決断 四
月曜日。
午前五時、起床。
洗面台の前で、顔を洗って歯を磨く。
午前五時半。
論文を読み漁って、少しでも治療に役に立ちそうな文献をまとめておく。
午前六時半、家を出立。
午前七時、白戸総合病院に到着、また、院内のコンビニで朝食を購入。
ほぼ同時刻に、緊急コール。
救急隊員がカラカラと担架を押しているのに追随。
「くも膜下出血。慢性腎不全。脳の血圧コントロール。降圧薬その他もろもろの投与」
彼が口を開く前に、口早にそう告げると、俺はすぐにその足を資料室へと向けた。
〇
白戸総合病院の蔵書はかなり充実していると、個人的には思う。
インターネットに記載されていない情報や資料もたくさん抱えているし、何より情報の精査がまだそれほど行き届いていないネットの最新の研究、論文よりもずっと信憑性が高い。資料室の蔵書を片っ端から調べれば、何か、現状打開の突破口となる資料が見つかるかもしれない。
そう思ったのだが……。
結局、午前中一杯を使ってあらゆる書類を読み漁ったが、手掛かりになりそうなものは何もなかった。
まあ、気長に続けるさ。どうせ、時間は無限にあるのだから。
「ちょっといい?」
紙に染みこんだインクとひたすらにらみ合いを続けていると、背中の方から福良の声が聞こえた。
「悪いけど、今忙しいんだ」
俺は後ろを振り返らずに答えた。
幾度とないループの狭間で、何度も彼女と会話を交わした。これ以上何か実りの或る情報を得られるとは考えられなかった。
「そうみたいね」
しばらく沈黙が資料室を走った。耳が痛いほどの沈黙である。まるで音を周囲の蔵書がスポンジのように吸収しているかのようであった。福良が立ち去っていないことは、足音が全くしないことから後ろを振り返らなくてもすぐに分かった。
俺は振り返った。福良は無視を決め込むと腹を立てて足早に立ち去ることがほとんどで、このパターンは今まで経験したことがなかったのだ。
「なんだよ」
そう問いかけると、福良は隣にどっかりと座った。人一人座れるくらいの距離を空けて。
「竹中さんとか、アホの杉原も。安藤君の事、心配してたよ。様子が変だって」
「そりゃ、一日くらいヘンになることはあるだろ。ストレスの多い職場だし」
「普通じゃないでしょ。研修医のみんなも戸惑ってた」
「ガキじゃないんだから、放っとけばいいだろ」
「何か、悩みがあるんじゃないの?」
再び机の上の書物へ目線を戻し始めていた俺の眼球が、はたと止まった。が、何、動揺することは無い。別に、彼女が俺の何もかもを詳らかに言い立てたというわけじゃないんだ。よく考えてみれば、いや考えなくとも、彼女はあくまでも、下らない誘導尋問じみた占い同様に、万人に当てはまるような、漠然とした、フワッとした事しか言ってないじゃないか。
「何か悩みがある」人間なんてこの世にごまんといる。
こんなのにいちいち動揺していてもしょうがない。俺は一度は迷わせた視線の先を机の上の書類へと戻しつつ、
「そりゃあるよ。俺の患者が不治の病に侵されてる」
「そうじゃなくて! ……もういいよ」
一瞬声を荒げたが、福良はその後すぐに落ち着きを取り戻した。と言うよりは諦めたと形容した方が正確か。もしかしたら、彼女は感付いているのかもしれない。俺が尋常でない現象に巻き込まれてしまっているのを。まさか何度も同じ時間軸をループしてるなどとは、さすがに勘の鋭い福良先生も想像外の事実だろうけど。
「そんなにあのおじいさんを助けたいの?」
「まぁな」
「どうせすぐに死ぬのに?」
「見捨てろってのか」
「そうね」
あっさり言いやがった。さすがに観念して顔を上げたね。
「本気か」
「別に、生命維持装置を外せって言ってるわけじゃない。でもね、現場はひっ迫してるのよ。だから例えどんな木偶の坊でも、病院は医者なら誰の手でも借りたい状況なの」
木偶の棒とは俺のことか。
確かにそうだな。実際の所、この午前中の間、俺はほとんどまともに仕事をしていないと言っていい。ずっと治る見込みのない患者を診続けているのだから。
