も一流とケチのつけようがない全宇宙のあこがれだったからだ。
自分との婚約を望まない女性なんて、想像の圏外である。
エレンは訳知り顔にうなずいた。
「自宅にこもって出てこないのです。それに過剰なダイエットに励んでいまして」
「そうそう! ダイエットに励んでいます」
自称伯爵夫人も声を上げた。
食べ物をやらなければいずれ死ぬ。
あの娘さえいなければ、合法的に伯爵位と財産はすべて自分たちのものになる。
でも、だからと言って直接手を下すのは嫌だった。
だが、料理番の顔を見た時にひらめいたのだ。
料理番の女は、自分より残酷なのだと。
自称伯爵夫人は自分の手を下さずに、最もこの世で要らない人間をあの世送りにする方法を見つけたのだ。無意識のうちに。
それと、今、ダイエットという言葉を聞いた途端、過剰なダイエットは死に至ることがあると思いだした。
素晴らしい。よくできた話だ。
「そうか」
王子殿下は、婚約解消を持ち出されても、ちっとも残念そうではなかった。
「まあ、最終的な意思確認は必要だと思うが……」
「絶対に大丈夫です。マリゴールドは結婚など望んでいません」
今度は妹のアメリアが自信たっぷりに言った。
「本人に手紙を書かせますわ」
自称伯爵夫人がいそいそと言った。
「それなら確かでしょう」
王子殿下は流石に首をひねった。
自分との婚約解消を推進する家があるとは新鮮だった。
「代わりにわたくしが!」
「いえ! わたくしが!」
自称伯爵令嬢の二人が争うように王子殿下の前に出てきた。
うん。この反応が普通だよね。
王子殿下は冷たく手を振った。
「王妃様に伝えておく」
聞いた王妃様は、息子の王子殿下よりもっと驚いた。こちらは訳の分からない自称伯爵家の出現とマリゴールド嬢が姿を見せず、ダイエットに励んでいるという情報にびっくりしたのだ。
「絶対いじめられています!」
王妃様は、正しく事情を理解して息子の王子向かって怒鳴ってしまった。
「確認してらっしゃい!」
面倒くさい。
正直、面倒なのはあの四人。
訪問しても、バカ娘二人がギラギラしながら出てくるだけで、マリゴールド嬢のカケラも見当たらないに違いない。
手紙は握りつぶされる気がするし、返事はあの姉妹から返ってきそう。
マリゴールド嬢を招待しても、見知らぬ一家がなんとも下品に飾り立てて我が物顔に現れると言う噂は山ほど聞いた。王宮からの招きなら尚更だろう。空気が読めないとか言ったレベルの話ではない。
王子殿下は正面突破することにした。
夜間、伯爵邸を襲撃する。マリゴールド嬢に会う。婚約解消の確認をする。母の王妃様に報告する。終わり。
だが、まずは邸内の間取りとか、家族の行動とかの調査が必要だ。
夜中の伯爵邸に侵入して、まかり間違って、あの二人の姉妹の部屋のドアなんかを開けてしまったらおしまいだ。大歓迎されるに決まっている。
それは全くよろしくない。
もちろん自称伯爵ご夫妻の寝室もNGだ。見たくない。
スパイには、殿下に負けず劣らず美形揃いと噂の側近の中から、特に美形を入念に選び出した。
「出入りの商人になりすまして、女中の誰かと仲良くなり、マリゴールド嬢の普段の様子を聞いてこい」
王子殿下の命令は絶対なので、側近は不本意だったが、市民の服を着て現れた。
「こんなもんでいかがでしょう」
王子殿下はつくづく側近を眺めたが、却下した。
「かっこだけ市民の、高位貴族にしか見えない」
見かねた他の側近が忠告した。
「当たり前でしょう! 彼は侯爵家の嫡男、生粋の貴族ですよ? それに顔は抜群ですが、演技力はないんです」
人選を誤ったか。
「それに、夜中に強行突破したいだなんて、もっとマシな方法がいくらでもあるでしょう!」
側近たちに責められた。側近全員がこのプランには反対だった。
「他に方法があるでしょう! 王妃様に言いつけますよ!」
別に次代の王になるわけじゃないので、側近と言っても気楽なものだ。
王子殿下は反論した。
「さっさと片付けて終わりにしたいのだ。だが、あの一家はマリゴールド嬢を絶対に出してこないだろう。ならば家宅捜索するのみではないか」
勝手な家宅捜索は罪に問われます……と言いたいところだったが、王子殿下は素早く侯爵家嫡男から平民服を奪い取って身につけた。
「何してるんですか!」
全く似合わなかった。貴族臭がプンプンする。側近全員が思った。侯爵家の嫡男より悪化している。
「母上には内緒だぞ? 行ってくる」
「え……?」
止める間もなく王子殿下は夜陰に消えてしまった。
伯爵邸への道順はよく知っていた。彼は行く道すがら情報を整理してみた。
ダイエットに励んで、社交界に出てこない変わり者の娘……本当だろうか。あのマリゴールドは律儀だ。招待状が来て、応じられないなら詫び状を必ず書く。読んでいないのではないか?
