2-bwo-
シャッツは干からびたみたいな目の前のタペストリーに歩み寄った。薄汚れた白の生地に小国語や絵が色々刺繍されている。
「Ny neu, x arekisandal nygu misel c (ニー ネウ、ザイ アレキサンダー ニグ マイセ― カ)……?」
シャッツは所々つまりながらも、タペストリーの薄汚れた刺繍をなんとか読み上げた。それはタペストリーが古いせいと小国語を読むのが難しかったせいである。それでもロイエはにっこり笑って、同じくタペストリーに近づいた。
「発音上手くなったね。意味は分かるところある?」
シャッツはガラスに鼻をくっつける勢いだった。
「んー、nyは否定で、neuは場所だから……あと、えと……」
シャッツの目にはxのたった一文字だけが刻まれていた。このたった一つの文字の意味が分からないせいで全体が闇に包まれたようで、シャッツにはそれがまるで教室にポツンと存在するサクのように見えた。ロイエはもごもごと口だけ動かすシャッツにと目線を合わせた。
「xは小国語で修飾の接続詞だ。arekisandalは分かるよね?」
「アレキサンダー総督だ。この前のクラスでオーウェンが言ってたよね、連邦の軍人だって」
「よく覚えてたね。えらいえらい」
ロイエはシャッツの頭を二回撫でた。シャッツは表情を全く変えなかったが、細くて大きな手を素直に受け入れていた。祖父のハイラントはシャッツに特別厳しいわけでもないが、こうして撫でてくれることはあまりない。それが悪いというのではなくて、ただハイラントの性にはあっていないのだ。だからこそ、シャッツは子ども扱いされているとは思っても、決して不愉快ではなかった。
「nygu miselは知ってる。否定といるって意味だ。だから、これ「アレキサンダーがいない場所はない」って言ってるんじゃない?どう?」
自信と不安半々でロイエを見上げると、自分の隣でロイエが同じくタペストリーにくぎ付けになっていた。
「うん、大正解。これで、このタペストリーの意味もちゃんと読み解けるね、シャッツ」
自分の訳が正解だったことに内心ふわふわしていたが、タペストリーの意味と言われてふわふわは疑問に打ち消された。確かに白地にカラフルな刺繍が見える。それは誰かの姿だったり何かの動物だったりに見えた。タペストリーの金色のフリンジが垂れる先を辿ると、案の定小さな説明が貼ってあった。
『K歴八百五年、当時南方遠征を進めていた連邦のアレキサンダー総督が現在のレンティーノを制圧した。このタペストリーは当時の様子を描いたもので、中央で馬に乗り連邦軍を指揮しているのがアレキサンダー総督である。侵略を受けたクライン族は連邦の軍勢に苦戦したが、クライン族首長のヴィヒテルの交渉によりクライン族の伝統的生活は奪わせなかった。』
「な、る、ほ、ど。そういう風に書いちゃうんだね……」
ロイエはわざとゆっくり、含みを持たせた言い方をした。こういう時、ロイエはきまって話を始める。一年間の付き合いの中で、シャッツはよく分かっていた。その話はたいてい自分の知らないことだったので、シャッツ含め夜間教室のほとんどの生徒は含みのあるロイエの話し方が好きだった。ほとんど、というのはもちろんレーレ以外ということである。
「シャッツはこの説明を読んで、どう思った?」
「どう、って……連邦に攻められたってこと?」
「うん、そうだね。クライン族は勝ったと思うかい?」
シャッツは何を言ってるんだと思った。「そりゃ当然負けたよ。ロイエの授業でもそう言っていたじゃないか」と、言ってしまいたかった。しかし、ロイエが聞くと言うことはそうシンプルなことではないのだろうとも思った。もう一度よく説明文を読むと、「負け」という文字はどこにもなかった。「軍勢に苦戦した」ことは分かったが、それ以上は書かれていなかったのだ。
「この文からじゃ分からない。でも小国の人ならみんな負けたって知ってるんじゃない?それで、大国と統一されたんだから」
「まあ確かに分かるんだ。あまりに有名な歴史だからね。だけど、敗戦って書けばいいものを、わざわざ「苦戦」だとか「奪わせなかった」とか善戦したみたいな言い方だと思わないかい?」
「確かに。これ書いた人は負けたってわざと書かなかったってこと?」
「書きたくなかったんだろうね。歴史って言うのはしばしば恣意的なものさ。不都合な事実は伏せがち。特に小国史はそういうところあるよ」