そんなことは俺がよくわかっている。
だが、そう言う問題じゃないのだ。
俺が一体何回ループしたかコイツはまるでわかってない。おそらくまだ二週間も立っていないだろうけど、同じ日をただひたすら繰り返す時の精神的苦痛は、多分福良の想像し得る以上のものだ。
正直、泣きそうだ。
「あのさ」
にっちもさっちもいかず答えあぐねている俺に、福良は諭すように言った。
「あの人みたいな老衰寸前の人たちの、ほんのわずかな命をつなぐためにいったいどれほどの費用が掛かってるかわかってる? 政治家の汚職金なんかよりよっぽど多いわ。一応調べたけど、彼に医療費の支払い能力なんてゼロに等しかった。保険にも加入してなかったし、ホームレスじゃないだけマシってところね。それで、彼らを治療するために使う費用は結局、国や病院が全額負担してる。そのお金は当然、私たちの税金からねん出されてる」
「悪いな。そんな硬派で高尚な社会問題について、真剣に考えたことなんて無かった」
皮肉たっぷりに言ってやったが、福良は全く意に返さずに話を続けた。
「なまじ集中治療で一先ずは命を繋ぐことが可能になったからこそ、莫大な費用と労力が異常な負担になってる。医療が進歩して延命できるようになったけど、その延命治療が医師と、なにより患者を追い詰めてる。日本は医療の保証が充実してるから、それが余計に財政を圧迫してるし」
高齢社会になればなるほど、その傾向は強くなっていく。高齢者を抱えることで若者が苦労をする、などと揶揄されることが多いが、本当に苦労を強いられるのは国そのものなのだ。日本の財政と医療機関は、保険が充実してる分、そのしわ寄せをもろに喰らっている。日本国民は充実しすぎている社会医療保障に頭が染まり切っているから、余計な健診や人間ドックにまで保険を適応させようとしてくるアホまで湧いてくる始末だ。
「人工呼吸器、透析、輸血。あらゆる集中治療を施して、一先ずは命をつないだ。でも、どれだけその延命治療が無意味で非人道的なものだったとして、そうやって一度治療してしまった以上、私たちに迂闊にそれを止めることなんてできない。治療を止めるってことは、それはすなわち殺すことと同義なんだから。放っとけば死ぬ人を治療して延命したのに、その治療を止めるのは殺人なの。馬鹿馬鹿しいけど」
「……」
「今日は緊急の集中治療が必要な急患がやけに多くいた。助かった人もいるけど、中には助けられなかった人もいる」
そう言えば。
俺は自分の患者のことしか考えていなかったけど。今日だけでも、ウチの病院で亡くなった人が何人もいる。俺の必死の行動で、一体その内の何人が救えただろう。俺が老人にかかりきりの間に、何人の人が亡くなったのだろう。
「ICUだけじゃなくて、アンタまで使い物にならないんじゃ話にならないの。今日は許すけど、明日もその調子だったら許さないから」
福良は語気を強めに、だけどどこか節々に気遣いを感じ取ることのできる(気がする)捨て台詞を残して、足早に資料室を立ち去っていった。
当の俺は二の句が継げない。
その場でがっくりと項垂れるしかなかった。
情けないったらない。この年になって年下に説教されることになるとは……(福良は27、俺は三十路です……)。
そんなこと、わざわざ言われなくたってわかってるさ。
でも、その肝心の明日が何時まで経っても来ないからほとほと困ってるのだ。
「……」
いや、待てよ。
……。
俺の頭に、再びあの閃きがあった。
或いは、悪魔が俺に囁いたのだ。
そう言うこと、なのか?
俺がやるべきこと、
それは、
福良がその答えを示したのか?
「……」
俺は考えた。
丸一日、思案と葛藤にくれた。
だから当然というべきか、俺はその日一日中を文字通りの使い物にならない木偶の棒として過ごしたのだった。
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