母の王妃様が言う通り、なんとなく看視されている感がある。あるいは虐待されているかも?
ようやく暗くなったばかりのころだった。王子殿下は目的の建物にたどり着くと、軽々と塀を乗り越え、物陰に
彼は婚約者だっから、何回もこの屋敷に来たことがあった。最後に来たのはいつだっただろう。その頃、マリゴールドは完全に子どもだったので、屋敷の中の誰もいない図書室や使われていないゲスト用の静かな寝室、花がいっぱいの庭が好きだった。
「海賊が宝物を隠した地図を見つけて宝探しの旅に出るお話なの」
貸してくれた本は、本当にドキドキして面白かった。あの本は返しただろうか。
「このゲスト用の寝室は狭いので使っていないの。先生に見つからないで本を読むのに最適なの」
それから、
「庭の大きな木にはうろがあるの。私が入れるくらい大きいの。あと小鳥が巣を作っていたわ」
マリゴールドは年の割にあどけない顔をしていたが、彼女の話は予想とはちょっと違っていた。
「先生を黙らせるには、先生より先にたくさん本を読んどかないといけないの」
「あ、そうなの」
「歴史とかね。おもしろいわ。算術も好きよ。どうして私の先生は答えを出すのにあんなに説明するのかしら。見ればわかるのに」
「あ、そうなの」
「鳥と虫の攻防は楽しいわ。でも、私は虫の味方なの」
普通は鳥の味方になるのでは?
なんか色々思い出してきた。
王子殿下は学園に入ってから、大勢の令嬢(先輩含む)に取り囲まれるようになった。マリゴールドとは全然違うタイプの、すごく魅力的な大人な令嬢たちである。
王子殿下をあこがれの目で見つめ、殿下を褒め称え、お近づきになりたがった。
したがって、王子殿下はそれなりに忙しかったのだ。浮かれていたともいえよう。大事に至らなかったのは、婚約者がいたからではなくて、本人が王太子殿下ではなかったから。
一歩間違えれば国の大惨事、とか、特大級玉の輿のチャンス!と言う投機性が低い分、気軽に手練手管が使え、相手が成績優秀な殿下なだけに頭脳戦、恋愛ゲーム化した。
ターゲットは美貌の第三王子。賞品に不足はない。
結果、王子殿下はまれに見るモテ王子として名を馳せた。不本意だ。
「婚約者なんか本当はいらないが、ずいぶん盾には使わせてもらったからな」
ふと目の前のドアが開いて、がりがりにやせ細った娘が出てきた。ちょっと病気ではないかと心配になるような娘である。しかも服がボロい。
しかし、この娘が出て行ったあと、厨房の明かりが消えてしまった。この娘が今晩のラストチャンスかもしれない。
「ねえ、君!」
王子殿下は声を掛けた。
「マリゴールド嬢を知っている?」
突然声を掛けられ、ビクンと身をすくめた娘がこちらを向いた。暗いので顔はよくわからない。
「怪しい者ではない。マリゴールド嬢の様子を知りたいだけなんだ。元気なのかな?」
「元気ではないと思います」
娘は恐る恐る答えた。
「そうか! ここへ来てもらう訳にはいかないかな? 話をしたいんだ」
「あのう、どちら様ですか?」
「うむ。それを聞くのはもっともだ。だが、答えられない」
「お名前を聞かないことには、お取次できません」
「そうか……ううむ。誰にも絶対に内緒だぞ?」
「内緒だと、伝えられませんが」
「マリゴールド嬢以外には内緒と言う意味だ。この家の一家はやりきれないんでな」
娘はなんだかうなずいた。
「私の名前はエドワードだ。どうだ、これでわかったろう?」
エドワードは山ほどいる。
だが、その時、急に月が出た。
満月の夜で、そこら一帯が、色のない銀色の光で照らされた。
