決断 一
「……」
俺は自分の診察室にて、丸椅子にどっかりと座り込んで、とある頭部MRI画像をじっと観察していた。画像には、輪切りに透過された脳の画像が、緻密に映し出されている。
これは、俺自身の頭部MRI画像だ。
自分の脳をこうして客観的に観察する、と言うのはなんだか奇妙な気分だった。俺の脳に何一つ異常がないのであれば、この奇妙な感覚に浸っているのも吝かでなかったのだが、残念ながらそうお気楽でもいられない。
何故なら、俺の脳には腫瘍があるからだ。MRI画像には、その腫瘍の影がはっきりと映っている。脳幹近くに深く食い込んでいる。腫瘍は確実に、脳を蝕んでいるはずだ。幻覚、失語、果ては運動機能障害。想像するだけでうんざりしてくる症状の発現が多数考えられる。
しかし、悪い見通しばかりでもない。以前に撮影した時と比べて、腫瘍に大して変化が見られない。つまり、腫瘍は拡大していないということだ。つまり、この腫瘍は悪性じゃないか、或いはローグレードの悪性腫瘍。少なくとも余命数年や、半年だなどという最悪のケースは免れたということだ。
だからと言って死亡のリスクが全くなくなったというわけではない。ではないが、最悪の想定は外れた。
正直、ホッとした。
このまま、何事もなければこの腫瘍は放置しようと思っている。或いは、あのループ現象がこの腫瘍のせいで起こっているの云うのなら、手術の際のリスクを考慮したうえで、切除手術に踏み切るという可能性がないこともない。
一先ずは、現状維持だ。
これ以上症状が悪化しないのであれば、もうこの腫瘍と一生付き合っていくという選択肢を取ることになるかもしれないな。
安心したのだか憂鬱なんだかよくわからない感情のまま、俺はその日の勤務を終え、診察室を後にする。
家に帰って、風呂に入り。
別に見たいわけでもないテレビを付けながら書きかけの論文をまとめ、担当の患者の情報を整理しておき、コンビニ飯を喰らって、風呂に入り、歯を磨き、床に就いた。
そうやって、一日が何事もなく終わった。
〇
月曜日。
午前五時、起床。
洗面台の前で、顔を洗って歯を磨く。
午前五時半、インターネットで論文を閲覧。同時に、執筆中の論文の構想を固める。
午前六時半、家を出立。
午前七時、白戸総合病院に到着、また、院内のコンビニで朝食を購入。
ほぼ同時刻に、緊急コールがなった。
急患である。
患者は高齢の男性で、アパートの階段で激しい頭痛により倒れているのを他の住居者が発見して通報されたらしい。
「高齢の男性です。脳出血を引き起しています。激しい頭痛と意識障害、そのほかにも多くの合併症を患っているみたいです」
鉢合わせた救急隊員の言葉に、俺は「そうですか」と頷いた。
「くも膜下出血だな。ん? 尿が少ないし薄い。慢性腎不全もか? とにかく今は脳の血圧コントロールが先決だ。降圧薬その他もろもろの投与を」
再出血は何はともあれ。防がなければならない。
「はい」
「家族の方は?」
「さあ……。連絡が取れないそうです」
「そうですか。独り身なのかな」
患者は八十歳半ば程だと思われる老人だった。別に珍しくもない。彼のような人間は毎日のように病院に運び込まれてくる。
すぐに頭部のCTを撮影。頭部CT撮影の結果、鞍上部周囲に特徴的なヒトデ型の高吸収域が見られた。やはり老人は想像通り、くも膜下出血を引き起していたのだ。再出血してしまえば、老人の命はない。再出血のリスクは発症から二十四時間以内が最も高いので素早い初動が肝心だ。
また、術前に手術を前提としたDSA(デジタルサブトラクション血管造影)もすぐに行う。脳動脈瘤破裂によるSAHでは破裂部位以外にも動脈瘤が多発している可能性があるからだ。そのため脳血管を造影し、複数の破裂部位或いは瘤を特定する。大腿動脈からカテーテルを挿入し、心臓の横を通っている下行大動脈を上行、そこから腕頭動脈、鎖骨下動脈を通じて左右の内頚動脈、椎骨動脈の四本の血管へ造影剤を送る。
そうやってようやく、脳のあらゆる動脈の状態が詳らかになる。前大脳動脈。中大脳動脈。後大脳動脈。脳底動脈。これら脳の動脈はそれぞれが相互に補完し合っている。これらの脳動脈のネットワークの精緻さと合理さはまさに人知を超えていると思う。これが生物の適応能力によって形成されたのかと思うと、俺たち人類の知性の浅はかさというものをつくづく思い知らされるようであった。
