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 シャッツは干からびたみたいな目の前のタペストリーに歩み寄った。薄汚れた白の生地に小国語や絵が色々刺繍されている。


 「Ny neu, x arekisandal nygu misel c (ニー ネウ、ザイ アレキサンダー ニグ マイセ― カ)……?」


 シャッツは所々つまりながらも、タペストリーの薄汚れた刺繍をなんとか読み上げた。それはタペストリーが古いせいと小国語を読むのが難しかったせいである。それでもロイエはにっこり笑って、同じくタペストリーに近づいた。


 「発音上手くなったね。意味は分かるところある?」


 シャッツはガラスに鼻をくっつける勢いだった。


 「んー、nyは否定で、neuは場所だから……あと、えと……」


 シャッツの目にはxのたった一文字だけが刻まれていた。このたった一つの文字の意味が分からないせいで全体が闇に包まれたようで、シャッツにはそれがまるで教室にポツンと存在するサクのように見えた。ロイエはもごもごと口だけ動かすシャッツにと目線を合わせた。


 「xは小国語で修飾の接続詞だ。arekisandalは分かるよね?」


 「アレキサンダー総督だ。この前のクラスでオーウェンが言ってたよね、連邦の軍人だって」


 「よく覚えてたね。えらいえらい」


 ロイエはシャッツの頭を二回撫でた。シャッツは表情を全く変えなかったが、細くて大きな手を素直に受け入れていた。祖父のハイラントはシャッツに特別厳しいわけでもないが、こうして撫でてくれることはあまりない。それが悪いというのではなくて、ただハイラントの性にはあっていないのだ。だからこそ、シャッツは子ども扱いされているとは思っても、決して不愉快ではなかった。


 「nygu miselは知ってる。否定といるって意味だ。だから、これ「アレキサンダーがいない場所はない」って言ってるんじゃない?どう?」


 自信と不安半々でロイエを見上げると、自分の隣でロイエが同じくタペストリーにくぎ付けになっていた。


 「うん、大正解。これで、このタペストリーの意味もちゃんと読み解けるね、シャッツ」


 自分の訳が正解だったことに内心ふわふわしていたが、タペストリーの意味と言われてふわふわは疑問に打ち消された。確かに白地にカラフルな刺繍が見える。それは誰かの姿だったり何かの動物だったりに見えた。タペストリーの金色のフリンジが垂れる先を辿ると、案の定小さな説明が貼ってあった。


 『K歴八百五年、当時南方遠征を進めていた連邦のアレキサンダー総督が現在のレンティーノを制圧した。このタペストリーは当時の様子を描いたもので、中央で馬に乗り連邦軍を指揮しているのがアレキサンダー総督である。侵略を受けたクライン族は連邦の軍勢に苦戦したが、クライン族首長のヴィヒテルの交渉によりクライン族の伝統的生活は奪わせなかった。』


 「な、る、ほ、ど。そういう風に書いちゃうんだね……」


 ロイエはわざとゆっくり、含みを持たせた言い方をした。こういう時、ロイエはきまって話を始める。一年間の付き合いの中で、シャッツはよく分かっていた。その話はたいてい自分の知らないことだったので、シャッツ含め夜間教室のほとんどの生徒は含みのあるロイエの話し方が好きだった。ほとんど、というのはもちろんレーレ以外ということである。


 「シャッツはこの説明を読んで、どう思った?」


 「どう、って……連邦に攻められたってこと?」


 「うん、そうだね。クライン族は勝ったと思うかい?」


 シャッツは何を言ってるんだと思った。「そりゃ当然負けたよ。ロイエの授業でもそう言っていたじゃないか」と、言ってしまいたかった。しかし、ロイエが聞くと言うことはそうシンプルなことではないのだろうとも思った。もう一度よく説明文を読むと、「負け」という文字はどこにもなかった。「軍勢に苦戦した」ことは分かったが、それ以上は書かれていなかったのだ。


 「この文からじゃ分からない。でも小国の人ならみんな負けたって知ってるんじゃない?それで、大国と統一されたんだから」


 「まあ確かに分かるんだ。あまりに有名な歴史だからね。だけど、敗戦って書けばいいものを、わざわざ「苦戦」だとか「奪わせなかった」とか善戦したみたいな言い方だと思わないかい?」


 「確かに。これ書いた人は負けたってわざと書かなかったってこと?」


 「書きたくなかったんだろうね。歴史って言うのはしばしば恣意的なものさ。不都合な事実は伏せがち。特に小国史はそういうところあるよ」


 ロイエは呆れ半分おかしさ半分で、「やれやれ」と肩を少し上げた。シャッツは小国史と聞いてひとつ思いついた。


 「そういえば、ロイエってヘイストウショーンで小国史専攻だったんでしょ?」


 すると、ロイエは一瞬ぴたっと止まった。が、あまりに一瞬すぎてシャッツは特に違和感を持てなかった。そしてすぐに「あー、うん」と平坦に返ってきた。


 「だから詳しいんだよね……ねえ、負けたって言うのは本当でしょ?じゃあ、このヴィヒテルって人の交渉って何のことなの?」


 ロイエはまだタペストリーに視線を向けたまま口を開いた。


 「負けたのは確かだ。「クライン族首長のヴィヒテルの交渉によりクライン族の伝統的生活は奪わせなかった。」って部分はかなり違ってると思う。このあたりの文献は読んだことがある」


 そう言ってロイエは詳しい話を始めた。


 「アレキサンダー総督がクライン族とリージヒ族を制圧した後、連邦は厳しい統制にするかゆるい統制にするか迷っていた。一方、初めて制圧されたクライン族は混乱に陥り、持ち前の頭脳も上手く使えていなかった。クライン族の中では、統一されたのはもうやるかたないとして、連邦のやり方を押し付けられることだけは避けたいという思いが強まっていた。そこでクライン族首長ヴィヒテルはアレキサンダー総督に直談判しようとした。しかし、大国の歴史書にはもとより懐柔政策を取ろうとしていたとはっきり記されている。当時の連邦は支配地域があまりに広大だったために厳しい統制による動乱が起こらないようにしたかったと考えられている」


 そこまで一息に言うと、ロイエはタペストリーから目を離して背筋を伸ばした。


 「よし、ちょっと進んでみようか。一人、待っててくれてるみたいだしね」


 シャッツが次の展示室への入り口に目をやると、なぜかむくれたヘルが立っていた。

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巨人の肩の上で SARA @srzensky

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