王子殿下の顔が真正面から月光にさらされて、容貌がハッキリ見える。
「あっ!」
娘が口の中で叫んだ……ようだった。
「エドワード様……と、言えば……」
「わかったか。怪しい者ではない。マリゴールド嬢の婚約者だ」
「た、助けてください!」
「え?」
突然取り縋られて、殿下は焦った。
「この家の人たちは鬼のような人たちです。自分のことしか考えていません。私は何も食べていないんです」
学園で各種の恋愛イベントをこなし過ぎた殿下は、新たなイベントかと身構えたが、そんなはずはない。
娘は痩せている。ガリガリだ。これがイベントなら、命懸けの準備が必要だ。
それより娘は殿下の足元に崩れ落ちた。
「あっ、ちょっと!」
起こそうとして殿下の心はヒヤリとした。
軽い。軽すぎる。
この娘は、本当に餓死するのではないか?
ぞくりとした殿下は娘を抱き上げた。
軽すぎる。人ではないようだ。猫のようだ。
このままでは本当に死ぬかもしれない。
「連れて帰ろう」
しかし荷物付きでは塀を飛び越えられない。
「正面突破だ」
殿下は正門に向かって歩き出した。
門番が出てきた。
「あれ? あんた、誰だね?」
「エドワードだ」
殿下は堂々と答えた。
「どこのエドワードだ。あれ? それにその下女はどうしたんだ」
「婚約者だ」
「婚約者ぁ?」
エドワードはうなずいた。そういやマリゴールド嬢に会いにきたのだった。
まあ丁度よろしい。この娘を拾って帰れば、事情は聞けるだろう。
「病気だ」
門番はダランとしている下女の様子を見て、態度が変わった。
「よし、わかった。連れて帰れ。変な病気じゃないだろうな。もっと早く迎えに来ればいいのに」
「仕事で遅くなった」
第三王子殿下でも、仕事はある。一応。
「わかった。そりゃそうだな。早く出ろ」
門番は急いで通用門を開け、王子殿下は妙な荷物を担いだまま堂々と出て行った。
王宮ではその頃大騒ぎだった。
王子殿下の失踪が王妃様にバレたのである。
イライラしながら王妃様は側近どもに怒鳴った……もとい告げた。
「何のためにお前たちは殿下のお側にいるのです!」
「本日はカードゲームをしようと集まっておりまして……」
「そんなこと聞いてません!」
王妃様は結構大きな声が出るな。
全員の感想だった。
「今すぐ平民の格好に着替えなさい!」
「なんでですか?」
側近の一人が思わず聞いた。
公爵家の一員で王妃様の甥である。
「探してらっしゃい! バカ・エドワードを!」
王妃様が合図すると、侍女たちが急いで散っていって、大あわてで平民の服を借りてきた。側近たちと違って仕事が早い。
「あの偽伯爵家にバレるとまずいから、平民の
「騎士団に探させるわけには……」
甥っ子の公爵家の御曹司が言い出すと、王妃様が鬼の形相で言い返した。
「王子失踪事件にしたいのですか? あなたは?」
そらそうだ。
「あなた方がどうにかなさい」
侍女たちは美男揃いで有名な第三王子殿下の側近たちを脱がせて着せて、嬉しそうだった。
「まったくなってない。まるで貴族じゃないの」
王妃様は腕組みして批評した。
貴族だから仕方ない。
「高位貴族が夜中にウロついていると、人目に立つ。仕方ない。平民服の方がマシだわ。二、三人で一組になり、王子を探しなさい。街で発見できなければ、今度は騎士の制服に着替えて……」
ここで侍女軍団から「騎士服……キャッ」とか言う合いの手が入った。
ギンギロリンと王妃様が睨むと侍女方面はシンとなった。
「不審者の捜索と言って、伯爵邸に押し入り、エドワードとついでにマリゴールド嬢を捕獲して連行しなさい」