ロイエは呆れ半分おかしさ半分で、「やれやれ」と肩を少し上げた。シャッツは小国史と聞いてひとつ思いついた。
「そういえば、ロイエってヘイストウショーンで小国史専攻だったんでしょ?」
すると、ロイエは一瞬ぴたっと止まった。が、あまりに一瞬すぎてシャッツは特に違和感を持てなかった。そしてすぐに「あー、うん」と平坦に返ってきた。
「だから詳しいんだよね……ねえ、負けたって言うのは本当でしょ?じゃあ、このヴィヒテルって人の交渉って何のことなの?」
ロイエはまだタペストリーに視線を向けたまま口を開いた。
「負けたのは確かだ。「クライン族首長のヴィヒテルの交渉によりクライン族の伝統的生活は奪わせなかった。」って部分はかなり違ってると思う。このあたりの文献は読んだことがある」
そう言ってロイエは詳しい話を始めた。
「アレキサンダー総督がクライン族とリージヒ族を制圧した後、連邦は厳しい統制にするかゆるい統制にするか迷っていた。一方、初めて制圧されたクライン族は混乱に陥り、持ち前の頭脳も上手く使えていなかった。クライン族の中では、統一されたのはもうやるかたないとして、連邦のやり方を押し付けられることだけは避けたいという思いが強まっていた。そこでクライン族首長ヴィヒテルはアレキサンダー総督に直談判しようとした。しかし、大国の歴史書にはもとより懐柔政策を取ろうとしていたとはっきり記されている。当時の連邦は支配地域があまりに広大だったために厳しい統制による動乱が起こらないようにしたかったと考えられている」
そこまで一息に言うと、ロイエはタペストリーから目を離して背筋を伸ばした。
「よし、ちょっと進んでみようか。一人、待っててくれてるみたいだしね」
シャッツが次の展示室への入り口に目をやると、なぜかむくれたヘルが立っていた。
「この前、あんたが言ったんだからね?ロイエとの関係がバレないようにしろって。それなのに、こんな堂々とくっちゃべっちゃって全く」
ロイエとシャッツが次の展示室に来るなり、ヘルはそう文句を垂れた。
「自分だって今ロイエと話しているくせに」
「いいじゃない、もう誰もいないんだし!」
ヘルは既につんつんしていたが、さらに唇を尖らせた。シャッツは、こういうところが緩いんだよなと呆れたが、自分も今は何も言えないので黙っていた。
「次はもう独立の話か……」
ざっと展示を見渡して、ロイエが呟いた。確かに部屋は百年前に小国が大国から独立した時の絵や説明でいっぱいだった。
「見てあれ!」
ヘルが大声で指さしたのは高さ三メートル大の砂像だった。一人の男が中心に立ち、その足元に集っていると思われる民衆の顔が並んでいる。その表面はとても砂でできているとは思えないほど滑らかだ。ロイエは思わず「わお」と頬を緩めた。シャッツは天井まで届きそうな男の顔を見上げた。男は自分を睨んでいた。
「えらそうな人だね」
「実際偉かったしね」
ロイエは肩をすくめた。ヘルはしばらく目の前の民衆と目を合わせて、それから反対側に回って説明を読み上げた。
「作品名『太陽に触れる人民』。作者はクンスト。独立を宣言したフライハイト大統領とそれに賛同する民衆の砂像……そっかこの人が!」
ヘルはポニーテールを豪快に振り回して、顔を上げた。像の男にきらきらとした視線を送っていた。シャッツもヘルと同時に像を見た。独立当時の大統領、フライハイト。ロイエの授業で聞いた名前だった。
「それにしても、作品名が『太陽に触れる人民』、とはね」
シャッツとヘルは「出た」と思った。またロイエが含みを持たせた言い方をしたのだ。これから始まる未知のお話に、真剣に耳を傾けた。
「『太陽に触れる』とは小国語の慣用句から来ているはずだ。小国語でnonpekdal xd c (ノンペクダー ザイド カ)、意味は太陽に触れるという不可能を破るほど本気であること。独立に本気だった人民、その意味に加えて差別を受け暗澹たる日々を送っていたクライン族からすれば、独立に踏み切ったフライハイトはまさに太陽だったんだろうね。二百年前の大国と小国の統一。それはこの前も話したね。そして百年前──」
目の前の砂像を見ていると、ロイエの語りと共に自分が民衆の一人になったような気分がした。
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