後大脳動脈に動脈瘤は見られない。しかし、前大脳動脈と中大脳動脈に大きな動脈瘤が認められた。うわぁ。これは中々厄介な位置にある。なぜならこれほど大きな中大脳動脈瘤では、クリッピング術を行うしか選択肢がないのだ。患者は高齢なので、本来なら低侵襲のコイル塞栓術が望ましかった。
クリッピング術とは、動脈瘤を直接クリップで挟み込んで止血する、と言う如何にも「治ればそれで万事OK」な西洋医学的発想の、その最たるものと言えよう。ちなみに外科医なら死ぬほどこの手術をやる。
実はこのクリッピング術だが、患者に負担の大きい開頭手術を行わなければならない上に、侵襲など術後の合併症のリスクが高い。高齢者には不向きの再出血予防法なのだ。今回の患者は80くらいだと推定される。リスクはかなり大きい。
とはいえこれしかないのだから、やるしかない。開頭手術は脳外科医の十八番なのだからイヤイヤなどいってられない。やらいでか。
再出血予防措置を行う前に、患者が肺水腫を引き起こした。人工呼吸器の使用により容態は安定。
腎不全により、血液透析と輸血も開始。
容体が安定したところで、満を辞して、再出血予防措置を始める。出血から七十二時間以内なら、脳血管攣縮の心配は少ない。攣縮が起きていないことを確認し、いざ手術開始だ。
素早く開頭を終え、顕微鏡手術へと移行する。くも膜下腔を生食で洗いつつ、シルビウス裂を慎重に開いて大脳の奥へと鉗子を向かわせるのだ。脳の壁にガーゼをぺたぺたと張り付けて、動脈までのルートを確保する。地道な作業だ。きっと伊能忠敬もこんな気持ちで日本中を練り歩いていたのだろうと思いつつ、慎重に脳を切り開いてゆく。
後ろのモニターで、研修医が手術の様子を見学しているのを背中で感じつつ、
「内頚動脈確保」
内頚動脈は目の裏あたりから伸びている動脈で、中大脳動脈や前大脳動脈へと繋がっている。もし術中に中大脳動脈瘤または前大脳動脈瘤が破裂してしまったら、この内頚動脈が最後の命綱だ。脳が
ちなみに内頚動脈は脳の奥の奥に位置しているため、俺たち脳外科にとっては月世界旅行並みに果てしない鉗子の旅を強いられる。ほとんど視野を確保できないので、正直、できればお近づきになりたくない血管なのだ。こればっかりは動脈瘤の位置が悪かったのを恨むしかない。
「中大脳動脈瘤発見」
素早くシルビウス裂をかっ開いていき、「島」の表面を稲妻のように駆け巡り蔓延っている動脈を確認。そして、まず一つ目の爆弾へとたどり着く。
「なんだかいやな位置に
結構距離はあるとはいえ、何かの拍子に引っ掛けないよう注意しなければ。
そんなことを考えながら、第一の爆弾の処理を開始する。内頚動脈のC1の存在を常に頭の中で確保しておきつつ、クリップ作業に取り掛かった。万一を想定して助手の研修医(市川)に吸引を構えさせておく。もし動脈が破裂して術野が血の海になったら彼女の出番だ。吸引は意外とパワフルなので、うっかり血だけじゃなく脳みそまで吸い取ってしまったらおしまい! だが、市川なら任せても平気だろう。賀茂川は怪しい。くしゃみとかしてその拍子に脳髄に吸引器の先端を突っ込みそう。「ズブッ」って感じで。
そんなことを考えつつ、件の動脈瘤を剥離、それからクリッピングを開始する。これで瘤内の血流が阻まれ、瘤は萎んでゆく。OKだ。クリップは完璧。数個のクリップが動脈にいい感じにハマっている。ちなみにクリップはこのままにしておく。チタンで出来ているので、健康にいいわけではないが、悪いわけでもない。放置しておいても問題はなし。
実を言うと、冷や汗が酷かった。本当は血流を一時遮断してからの剥離でなければリスクが高いのだが、患者が高齢であることを考慮して遮断はしないことにしたのだ。血を止めれば止めるだけ患者の術後のダメージが深刻になるからだ。
さて、お次は第二の爆弾だ。
前大脳動脈瘤である。これは比較的たどり着くのが容易な位置にある。とはいえ、第一の爆弾からは距離があるので、ここからの移動は大変な苦労だ。
えっちらおっちらと前大脳動脈瘤へ到達する。ちょっとした登山をしている気分である。
そして、
「あった」
見つけた。
大きな動脈瘤。好発部位からは若干外れていて、前交通動脈と全大脳動脈の交差部位の付近にそれはあった。先端にフィブリン塊(かさぶたみたいなもの)がへばりついているのが見える。破裂した個所を塞いでいるのだ。これが溶解すると一気に再出血のリスクが高まる。見た感じかなり脆くなっているような気がする。
「急いだ方が良い」
すかさずクリップを用意して、
「……」
いや、まてまて。これは一時遮断しないとさすがに拙いな。高齢云々とは言ってられない。
俺の鉗子を動かす手が、一瞬止まる。
コンマ一秒にも満たない時間だ。
「あ」
誰の口からそれが漏れたのかわからない。
動脈瘤が何の予兆もなく、破裂した。
「う」
一気に術野が赤く染まる。
俺の勘が一瞬で告げた。残された時間が圧倒的に少ないことを。
吸引器の動きが鈍い。
吸引が間に合わない。
クソ。やるしかない。
俺は血の海に鉗子を突っ込んで、手探りで動脈瘤を素早くクリップした。
ここまでで、わずか数秒の攻防。
その後、パッと術野が開かれる。血液が吸引されたのだ。
さて、どうなってるか。
「……よし」
クリップはちゃんと動脈瘤のネックに引っかかって血をせき止めたらしい。自分でも驚きの早業だ。正直無茶苦茶な方法だったが、成功したから良しとしよう。どのみち失敗していればおしまいだった。複数個クリップを取り付けて、完全に動脈瘤を遮断した。これで完璧。ふと、一息ついて顔を顕微鏡から離すと、近くにいた市川が額からドバドバと冷や汗を噴いていた。色々スマンな。
何はともあれ。
「よし、閉頭だ」
俺は後の作業を研修医たちに譲ると、俺は大きく息を吐いて、心の中でこう呟いたのだった。
危なかった……っ!
〇
そんなこんなで色々あったが、治療自体は上手くいった。
と思う。
むしろくも膜下出血よりも、腎臓や肺、血管など身体がボロボロなのが気になる所だが、一先ず脳出血に関しては大丈夫だ。
あとは再出血しないことを祈るしかない。
できることはやった。
完璧だ。
ループするまでもない。場数をこなしてきた俺にとって、今回の手術はそれほど難しいものではなかった。
そんなこんなで、午前中は手術に掛かり切り。午後からはまた、別の患者を診ることになった。なんて事のない症例だった。
そう言えば、なんとなくだが、今日はやけに病院が慌ただしい一日だった気がする。急患が普段よりも多かったのだ。病院の受け入れがひっ迫しているのが見て取れた。
それでも、少なくとも俺の受け持った患者で問題のあった者は一人もいなかった。なんとなく、時間的にも精神的にも余裕があった。久しぶりだった。こんなにゆったりとした日を過ごしたのは。
有体に言ってしまえば、充実した一日だった。
何も、問題はなかった。
その、はずだった。
〇
次の日。
午前五時、起床。
顔を洗って歯を磨く。
午前五時半、インターネットで論文を閲覧。同時に、執筆中の論文の構想を固める。
午前六時半、家を出立。
午前七時、白戸総合病院に到着、また、院内のコンビニで朝食を購入。
ほぼ同時刻に、緊急コール。
人を乗せた担架が、せわしなく運ばれていくのが見える。通りかかった救急隊員に話しかけると、
「高齢の男性です。脳出血を引き起しています。その他にも多くの合併症を併発しているみたいです」
「またか、最近多いなぁ、高齢者の急患。ま、いつものことだけどな」
「また?」
救急隊員の方に妙な顔で見られる。何だろう、何か妙な事を言っただろうか。
「ほら、月曜にも似たようなことがあっただろ?」
「……月曜日は今日ですよ」
「は?」
しばらく脳機能が停止した後、俺はハッとして、慌てて携帯を確認した。
昨日の日付だった。そんなまさかと、運ばれてきた急患の顔を急いで確認する。
愕然とした。
見覚えのある老人の顔だった。と言うか、昨日見たばかりの顔だった。
歳を喰うとみんな似たような顔つきになるものなのだなと、俺は色んな高齢患者を診てしばしば思うことがあったが、彼の場合は似てるとか似てないとかそんなレベルではなく、違和感で吐き気を覚えるほど昨日見た顔とそっくりだった。
強烈なデジャヴ。
この曰く言い難い独特の感覚を味わったことで、悟った。
いや、悟らずを得なかった。
どういう訳か、俺は丸一日分ループしたのだ、と。
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