しかし、王妃様には逆らえず、夜の闇を助けとして側近連中はバラバラと街に散った。
「ねえねえ、押し入るのってどうやったらいいの?」
「王妃様の方が詳しそうだな〜。帰ったら聞くかな〜?」
ガタイのいい側近連中は一団となって、心細そうに街をウロついていたが、伯爵邸へ向かう最短ルートの途中で、とても怪しげな人影に出会い、震え上がった。
「あっ、何か、上が大きい人がいます!」
「上が大きい?」
「不気味だ。こっちへ来る! 怖い! どうしよう、バケモノだ」
神々しい月の光に照らされて、不気味な影がよろよろ近づいてくる。怯える側近軍団。怖すぎて動けなくなってしまった。
そいつがパッと顔を上げた途端、貴公子たちは「キャーッ」と甲高い悲鳴をあげて一散に逃げ出した。
が、大声で叱られた。
「コォラ! どこへ行く! 俺を助けろ!」
そのバケモノは、マリゴールド嬢を背負ったエドワード王子殿下だった。
さすが王子。問答無用で助けられることしか考えていない。
俺を助けろとか、人気のない夜の街では、単なるヤバい人である。関わり合いになりたくない。
しかし、運がいいことに側近の一人が気がついた。
「この声は……殿下ではありませんか!」
「ええっ?」
側近たちが足を止めた。
「おおっ! 殿下だ。良かった、見つかった!」
みんなバラバラと駆け寄った。
「あ、この変なのはなんですか?」
マリゴールドは、薄くてひしゃげてて、ペラペラだった。
「伯爵家の下女だ」
「げっ?」
「持って帰ってきた」
「えっ? 人なの?」
「人って、持って帰っていいの?」
「誘拐罪じゃない?」
「うわー、ペラペラ。うっすー。人じゃないみたい」
汚そうだとか言って、誰一人殿下の代わりに運ぼうと言う者はいなかったが、殿下は気にする様子はなく全員揃ってゾロゾロ王宮に帰った。
「殿下、我々はこれで引き取らせていただきますが、本当によろしいのですか?」
側近一同、疑わしげな目つきで王子殿下を眺めながら、帰っていいかどうか尋ねた。
「うん。帰って」
「あのー、我々がいなくなったら、どうされるおつもりで?」
ぺらぺらに痩せてはいたが、お城の中で見ると確かに人間。種類は下女。
一体、殿下はこの夜中に、下女相手に何をするつもりなのか。
顔立ちはよくわからないが、身なりはこれ以上ないくらいみすぼらしい。
そしてダシが取れそうなくらい、痩せている。
「とりあえず帰って」
殿下は下女を見つめて、なにやら生き生きとしているが、重ねて帰れと言われれば、側近たちは立場上、帰らない訳にはいかない。
余計、疑問が広がった。
「保身のためにも王妃様に言いつけておこう」
「そうしよう」
そして眉をこれ以上しかめられないくらい寄せた王妃様が、足音もトゲトゲしくやってきた時、王子殿下は、満面の笑顔で下女に餌付けしていた。
「さあ、たんとお食べ」
実は先日、王子殿下は、学園でミーミー泣いている哀れな子猫を見てしまったのである。
先に子猫を発見した令嬢たちが、薄汚れてガリガリに痩せた子猫に、学園の食堂で調達したらしい食べ物をあげていた。
子猫はガツガツ食べている。
「おお……」
殿下はうらやましそうにその光景に見入った。
殿下が足を止めたので、イケメンで有名なその側近たちも足を止めて、子猫の餌やりを見物した。
令嬢たちは、哀れな子猫にエサをあげている慈悲深い自分たちの姿に殿下たちが見惚れているのかと思って、それはそれは熱心にエサをやり続けたが、殿下の視線は子猫に釘付けだった。
「か、かわいいっ」
殿下の心の声を側近たちは聞き逃さなかった。おおっ?
