第156話 死の神
回避できたのは奇跡だった。
倒したはずの相手が起き上がることを常に想定して動いているなんて、そんな偉い人間ではない俺にとって、初撃を回避できたのは幸運があったからとしか言いようがない。自らの実力が優れていたからとか、そんなレベルの話ではなさそうだ。
敢えて……敢えて理由を考えるのならば、ダンジョン内部というのが幸運だった。襲ってきた人間を返り討ちにして殺してしまったとしても、ダンジョン内部では人間以外のモンスターへも気を配らなければならない。ダンジョン内で気を抜くのは自らの命を投げ捨てるようなもの……俺はその基本に忠実な動きで、女性を殺してからも周囲を警戒していた。俺が警戒していたことでハナもしっかりと警戒していたので、それこそ俺に死角はなかったはずだ。
周囲を警戒していたからこその奇襲への対策。そして……常日頃から召喚士として召喚獣にだけ頼り切った戦いをしてはいけない、と考えて身体を鍛えていたからこその、反射的な生存本能に肉体の主導権を任せた粗削りな回避。それらが重なることで、俺は背後から飛んできていた黒い蛇の攻撃を回避することができた。
「……驚きだな。あれだけの出血量で生きているなんて思ってもいなかった」
人間の肉体には約4L程度の血液が存在している。そして、その血液量の半分を失う前にまず絶命する……あの血の勢いなら、それこそ1500ミリの血が噴き出た時点で彼女はまず死んでいたはずだ。
地面にできている血溜まりはダンジョンの熱でじゅうじゅうと音を鳴らしながら熱されている。血溜まりの上に立つ女の瞳にはなにも映っていない……まるで死体が動いているかのような光景だが、彼女の周囲にあった黒い靄とヘドロが身体の中に逆行するように戻っていくと……つけられた傷がすっと癒えていく。
「あ、そう……私、死んだのね」
「お前……なんなんだよ」
「貴方も、私をそんな目で見るのね。貴方みたいな人間にまで化物として見られるなんて、とても不愉快だわ」
どうやら、また地雷を踏みぬいたらしい……てか、こいつが面倒なだけじゃないか?
俺の方へとゆっくりと歩いてきたが、今度は迷いのないハナの剣が容赦なく彼女の首を刎ねた。俺が指示した訳でもないが……恐らくはハナが危険だと判断したが故の行動なのだが、刎ねられた首は地面に落ちることもなく、胴体と少し離れたところで制止して……時間が巻き戻るかのようにゆっくりと胴体に繋がった。
「不死身か?」
「わからないわ……私、どうやれば死ねるのか。どうやったら生き返るのか……全くわからないまま、私は……」
やはり自らの力を制御できていないのだろう。ハナが情け容赦のない攻撃をしたのはそれを確かめるため……ではなさそうだな。本気で殺そうとして殺せなかったって感じの顔に見える。そして、今から追撃して身体をバラバラにしてやろうって気概を感じたので、素直に止めておいた。
「名前を教えてくれるか?」
「無いわ」
「コードネームとかでもいいから」
名前が無い人間は確かにこの世にいるだろうが、誰からも一切名前が呼ばれていない人間なんているはずがない。特に、彼女のように組織に所属している人間がなんの名前も与えられていないはずはない。
俺の質問に首を傾げてから、彼女はゆっくりと俺を見つめてきた。
「タナトスって、呼ばれてるわ」
「死の神か」
ギリシャ神話に語られる死をそのまま形とした神……彼女の持つ力が考えれば、的確なネーミングセンスだと言えるだろう。普通なら厨二病みたいな名前だと思うが、触れた存在を侵食する彼女の力を見れば死の神と呼びたくなるのもわかると言うものだ。
「……私に興味なんてあるの? どうして? 私みたいに生きてるのか死んでいるのかもわからない人間に対して……いいえ、人間かどうかもわからない存在に対して、どうしてそこまで友好的な態度がとれるの?」
「友好的?」
彼女の……タナトスの感性が独特過ぎて首を傾げてしまった。
俺とハナがしたことを考えれば友好的な態度とは全く言えないだろう。俺がやったことは彼女を2回も殺すことだし……そもそも最初から敵対者として俺は彼女と相対している。だから、友好的な態度と言われても全くピンとこない。
「それにしても、性格が最初とまるで違うな。まるで二重人格みたいだ」
「え? 誰だってそうでしょう? 私の中にもう一人の私がいて……もう一人の私は死が怖くて、恐くて、現実から逃げるために力を使うの」
「本当に、人格がもう一つあるのか」
「そうでしょう? 誰だって自分から逃げるために力を使いたがる……あの子もそうだし、貴方もそうでしょう?」
「悪いが、俺は自分から逃げつもりはない」
最初、俺に接触してきた彼女こそが本来の人格なのだろう。ナイフを片手に人を殺すことを躊躇い、死を恐れ、他者に恐怖し、激情に流されるまま力を行使する。
反対に、目の前にいる彼女は冷徹で、死を当たり前のことだと認識し、感情に流されることなくゆったりと他人を殺していく。
人を殺すことに躊躇いを持っているのに、裏組織の幹部格として活動できているのは裏側の人格が人を殺すことに対して躊躇いを持っていないから……そういうことだろう。
「……初めて」
「あん?」
「初めて、他人に対して興味を持った。貴方の根源にあるものが知りたくなってきた……ねぇ」
「なんだよ」
「1回だけでいいから、死に顔を見せてくれるかしら?」
「普通の人間に死に顔は1回限りだが?」
俺の答えなど聞いていないと言わんばかりに、タナトスが腕を動かすと黒い蛇が大地を高速で這いながら迫ってくる。明らかに最初とは違う、意識して動かしているその蛇の動き……不規則性が無くなって読みやすくなったが、速度は桁違いだ。
死に顔が見たいから俺に向かって蛇を動かす……最初とは目的も違っているし、なにより常識を知らないだけで俺に対する興味が湧いてきている。これは……なんとか説得すれば攻撃が止められるかもしれない。
「死に顔を見せるのは、大切な人間にだけって決めてるんだ」
「どうして?」
「その方がロマンチックだろ?」
「……どうして?」
「駄目だ、全く通じねぇ」
俺の死に顔はお前にしか見せたくない、なんて言えば人生を共にしてくれみたいな意味に聞こえるかなと思ったけど、そもそも人間としての常識が欠落している彼女には通じなかった。
「主様、なにを遊んでいるんだ」
「おまっ!? 狙われてないからって好き勝手言うなよ!」
俺ばかりが狙われていて、剣を地面に突き刺して俺のことを見つめているハナは全く狙われていない。俺の召喚獣であることを認識していないのか、あるいはそもそも俺以外に興味はないのか……タナトスはひたすらに俺を狙っているのだ。
くそ……なんとかゆっくりと口説き落とすしかない!
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