憑依 二





 会議室での一件は、少なくとも当時の俺にとっては然したる問題ではなかったらしい。


 あの後、丸半日病院に勤務していれば、あの程度の違和感はすぐに忘れてしまった。あれが単なる気のせい、デジャヴのようなものだったのなら、それでおしまいのはずだった。実際、あれから半日間、違和感の或る出来事は一切起きなかったので俺は昼の出来事をすっかり頭から放り投げてしまっていた。


 だけど、もし何かしらの異常が俺の身体を蝕んているのだとしたら、半日程度の無症状など嵐の前の静けさと言う奴に過ぎない。


 当然俺がわざわざこんなことを語っているということは、あの違和感は単なるデジャヴやらの気のせいなどではなかったということであり、つまりは異変はそのあとも慢性的に続いたのだった。


 というわけで、異変その一。


 「永遠にループし続ける廊下」


 アレは、確か三日後の昼下がりだった。


 なんの前兆もなくは起きた。


 いつものように、俺は別の棟に向かうべき渡り廊下を渡って、それから曲がり角を曲がった。


 しかし、曲がり角を曲がって、顔を上げると


 気のせいだと思って、もう一度渡り廊下を渡って曲がり角を曲がった。曲がり角を曲がり終えると、当たり前のように渡り廊下が目前に広がっていた。


 今度は引き返して見た。


 やはり、渡り廊下が広がっていた。


 というわけで(どういうわけだ?)俺は、渡り廊下に閉じ込められた。何度歩きすぎようとしても、絶対に同じ廊下から抜け出せないのだ。まるで廊下の先と先を切ってつなげたかのようだった。


 どうにもこうにもならずに、周りの人間に助けを求めようにも、彼らは俺の身に起こっている異変を認知することができないでいた。どういうことかと言うと、渡り廊下に閉じ込められている、と道行く人に素直に話してみた所、頭がおかしいといった風に怪訝な顔を向けられてしまったのだ。


 事実、一時間ほどループを繰り返したが廊下を渡る人の顔ぶれも変化がなかった。また、俺が何度も同じ渡り廊下を渡っていることに気が付いていなかった。どういうこっちゃ。あり得ないぞ。


 だれも異変を認知できず、俺だけが一人右往左往してしる。


 新感覚のホラー映画を見ている気分だった。


 にっちもさっちもいかずに廊下の隅に座り込んで項垂れていると、ふと部長の竹中さんが胡乱な目で俺を見ているのに気が付き、と同時にループ現象がいつの間にか終わっていることにも気が付いた。


「ちゃんと休憩、とってるか?」


 と竹中さんに心配の御声をかけてもらった際には軽く死にたくなった。


 異変その二。


 「トイレから出たらトイレ」


 昼休憩にトイレに立ち寄った時のことだ。


 時間もないのでささっと済ませた後、手を洗ってハンカチを取り出しつつさあトイレを出ようと顔を上げたら、俺の目の前にトイレがあった。


 ついでに、先ほどすっきりさせたはずの尿意も元通りだ。


 俺が茫然と立ち尽くしていると、どうやら同じくトイレにやってきていたらしい、同僚の杉原が「お前……大丈夫か?」と声をかけてきた。絶対に変な奴だと思われたな、アレは。


 その他にも、二、三回ほど、同様の異変に巻き込まれた。その全てが気が付くと元の状態に戻った。が、だからと言って、「じゃあ安心だ」と胸をなでおろすことなどできるはずもなく。