「なんて……なんてかわいいんだ」
自分も哀れな子猫を助けてやりたい。殿下は心の底から願った。愛くるしい瞳が必死に訴えかけてくる。
ゴハン、クダサイ。
殿下が飼いたくても、泥だらけでノミとかダニとか寄生虫も飼っていそうなミックスの野良猫なんか、絶対許可がでないに決まってる。
殿下が飼いたいと言えば、優雅にブラッシングされた長い血統書付きの猫が贈られてくるに決まっていた。
だが、殿下が欲しいのは、ガリガリに痩せて、殿下しか頼れない子猫なのだ。
守って、かわいがって甘やかしたい。
今、その夢がなかったのだ。下女だけど。猫じゃないんだけど。
「さあ、もっとお食べ」
殿下は優しくパンを差し出し、
「あ、肉の方が良かったよね」
と言って、下女にソーセージを差し出した。あいにく厨房に魚がなかったのである。下女はガツガツ食べる。殿下は目を細めた。
「こんなに痩せて。さぞ辛かったろう」
殿下はしみじみと言った。
その時、バーンと扉が開いた。王妃様と筆頭侍女以下数名が遂に現場に到着したのだった。
「そこまでよ! エドワード!」
ナイトキャップを被ったまま、ガウン姿の王妃様は息を切らしながら叫んだ。
「何をしてるの?」
殿下はビクッとした。本能的に王妃様は怖い。でも、せっかくのお楽しみのところなのに。
「エサをあげています」
「エサ? その下女にですか? その者は誰ですか? どこから来たの?」
「拾ってきました」
王子殿下が答えた。
「婚約者の様子を見に行けとおっしゃったではありませんか、母上」
話のつながりが見えなくなって、王妃様は黙った。
「伯爵邸の様子を
「えっ? つまり伯爵家の使用人?」
に、してもみすぼらしいな。
その時、下女が顔をあげた。そして彼女が叫んだ。
「あっ、王妃様!」
顔を見て、瞬時に王妃様とわかったのだ。
王妃様はガウン姿だったにも関わらず。
「ま、まあ。マリゴールドじゃないの!」
王妃様も呆然として言った。あのエメラルドの目は珍しい。間違いない。
「「「えっ?」」」
侍女はとにかく王子殿下も驚いて大声を上げた。
「マリゴールド様と申しますと、殿下の婚約者のマリゴールド様ですか?」
侍女頭が尋ねた。
「ま、まあ。どうしたの? こんなに痩せて……」
王妃様はびっくりすると同時に、マリゴールドが痩せ細っているのに驚いて尋ねた。
「とにかく今すぐ着替えて……」
服もひどい。
「ダメです。ご飯が先です!」
殿下が割り込んだ。
王妃様は一瞬たじろいだが、今回ばかりはエドワード殿下が正しい。食べるのが先だ。
「お腹、空いてるの?」
「ダメです! 僕がやります!」
殿下、かいがいしい。
王妃様アンド侍女は、殿下のゆっくり給餌が終わるのを待って、ごちゃごちゃ言う殿下からマリゴールド嬢を引っ
「この国有数の貴族令嬢が、なんて格好を!」
「さあさあ着替えましょう。その前にお風呂に入らなくては」
「あ、お風呂は僕が。あったかいお湯ですみずみまで洗ってあげたい」
「なんですって? この変態!」
王妃様が容赦なく殿下を引っ叩いた。
後ろで侍女たちが拍手した。
「でもっ、でもっ」
叩かれたほっぺたをさすりながら、未練たらしく王子は食い下がったが、王妃様の方が断然強かった。
「でも、じゃありません!」
女性陣全員が退場した後ろから、殿下は吠えた。
「朝ごはんは、僕があげます!」
「なんなの、あの変態」
王妃様はぼやいた。
それはとにかく、そのような訳で、第三王子殿下は、愛する婚約者を窮地から救った誠実の人として世に有名になったのだった。
「幼馴染の婚約者をずっと思い続けていただなんて。純愛を貫いたのね」
どこのお茶会でも、殿下は話題にのぼり讃えられた。なんだったら、マリゴールド嬢は羨ましがられた。
「屋敷から奪い取って助け出したのですってね。側近の方々とご一緒に」
「確かに屋敷から全然出してもらえていなかったわね。私なんてマリゴールド様宛に招待状を送ったのに、当日になってみたら偽伯爵夫妻とあの娘二人、合計4人が、テーラー夫人の最新ドレスの発表会に乗り込んできましたのよ」
テーラー夫人は新進気鋭の少々きわどいドレスを発表する人気デザイナーだ。
したがって令嬢方の母上からのウケは比較的よろしくない。ちょっとエリが深すぎるとかデコルテが広すぎるとか、袖が短すぎるだの諸説ある。
貴族令嬢のご自宅へドレスを持ち込み販売するとき、お友達を呼んでいただければ、ご理解のないご家庭へも販路が広がる。特に下着などは、店頭販売がはばかられるので、お友達同士が連絡しあうのである。男性などは当然お呼びでないどころか、ガソリンにタバコ並みの危険物扱いである。
「それをあの偽伯爵がでっぷり座って興味津々で見ているのよ。ほんの数名だけ、選りすぐった親しい女友達だけをお招きしたんですのに。しかも会場はわたくしの寝室でしたのよ」
なんだか悲痛である。誰かがため息をついた。
「どうして、マリゴールド様をお招きしたのに、毎回、あの四人が来るのかしら」
「そもそもマリゴールド様は招待状をご覧になっていなかったんじゃないかしら」
「きっと殿下も同じ目に合ってらしたのね。何回招待してもおいでにならなかった、それできっと……」
「思い余って、深夜の救出劇を決行されたのね」
集まった妙齢の令嬢方がため息をついた。月夜の救出劇は有名になりつつあった。
「殿下ってば、意外に思慮深いのね。誤解を避けるためにも、側近の方々をお連れになるだなんて」
「もちろん身の安全という問題もありますしね。なにしろ、王子殿下というご身分ですから単独行動などもってのほかですわ」
「マリゴールド様を抱いて王宮にお連れしたそうよ」
集まった令嬢は盛り上がった。
「側近の方々には手を触れさせなかったそうですわ!」
「それはそうでしょう!」
「王妃様がお着換えをとおっしゃっても、まずは食事をと頑として譲らなかったとか」
「身の安全をということですわね。ご配慮の行き届いた方ですのね」
「殿下の愛を感じますわ!」
「偽伯爵家は酷いわ。じわじわとマリゴールド様を殺す気だったのかしら」
「マリゴールド様を亡き者にしてしまえば、財産も爵位も全部、あの下着ガン見の偽伯爵のものになるところでしたわ」
令嬢方は憤慨した。偽伯爵は年相応の中年太りだったのだが、下着ガン見との相乗効果で、嫌悪感が倍増しだったらしい。
「殿下は素晴らしいわ! 人の命を救ったのですもの」
エドワード殿下は、一躍時の人となった。
しかし、『鳥類大図鑑』と『国際労働の移動とそのメカニズム』『商業財務の記録法論』を送ったあたりから雲行きが怪しくなった。お礼状はさらに熱がこもってきた上、内容についての議論も充実してきたのだが、ソレジャナイ感が漂い始めた。
「夜中の強行突破しかない」
前回の成功体験が殿下に自信をつけた。
あの感激をもう一度。
「いや、おやめになった方が……」
ここで止めなければ側近失格である。
「止めてくれるな。母上には内緒だ」
「……え。無理」
夜陰に紛れて殿下は走っていってしまった。
以前同様、伯爵家の塀を軽々と飛び越えた殿下は、今回は正面玄関から突入を試みた。
「まあ、これはエドワード王子殿下!」
執事も女中頭も大歓迎してくれた。前回も、正面玄関から入ったら大歓迎してもらえたと思う。ただし案内先がエレン嬢かアマリア嬢の部屋になるのが問題だっただけで。
「マリゴールド嬢とお話したい」
狡猾にも殿下は付け加えた。
「遠隔地からの領地経営の問題点について議論したくて参った」
その話題にせよ、なんにせよ、もう遅いんだけど?
