憑依 三
「じゃ、ちょっと患者の診察に行ってきます」
安藤がそう言って会議室を速やかに立ち去った。
彼の同僚であり、消化器外科を主とする外科医、
「安藤の奴、大丈夫ですかね」
「大丈夫って何が?」
「いや、ここ最近妙に一人で悩んでることが多い気がするというか。まあ、元々根暗な奴でしたけど」
「ああ」杉原の言葉に、竹中はそう言えば、と言った風に話し始めた。「安藤の奴、この前の患者のこと気にしてるのかもな」
「前の患者?」
「術中に亡くなったんだよ」
「……っ!? ミスったんすか!!」
「違うよ。手術は完璧だった」
竹中はやにわに活気づいた杉原の野太い声に顔を顰めつつ、
「でも、亡くなったんだ。脳死だよ。原因は不明だけど、もしかしたら挿管が不十分で脳に酸素が行き届いてなかったかもしれないって話だ」
「そうっすか……」
「アイツ、手術で人が死んだ経験あまりないから、堪えてるんじゃないかな。それに、手術前に患者と面識があったって話だから、その時の元気な姿を知ってる分ショックは余計大きかっただろうしな」
「ハッ」と、杉原は嫌味な風に鼻で笑う。「情けない奴。学生じゃあるまいし、そんな程度で落ち込んでるんじゃ世話ないっすね。へぼ医者ですよ」
「いや、アイツは優秀な医師だよ」
だが、杉原の言葉に竹中は首を振った。それから、
「特に手術の腕には目を見張るものがある。手術ってのは普通、他の何より経験って奴がものをいう。現場じゃ本で得た知識よりも実戦経験が何より肝心だ。だけどアイツの手術の腕前は、経験豊富で熟練の医師のそれを遥かに凌駕している……と俺は見ている」
「いやいや、褒め過ぎですって! 良いとこ俺とどっこいどっこいですよ」
「何言ってんだお前とどっこいなわけねぇだろ」
竹中がため息交じりにそう吐き捨てると、杉原はぎょっと目を見開いた。
「えっ、それって……」杉原は茫然と竹中の方を見ていたが、すぐにハッとした後、「俺の方が安藤よりもずっと優秀……ってことですか?」
「あーあ」
竹中はこめかみに手を当てて、呻いた。
〇
診察を一通り終えた頃には、俺の頭の中では「患者はおそらくはてんかん発作を起こしたであろう」という考えが固まりつつあった。
こういった仕事はまず先に研修医にやらせるべきだと個人的には思うのだが、当の三人は福良美嘉がどこへやら引き連れてしごき倒しているようだった。
しかし、今回入ってきた三人の研修医は中々曲者だな。市川遥は比較的まともだけど、賀茂川長暁は通信制限のかかったモバイル通信の如く受け応えが鈍いし、白戸秀之に至っては研修医にあるまじきやる気のなさだ。
なんというか、全体的に主体性に欠けるというか。俺が研修医だった時なんか、他の脳外志望の研修医と競うようにして吻合の機会を今か今かと待ち構えていたものだけどな。夜なべして。顕微鏡だっていの一番に使いたかったし、ダヴィンチも動かしたくてしょうがなかった。今じゃすっかり失くしてしまった感覚だけれども。
それとも、俺が知らなかっただけで、最近の研修医はやる気なし、省エネ第一、みたいなのが一般的なのだろうか。無理しないようそこそこに頑張るのがモットーです、みたいな。それにしたってあいつらはちょっと変だと思うけどな。
まあ、それは兎も角。
であるからして、というわけではないが、めでたく雑用は俺の仕事となったわけである。一応は指導医なんだけどな……。
個人的には外来やら診察やらは医師でなくとも、例えば看護師やらの方が、ともすれば上手くやれるとすら思うのだが、そうもいかないのが現状である。ちゃんとした「医師」が、それも主治医などが直々に赴いて診なければ、診察の結果に納得しないのが患者の心理と言う奴だ。やれ「主治医を連れてこい」だの「院長を出せ」だの無茶ばかり言う。それで結局、平日だろうが土日だろうが引っ張りだこというわけだ。休みなどない。
「今から頭部のMRIを撮ります」
そんなことを考えつつ、病室のベッドに寝かされている娘……ではなく、その傍らに付き添っている男、彼女の父親に向かって俺は言った。子供は苦手だ。
「……と言うと、娘の頭に何か異常が?」
父親はと言うと、若干の動揺を見せつつも、努めて冷静に、取った具合だった。
名前は
いや、今はこんなことを考えている時じゃない。雑念をぶるぶると振り払う。
「その可能性が高いので、今からそれを確かめるために検査します」
てんかん発作は大脳皮質のニューロンの異常興奮によって起こる、慢性の中枢神経疾患だ。まず脳に異常があると考えていい。
「なるほど」
何を納得したのか知らないが、父親は懐からごそごそと携帯電話を取り出すと何やらしきりに文字を打ち始めた。SNSで病院と担当医のネガティブキャンペーンでもしてなければいいのだが。
「大脳に腫瘍がないかを調べるんです。それから、てんかんの確定診断にも必要です」
「腫瘍? ガンってことですか」
「悪性であれば、そうですね。そこは調べて見なければ」
「そうですか……」
はぁ、と息をつく未森劉生。
ふと、彼の唇が紅く腫れていることに気が付いた。若干のかさぶたも形成されている。別に取り立てて珍しい症状でもないのだが、アレは確か……。
「ガンって?」
今まで黙りこくっていた娘が唐突に口を開いたことで、俺の思考は断絶した。
父親に目配せしたが、彼は娘をじっと見つめるのみで反応しなかった。小児と話すのは苦手だが、仕方がない。
「あー……そうだな。
身体を構成する細胞の一部が、体の制御を外れて反乱を起こすことが稀にある。そいつらはやたらに増えたり、付近の他の細胞たちを食い荒らしたりするんだ。そういう自分勝手な細胞たちの塊を先生たちは「ガン」って呼んでるんだよ。「悪性新生物」とも呼んでるかな」
「あくまだ」
俺を説明をじっと聞いていた娘が、そう言った。
あくま? 悪魔か?