 ここまで奇妙な出来事が立て続けに起こったのだ。さすがに俺もデジャヴだのなんだのと、とやかくと言ってられず焦りと危惧が募った。


 すぐに、こんなことになってしまった原因を探った。探ったとは言ったが、心当たりなど結局のところ一つしかない。


 頭の中の腫瘍だ。


 腫瘍のせいで幻覚か何かを見始めているのではないか? そう思った。


 実際は幻覚なんて生易しいものではなく、それよりもが発現しているのだが、そのことが確信に変わるにはもう少しの時間と症状の進行が必要だった。


 そのきっかけとなった出来事が間もなく起こる。


 異変その三について話そう。


 ……と行きたい所だが、この話は少々長くなるのだ。


 ので、まずはあの患者が救急で運ばれた時のところから話しを始めることにしようかな。







 六月十七日 午後四時十二分。


 十一歳の少女が痙攣を引き起して、救急搬送された。


 そして、近くの病院であった白戸総合病院、つまりは俺の勤務している病院へと運ばれてきた。


 会議室にて、竹中さん率いるチーム(俺、杉原瑞樹、福良美嘉)と先月新しく入ってきた研修医たち三人とで診断を始める。いつものルーティーンだ。


「まずは非てんかん性疾患との鑑別だな」


 竹中さんに続いて、福良美嘉がすかさず、


「鑑別すべき主な非てんかん性疾患は?」


 と言って、顎で研修医たちを指した。三人に緊張が走った。いや、正確には福良美嘉の不意打ちに身構えたのは二人だけだった。残りの一人は一切の動揺を見せない。「白戸しらど秀之ひでゆき」。もうだ。肝の座り方がそこらの連中とは違うのだろう。


「えっーと」


 取り合えず口を開いたはいいものの、特に言葉が出てこないのが「賀茂川かもがわ長暁ながあき」。


 そして、


「てんかんと似た症状をきたす主な疾患は、

 失神、一過性脳虚血、片頭痛、代謝障害、過換気症候群、入眠時ミオクローヌス、認知症、REM睡眠行動異常症、チック、ムズムズ脚症候群、

 ですね」

「及第点。アンタ名前は?」

「市川です。市川遥いちかわ はるか


 角ばった眼鏡に、ロングヘアー。若い女性の研修医だった。最近はかなり増えたとはいえ、やはり医師になる女性の割合は、男性よりもまだまだ少ないのが現状だ。

 市川遥は数少ない女性研修医の中でも相当に優秀らしいと風の噂で聞いた。


「アンタの名前だけは覚えといてあげる」


 しかし福良美嘉は相変わらずの厳しい物言いである。いちいち研修医を威圧するのはやめてほしい。


「てんかんについて百回復習しときなさい。もしアンタ等が誤診したときに心理的社会的不利益を被る羽目になる可哀そうな患者の顔を想像しながらね」


 だから、止めろって。気まずいから。


 まあ、白戸秀之は変わらず飄々としてるようだけど、賀茂川長暁は顔を若干青ざめさせている。


「もしてんかんだとしたら、脳腫瘍が原因ですかね? だとしたら、その位置は……」


 杉原はそれから、何かを唐突に思い出したかのようにハッと目を見開いたかと思うと、きりっとした顔で研修医たちの方を見やった。そう言えば、杉原の奴、「研修医たちに尊敬されたい」だとか「ちゃんとした指導を」とかぼやいていた気がする。今も「出来る指導医」を演じているのかもしれない。個人的は、そのキメ顔はやめた方がいいと思う。


「あー……。てんかん発作は大脳半球の局所症状ですね。てんかん発作の他には感覚障害、同名性半盲、片麻痺、それから……」


 相変わらず無言の男二人と、研修医たちを凝視している上司の医師一人に市川遥は若干引きつつも、特に支障なくつらつらと症状を連ねていった。


「それから、失語、などの初期症状が考えられます」


 反射的に、眉がピクリと持ち上がったのを感じた。


 失語か……。嫌なことを思い出した。


「発作からしばらく時間が経ってるし、脳波は後回しにして、まずは頭部のMRIを取る。その前に問診もしないといけないな」

「異議ナーシ」


 竹中さんが方針を決定し、杉原が同意を示す。俺と福良美嘉、研修医たちに否応はなかった。


「あ、そう言えば」


 解散寸前といった時に、「思い出した」とばかりに、賀茂川が口を開く。


「患者の娘が妙なことを口走ってました。多分小児特有の妄想でしょうけど」


 福良美嘉が眉を顰めるのを肌で感じ取った。気がかりなことがあったなら、早く言えと言わんばかりの雰囲気だ。当の賀茂川は福良美嘉の感情の機微に気が付いていないようだが。


 と、そんな俺の呆れを蝋燭の火を吹き消すみたいにふっと消し去ったのには、賀茂川の続く言葉にその理由があった。



「確か……


――悪魔がいる――


 って言ってたような」


 悪魔……?


 何の話だか知らないが、おそらくは幻覚か妄想が見せた幻なのだろう。


 そう思っていた。


 そういえば、今思い返してみれば、あの時の俺は「悪魔」と言う言葉に妙に気が掛かっていたように思える。


 もしかしたら、言いようもない何かの予感とも言うべきものにあてられていのかもしれない。


 予感など下らない。と言いたいところなのだが、文字通り悪魔の仕業だとしか思えないような現象がこの後起こるわけであり、ともすれば予感と言うものも強ち馬鹿に出来ないのであった。


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