執事と女中頭の配慮で、なぜか書斎ではなくマリゴールド嬢の寝室に通された殿下は、マリゴールド嬢を目を細めて見つめた。
「お城を出てから数週間たつけれど、いかがお過ごしでしたか? ずっと健康になられたようですね」
「はい。おかげさまで」
「でも、まだ全然細いようだ。しっかり召し上がらないといけませんよ」
「もう大丈夫ですわ。それで今日は領地経営のお話があるとかで」
ズイと殿下は前に出た。
「あなたと僕が結婚した時、どこに住むかで領地経営に問題が生じるかなと心配になりまして」
ゆるりとマリゴールド嬢は微笑んだ。
「殿下はお好きな方とご結婚なさる権利がおありです」
殿下はちっとも婚約者のマリゴールド嬢と関わりを持ってくれなかった。マリゴールド嬢が殿下との結婚に消極的だったとしても無理はない。
「僕にその権利を認めてくれるか、マリゴールド嬢」
マリゴールド嬢は一見平静そうだった。だが、殿下の返事にショックを受けていた。やっぱり、婚約解消のために来られたのだわ。
名ばかり婚約者だったから仕方ない。
マリゴールド嬢が浮かない様子で目を伏せたのを見て、殿下は突然理由を悟った。
自分より財産家の令嬢と思うと、なんとなく負担を感じて、疎遠になってしまっていた。そこを、トンデモ叔父夫婦に付け込まれ、下女生活を送る羽目になったのだ。
マリゴールド嬢は体重が十キロも落ちてしまった。まだ、十六歳の彼女にとっては、心身ともに大打撃だったに違いない。
「あの時は申し訳なかった」
殿下は謝った。
両親が亡くなった時、自分が慰めに行きさえすれば、叔父夫婦なんか邸内に入ることさえできなかったに違いない。それは侍女頭にこんこんと諭された。
それから、ぺらっぺらに痩せたマリゴールド嬢を抱き上げた時に、湧き出た妙な感情を思いだした。
殿下がマリゴールド嬢の世話になるではない。
殿下がマリゴールド嬢を守るのだ。
「あなたをないがしろにしていた。僕なんか必要ないと思っていたのだ」
マリゴールド嬢は恋愛イベントなんかやらない。浮ついてもない。子どもの頃からいいなと思っていた。
「僕にはあなたが必要だ。ずっと一緒にいて欲しい」
殿下は言った。
「あなたのことが大事なのだ」
やっとマリゴールド嬢の表情が和らいだ。わかってくれたか。
「殿下が知人として、私を少しでも気にかけてくださるのなら、あんな悲劇は二度と起きません。感謝いたします」
わかってないって! 知人じゃない! 婚約者になって!
「ものすごく気にかけているのだ」
殿下がもう一段強めの力説をした。
「全面的に頼って欲しいのだ。わかるか」
正面突破だ。
「あなたのすべてのお世話をしたい」
「世話なら侍女が……」
「結婚して欲しい」
ご結婚なされば、好きなように出来ますよ……師事した王妃様の有能侍女頭の言葉が少々変異されて王子殿下の脳内によみがえった。
「僕が好きな人と結婚する権利があるって、今、あなたはおっしゃいましたよね」
ズズイッと殿下はさらに一歩前に出た。
「それなら……僕と結婚してください、マリゴールド嬢」
マリゴールド嬢の抵抗などものともせず、軽々と抱き上げた殿下は、寝室のドアを乱暴に足で開けた途端、鍵穴にたかって中の話を盗み聞きしようとしていた執事と女中頭を突つっ転ころばしてしまった。
だが、そこは王子様。他人の家の使用人でも遠慮なくこき使う。
執事に向かって命令した。
「馬車の用意を」
うん。マリゴールド嬢、確かに太った。抱いたまま歩いて王宮に連れ帰るのは、今回は無理かな?