なぜ急にそんなことを言い出した?
いや、そう言えば確か、賀茂川長暁が診た時も似たようなことを言っていたらしいな。
まあ、子どもの考えることは大抵突拍子のないものか。別に意味なんてないのだろうな。悪性新生物っていう如何にも悪どそうな響きが悪魔を連想させたとか、そんな感じだろう。
「そうだな、悪魔だと言えなくもないかもしれないな」
「悪さするの」
「しない奴もいるよ。でも、どちらにせよそれが脳にあるなら、早めに切り取ってしまった方がいい。脳は力強いけど繊細で、腫瘍がただそこにあるだけでも悪い症状が出てしまうことがあるから」
「じゃあ、先生のも取るの」
「えっ?」
心臓が飛び跳ねた。
急に何を言いだすんだ。
「先生の頭の中にもいる」
「……」
「悪魔が。先生は呪われてる」
娘はそれから、俺の背後の方を指さす。自分の顔が引き攣るのを感じた。一応振り返って見るが、当然後ろには何もいない。
再び視線を娘の方に戻すと、ギョッとした。
娘の目は最早焦点があっておらず、視線も定まっていない。重度のアルコール中毒患者のごとく、あっちこっちに眼球が彷徨った挙句の果てに白目を向いた。
「ははっ……」
コイツはヤバい。
乾いた声で何とか笑っては見せたものの。さて、どうするべきか。
これは何らかの疾患なのか。それとも、この娘は普段からこんな感じなのだろうか。
どうにもこうにもいかなくなって、俺はあてもなく視線を彷徨わせた挙句に、助けを求めて父親の方を見た。
ところが父親は全くの動揺を見せなかった。娘を見てニヤニヤ笑っているのみである。
こっちもこっちで、大変不気味であった。
二人そろってなんだかきな臭い親子だな。
「安心してください」
胡乱な目を向ける俺をどう解釈したか、父親は俺に向かってそんなことを口にすると、それからにこりと微笑んだ。だが「安心しろ」などと言われても、俺の中の疑念はますます膨らんでゆくばかりだった。
「は、はぁ。安心ですか」
患者が妙なことを口走り始めてる上に目がイってるのに、安心なんてできるわけないだろ。
「娘は時々こうなるんですよ」
「……何ですって?」
俺がそう聞き返すと、父親は神妙な顔で腕を組むと、声を顰めさせて、
「二年くらい前からですかね。娘はこうして神がかるんです」
何言ってんだこいつ。二年前だと? 神がかる? 二年前から娘が意味の解らないことを口走っているのを、ただ黙って見ていたというのか。
混乱する俺を他所に、父親はさらに、俺の頭に植え付けられた頭痛の種を勢いよく芽吹かせるようなことを言い出した。
「娘は予言の力を持っているんですよ」
「……」
俺はしばらく茫然と父親の顔をじっと見つめ、それから娘の顔を見た。
そして、その露骨さが二人にばれないよう、ゆっくりと手を眉間に押し当てて、項垂れた。
俺の心情はこうだ。トンデモない患者がやってきた。やれやれ。
もちろん、こんなのは病院じゃ珍しくもない。頭のイかれた患者を相手にしたことは何度だってある。病室で全裸になる奴とか、バスタブで釣りを始める奴とか、ところ構わず齧り付く奴とか、前世がキリストの奴とか。ただ、今回は一見すると二人とも普通だから、虚を突かれたってだけだ。この頭痛と異常なまでの虚脱感は多分それが事由。
しかし、「あくま」か。
娘が言っていた妄言虚言或いは幻覚症状。
「頭の中に悪魔がいる」って言ってたけれど、まさか俺の頭の中の腫瘍のことじゃなかろうな。
いや、たまたまか?
「予言」ね。
……まさかな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます