第9話 明日へと繋ぐものは……
一
いつの間にか赤子のように泣き疲れて眠っていたらしい。
羽織っていた小袖は畳のうえに広がっている。
浅葱はとめどない悪夢の淵から、蝶が羽化するようにずるりと覚醒した。
障子の向こうはまだ明るかった。
急いで障子を薄く開けると、日はすでに傾いて日差しは弱まっている。
夕暮れは近かった。
男物の小袖を振り払うように脱ぎ、浅太郎が羽織っていた小袖に着替えた。
帯を締める手も、もどかしい。
女髪結いを呼んで髪の毛を結い上げる間などない。
鏡台の前に座って自分の手で髪を纏め、島田髷の髱が銀杏の葉のように見える《銀杏髷》に結った。
結い終わった途端、鏡の覆い布が勝手に落ちて鏡面を覆い隠した。
立ち上がって部屋の障子に手を掛けたが、再び鏡台の前に引き返した。
うちは一人前のおなごや。
鏡台の前にもう一度しゃんと座り直した。
仕舞い込んだまま忘れていた紅猪口を取り出す。
紅は、重右衛門に貰った日のまま、玉虫色に鮮やかな光を放っていた。
紅筆を持つ指が震える。
左手に紅猪口、右手に筆を持ち、生まれて初めて紅を引いた。
「これでええ」
着物の褄を取って、濡れ縁を小走りに急いだ。
内玄関の帳場格子の結界のうちにお峰の姿が見えた。
「浅葱はん。お出かけどすか」
慌てて腰を浮かすお峰を横目に通り過ぎた。
下女中を呼んで、履き物を持ってこさせる間も惜しい。
足袋裸足で土間に下り、上がり框の下の戸を開いて、目に付いた草履を取り出した。
草履を突っ掛けた浅葱は、つんのめりそうになりながら通りにまろび出た。
「壬生村の前川邸まで急いでんか」
店先に二挺用意された駕籠の一つに乗り込んだ。
「お嬢はん。待っとくれやす。うちも行きますよってに」
大慌てで追ってきたお峰が、もう一挺の駕籠に乗り込んだ。
二つ連なった駕籠は坊城通に出るや、一路、北へとひた走った。
壬生村への道すがら、駕籠の揺れに身を任せながら、浅葱の心は葛山への怒りに震え始めた。
ほんまに葛山さまは阿呆え。
義のために死ぬのが、そないに立派なんか。
〝義〟ていったい何え。
おなごのうちにはわからしまへん。
今までの〝借り〟を綺麗さっぱり帳消しにするつもりだろうが、小さな善行を積み重ね、借りた以上に利子をつけて返すほうが、よほど立派ではないか。
浅葱は、指が白くなって感覚がなくなるほど、駕籠の吊り紐を強く握り締めた。
二
前川邸に到着した浅葱は、長屋門の門前に立つ隊士に、土方への取り次ぎを頼んだ。
空は既に朱に染まっている。
屯所には隊士の出入りもなく、外からは人の気配が感じられなかった。
重苦しい異様な雰囲気に押しつぶされそうになりながら、応対に出た平隊士に何度もせっついた。
お峰も口添えしてくれるが、角張った痘痕面の若い平隊士は、
「ならぬ。今宵は誰も部外者は入れぬ」の一点張りだった。
平隊士は入隊したばかりらしく、見知らぬ男だった。
まるで融通の利かぬ石頭が羽織を着ているようで、押そうが引こうが、意固地になるばかりである。
押し問答するうちにも時ばかりが経つ。
「土方さまがお忙しいなら、沖田さまに取り次ぎをお願いします」
浅葱は平隊士の胸倉を掴まんばかりに詰め寄った。
「ええい。くどい。そもそもおなご供が参る場所ではない」
気が立っている平隊士は、浅葱の軽い体を邪険に突き飛ばした。
「お嬢はん。大丈夫どすか」
通りに倒れ伏した浅葱を、お峰が駆け寄って抱き起こし、袂から取り出した手拭いで汚れを払った。
表玄関に続く石畳を歩く下駄の音とともに、
「入れてやれ。三崎屋の浅葱殿だ」
沖田の力強い声が響いた。
「取り次いでも大事ない。浅葱殿を貴公は知らぬのか」
沖田の低い叱責の声に、平隊士が体を硬くしてかしこまった。
今宵の沖田は物腰も言葉遣いも落ち着き、老成した威圧感を感じさせた。
「ささ。参られよ。浅葱殿」
沖田とともに前川邸内に入った。
平隊士が先に立って浅葱を案内する。
勝手口から竈が置かれた土間に出た。
沖田は視線だけで平隊士に案内を託すと、一人だけ母屋に上がり、小部屋に入って障子をぴしゃりと閉めてしまった。
「あ、あの……。沖田さまは……」
答の想像はついたが、案内の平隊士に訊ねずにいられなかった。
「沖田先生は、葛山さまの希望で介錯の労をとられる。刻限までお一人で精神を集中なさりたいのであろう」
平隊士はぶっきらぼうに返答をよこした。
生々しい衝撃に倒れそうになる。
切腹場所は坊城通りに面した小部屋だろうか。
既に整えられて、主役の登場を待ちわびている切腹の場が目に浮かんだ。
「さ、さ。こちらへ参られよ」
平隊士に案内されるままに、離れに上がった。
着物の裾の衣擦れの音ばかりが耳に大きく響く。
足ががくがくと震えて、両足を交互に運ぶ動きさえぎこちなくなった。
平隊士は土方の部屋の前で立ち止まり、土方に声を掛けてから、恭しく障子を開けた。
「土方さま。お願いどす。なんとか葛山さまに会わせとくれやす」
部屋に入るなり、単刀直入に乞うた。
「浅太郎が参ったと思えば、今度は姉君のお出ましか。葛山は誰にも会わぬと申しておると、浅太郎に言っておいたはずだが」
浅葱の髪の乱れたありさまに、土方は露骨に怪訝な表情をした。
「ちょっとだけでよろしおす。会うて葛山さまにお伝えしたいことがおます」
承諾を得られるまで視線をはずすものかと、土方の瞳をじっと見つめた。
「ふうむ。なにやら子細ありげだな。まあよい。では、葛山がおる部屋まで案内させよう」
土方は目を細めて静かに頷いた。
「ほんまどすか。おおきに」
浅葱は畳に額をすりつけて平身低頭した。
三
離れからも母屋からも独立し、塀で囲まれた四畳の部屋に案内された。
狭い中庭に面した障子は閉められていた。
お次の間といえる板張りの廊下に座すよう指示された。
入口の戸を閉められた廊下は暗かった。
襖の内は誰もいないのではと思えるほど静かである。
日没の近さがひしひしと感じられた。
「葛山さま。浅葱どす」
見えぬ相手に向かって、三つ指を突いて頭を下げた。
しばらく返事はなかった。
誰かが咳き込む声が離れた場所から響いてきた。
「葛山さま……」
浅葱は二人を分け隔つ襖に、にじり寄った。
襖の引手に手をかけようとした、その刹那――。
「ならぬ」
静かだが決然とした声が浅葱を制した。
絶望と無力さが、浅葱の空虚な胸の中を薄墨色から鈍色へ、鈍色から漆黒へと染めた。
葛山にとって、浅葱は見知った小娘でしかない。
静かに死を待つ葛山にとって、浅葱の訪いは不快でしかないだろう。
持って生まれた優しさゆえ、すげなく追い払えず、大いに困惑しているに相違なかった。
すぐにも立ち去るべきだと悟った浅葱が、
「すんまへん。堪忍どすえ」と、腰を上げかけたときだった。
「勘弁いただきたい。拙者は、不器用なのだ」
葛山がぽつりと呟いた。
浅葱の胸の空洞が震える。
「謝るのは、うちのほうどす。葛山さまを責めてばっかしで、堪忍どす」
次の言葉を黙して待った。
葛山の息づかいが感じられるのみで、刻が止まった。
たった一枚の襖を隔てただけなのに、葛山は霞が掛かるほど遠く思われた。
すべての音が持ち去られたかのように静まりかえっている。
耳のなかを地虫が鳴くような音ばかりが反響した。
襖の向こうで、身じろぎするかすかな音がして、
「浅葱殿に、もう少し早く会うておれば……」
胸に溜め込んでいた息を一気に吐き出すように、葛山が呟いた。
うちの一人芝居やなかった。
胸の空洞に張り詰めていた琴線が弾け、浅葱色の音色が木霊した。
「うちのために生きて欲しい……ちゅうのは、あきまへんのどすか」
命を振り絞るように乞うた。
「すまぬ」
葛山の詫びる言葉には清々しささえ感じられた。
静寂が幕となって浅葱と葛山を隔てた。
いよいよ暗くなった。廊下は闇に沈む。
「そろそろ刻限なれば、お迎えに参りました」
沈んだ口調の隊士の声が、庭先から聞こえた。
「ご苦労に存ずる」
静かに部屋を出て行く衣擦れの音が浅葱の耳に届いた。
足音が母屋の方角に遠ざかる。
残された浅葱は人形のように固まった。いや……。
人形だから涙も出ない。
浅葱は目を見開いたまま、気配が消え失せた部屋の襖を見詰め続けた。
四
「でかした。浅葱」
「よう頑張ったえ」
産湯を使わされたあと〝おくるみ〟にくるまれた双子の赤ん坊を、重右衛門とお信が大事そうに抱く。
「お嬢はんは産後の体どすよってに、大事とって寝とかなあきまへんえ」
お峰が、床から離れようとする浅葱に無理矢理、大布団を掛けた。
「壬生から戻った浅葱は一月余りも惚けたままやったさかい、えらい心配したもんやが。良かった。良かった」
目尻を下げた重右衛門のいかつい顔が、息の掛かるほど目の前に迫ってきた。
たった一本だけ剃り残された顎の髭が目立っている。
「おおきに」
浅葱は小さく頷いて重右衛門に笑みを返した。
己の心の変貌ぶりが心地よかった。
今朝、うちは突然、赤子の泣き声で目ぇ覚ました。
なんでかわからんけど、両隣で泣く双子の赤子が、うちと葛山さまの子ぉに違いおへんと、すぐわかったえ。
不可思議な奇跡だったが、浅葱には自然な流れに感じられた。
生まれてこのかたずっと抱えていた〝胸の中の空洞〟も今は満たされている。
空疎な胸が埋まると同時に『浅太郎はもうどこにもいない』と確信した。
「生まれたときから、ちゃんと男の子と女の子や」
「浅葱のときは、おなごになったり男になったり、くるくる入れ替わるさかいに、うちらはどないしよかと気を揉んだものやなあ。あんた」
重右衛門とお信は互いに顔を見合わせ、年輪を重ねた夫婦らしい笑みを交わし合った。
「けど、誰のお子どすやろか。土方さまどっしゃろか。沖田さまちゅうことはおへんと思いますけど」
お峰が見当違いな見立てを口にしながら目を輝かせた。
重右衛門とお信、お峰は揃って、〝一夜にして授かった赤子が浅葱の子である不可思議〟を自然に受け入れていた。
「見世の者やら世間さまには、どないに説明したらよろしおすやろな」
お峰が右手の指先を畳について前に身を乗り出した。
「早ぅ考えんとあきまへんなあ」
お信は袖で目頭を押さえた。
「浅葱は細い体なもんでふくれた腹が目立たんかったとでも言い繕うしかおへんえ」
重右衛門らは楽しい悪戯でも企む子供たちのように額を付き合わせた。
「うちのときかて《腹が目立たん質で周りの誰も気付かんかった》いうて誤魔化し通しましたどすやろ。心配おへんえ」
お信は今まで見た験しのない満面の笑みで、片目をつぶって見せた。
「ほな。うちは乳母(おんば)はんを探しに、あちこち当たってきまっさ」
お峰は着物の裾を引く音も小気味よく、いそいそ、浅葱の部屋を後にした。
「名前を考えんといかんな」
「ほんまに浅葱と浅太郎が赤子のときと瓜二つどす」
「いやいや見知った誰ぞに似てるような……」
重右衛門とお信の語らいは尽きそうもなかった。
野分でも近づいているのか。
廊下に面した障子が風でがたがたと鳴った。
雨の匂いが部屋のうちにも流れ込む。
大布団の掛かった足下から寒気が這い上り、瞼が重くなった。
「うちはちょっと眠となったさかい、一人にしてんか」
浅葱の言葉にお信が「ほな、赤子はうちらが見とくさかい、あんたはゆっくり休むんえ」と大布団をそっと掛け直してくれた。
重右衛門とお信は、それぞれの胸に宝物のように赤子を抱きながら、そろりそろりと部屋を出る。
襖がそっと閉められる密やかな音を聞きながら、浅葱は心地良い眠りに就いた。
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