それに今回は背中に背負うのではなくて、お姫様抱っこだしね。
「王宮に花嫁を連れ帰る」
「かしこまりました!」
婿入りするはずの第三王子殿下のお言葉だったが、誰も逆らわず、執事の声が響いた。
「今すぐ、馬車の用意を!」
「ねえ、マリゴールド嬢。馬車の窓も扉もキッチリ閉まるから僕は嬉しいよ」
耳もとで殿下がささやく。
え? なんで?
「君の愛らしさに僕はメロメロだ。髪の毛一筋までくまなくお手入れして、かわいがってあげるよ。だから早く結婚しようね。その日が楽しみだ」
第三王子殿下とマリゴールド嬢の結婚は、王妃様と王妃様の侍女頭の懸念をよそにつつがなく行われ、結婚生活も少なくとも王子殿下はこの上なく満足そうだった。膝の上に座らせたがり、毛並みをナデナデするのが大好きだった。
ゴチャゴチャ構われ過ぎると、思わずイラッとして三日くらいしらんぷりされて、わかりやすく落ち込む殿下。
遂に見かねた王妃様の侍女頭がメモを伝授してくれた。
適当で切り上げる。
しつこく誘わない。
猫が要求してきたらいつでも相手する。
最後は必ず満足させる。
「ほおぉ……」
なんだか気になる一文字があるが、これは名言な気がする。
実際、非常に効果的であった。そして二人は大勢の子どもに恵まれ、幸せな一生を送りましたとさ。
---おしまい---
ところで……
偽伯爵の方は、それまでに使い込んだ費用を、宝石店や衣装屋から厳しく取り立てられることになった。
マリゴールド嬢へ食事を与えなかった偽伯爵夫人と料理番の女は、殺人未遂罪が適用された。牢屋行きである。
エレンとアメリアの娘たち二人は、呼ばれてもいないお茶会に出席したり、勝手に伯爵家の娘を名乗ったり、落ち着きなく知らない令息の顔に見とれたりをやらかしたが、罪には問われなかった。しかし、誰よりも悪評を買ったのはこの偽伯爵家の娘たちだった。
「いけ図々しい」
身の程知らずとか厚かましいとか言う時の形容詞として「偽伯爵家の娘みたい」と言う新語が生まれたくらいだった。
偽伯爵一家のご機嫌を取り、マリゴールド嬢に冷たく当たった使用人たちは解雇された。
偽伯爵を本当の雇い主だと思い込んだ件はやむを得ないにしても、マリゴールド嬢が弱って行く様を見て、気の毒に思うどころか弱い者いじめに平気で加担していたことを世間に知られると彼らはどこにも雇ってもらえなくなってしまった。
「全員が全員、私を虐めようとしたわけではないのですよ」
王子夫人のマリゴールドは思慮深い人だった。
「世評に流されて、何もしていないのに罵倒され雇ってもらえず、生活に困っている人もいますわ」
「あなたを助けなかったと言われているのだが」
「私と同じく当時は偽伯爵夫妻に逆らう力がなかったのです」
そういった人たちをマリゴールド夫人は助けようとした。
「どうしようかな」
殿下は、王妃様の有能侍女頭からもらったメモの続きをこっそり確認した。
基本好きにさせておく
束縛しない
放し飼いにしない(外に出さない)
ただし刺激不足にならないよう運動に注意する
「刺激的な運動をと言うことだな」
殿下は一番下の項目に何度目かのアンダーラインを引いたが、愛する夫人に向かって、
「あなたの好きにすればよい」
とにっこり笑った。
***「子ネコ拾った」系ネコ動画見過ぎ
婚約者の王子は正面突破する buchi @buchi_07
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