第2話 謎の男と憧れの行方は、賀茂の流れに……


          一


 京の街に祇園会の囃子が聞こえる。

 ただでさえ盆地の夏は暑いのに、祇園囃子がにぎにぎしいとなお暑苦しい。浅葱には、何が面白くて皆が祭を楽しみにしているか、一向にわからなかった。


 浅葱は夕暮れ迫る太夫町通を、退屈な生け花の稽古から戻ってきた。

 京の外れにある島原までは祇園囃子も追って来ない。粋な三味線や鼓の聞き馴染んだ音が、そこかしこから聞こえる。

「ここらまで来たら、ほっとするわ」

 日傘を畳む小女に話しかけながら、浅葱は開いた京扇子で顔に風を送った。

 

 三崎屋の前では、篠山の山奥から出てきたばかりの下女中が、額に汗しながら水を撒いていた。浅葱に気付いてぺこぺこ卑屈に、田舎娘丸出しなお辞儀をした。

 見世の前の打ち水は、すぐさま乾く。

 賽の河原の石積みと同じではないか。

 浅葱は、山出し娘の鼻の頭に光る汗を醜く感じて目を逸らした。

 世間の範疇によれば、このような山猿と自分が同じ〝若いおなご〟と一括りにされるのかと思うと、浅葱は許せない気がした。

 生まれも育ちも異なる。何より、器量が違う。男と女、老若で区別すれば、浅葱も山出し女も同じ部類に入る理だが、天地の開きがあった。


 浅葱が、小女に暖簾を持ち上げさせて見世のうちに入ると、珍しく重右衛門の顔があった。重右衛門は到着したばかりらしく、今しも真新しい累ね草履を脱いでいるところである。浅葱の顔を見て、重右衛門は、

「お客はんが来たて、お信から使いが来たもんでな」

 たちまち相好を崩しながら、浅葱の顔をまじまじとのぞき込んだ。


「浅葱。こないだ買うたった紅はつけてへんのかいな。せっかく名高い〝笹色飛光紅〟ちゅう小町紅を、わざわざ玉屋から買うたったのに」

 重右衛門の問いかけに浅葱は、高価な紅が放つ輝きを思い出した。

 容器の内側に塗られ乾かされた紅は、赤色ではなく笹色(玉虫色)に光っていた。大人を感じさせる艶っぽさが、浅葱には厭わしく感じられて、鏡台の引き出しの奥深く放り込んだまま忘れて去っていた。

「うちは紅なんかつけしまへんて、前にも言うたやおへんか。ましてあないな色は。うちには似合わしまへん」

 浅葱は、あとで小女にでもくれてやろうと考えながら、素っ気なく返した。

「流行の色やおへんか。品切れでなかなか手に入らへんのを、無理して手に入れたったのやで」

 重右衛門は未練がましく、口中でなおももごもご呟いた。

「うちは欲しいて一言もいうてまへんえ」

 ぴしゃりとはねつけた浅葱の言葉に、重右衛門は性懲りもなく、

「そのびらびら簪、よう似合おてるやないか」と左の蟀谷近くに差した簪を褒めながら、浅葱の髪を撫でかけた。

 浅葱の背筋を、得体の知れぬ虫が這い上った。

「いややわあ。お父はん。触らんとってんか」

 商人に似合わぬ竹刀胼胝のある、重右衛門のごつい手を振り払った。

「こりゃ、すまんすまん」

 重右衛門は亀のように首を竦め、ばつ悪そうに慌てて手を後ろにやった。

「なんぼお父はん言うたかて、男はんの手ぇは脂っぽいさかい、触られるのは厭どすねん」

 よくわからぬ怒りが、ふつふつと込み上げてきた。

 幼い頃は、平気で頬擦りさせてやったが、近頃は重右衛門の顔を見るだけで総毛立つ。いかにも男でございといったむさ苦しさが許せなかった。

 牡に特有の、獣じみた臭いや肌の肌理の荒さが、汚らわしく疎ましい。


「ほな。ちょっと客間に行って来るわな」

 背を丸め加減にした重右衛門は、そそくさと見世の奥に消えた。娘に卑屈な父を見れば(実の娘に、なんぞやらしい気持ちを持ってるんやないか)とまで思えて、なおさら毛虫のように思えた。


「ささ、お嬢様」小女が遠慮がちに浅葱の草履を脱がせた。

 草履は、お信にねだって買わせたばかりの、黒紫の緒のついた鮮やかな緋天の縁取りに二枚重ねの草履だった。


「ほんまに、いややわあ」

 浅葱は大振袖に紋付き裾模様の着物の袖口を唇に当てて呟いた。

 男嫌いでは恋もできない。一人前の女になるなど夢のまた夢になる。


 毎夕のことだが、慌ただしい刻限だった。表玄関には、芸妓、舞妓に仲居たちが花のように咲き乱れている。現役を続ける老芸妓も混ざっているが、玄人なだけに垢抜けているから艶やかには違いない。

 お峰は帳場に座って帳面片手に差配をしていた。どの芸妓にどのお座敷を割り振るかはお峰の胸先三寸だった。


 浅葱が二人の芸妓の前を通り過ぎようとしたとき。

「あんなあへ。昨日、千紅万紫楼のお座敷に壬生狼が来てたんえ」

 若い芸妓と年増の芸妓との話が、ふと耳に入った。

「おお怖わ。壬生狼ちゅうたら、ついこないだも大坂で相撲取り相手に喧嘩しはって、何人も斬り殺しはったそうどすやろ。あないな乱暴もんばっかしやさかい、角屋の旦さんもえろう嫌てはるそうやおへんか」

「それがなあ」若いほうの芸妓が、得意げに顔を突き出した。

「井上松五郎さまちゅうお侍はんが、上様の警護で江戸へ戻らはるちゅうて、送別の宴を開かはったのどすけど。近藤さまのお仲間だけやったよってに、えろう楽しおましたえ」

 ほほほと意味ありげに笑った。

「ほなら、あの土方さまも来てはったんかいな。あ~羨ましおすえ」

 年増の芸妓が大きな溜息をついた。

「無骨な乱暴者ばっかしの壬生狼やけど、あの土方はんちゅう男はんだけは違うえ。おなごに優しいうえに、役者にしたいようなええ男はんや」

 若い芸妓が、夢見るように中空に目を泳がせた。

「近頃、如月さまが懸想してはる、あの葛山ちゅう虚無僧はんと、ええ勝負どすえ」

「土方さまは、あちこちの綺麗どころから、わんさと恋文が届くやそうやおへんか」

「花君太夫さまに、大阪新町の太夫はんに、祇園の芸妓・舞妓まで、数え切れんほどの綺麗どころが、熱を上げてはるそうどすえ」

 女たちの噂話はどんどん熱くなる。


「あほくさ。土方さまが、どないっちゅうねんな」

 浅葱は聞こえよがしに呟きながら、早々に奥へと向かった。


             二


 濡れ縁で浅葱は、あたふたと帳場に向かう如月付きの引舟に出くわした。

「また如月が、我が儘ぁ言うてるんかいな」

 浅葱はむかっ腹を立てながら尋ねた。

「へえ。角屋はんから、とっくに差紙もろて、太夫道中の刻限が迫っているちゅうのに。まだ身支度してもらえまへんのや。毎晩これでは困りますえ」

 眉間に深い皺を寄せた引舟は、浅葱の返答も聞かずに帳場へ消えた。


「如月は、こったいさまやから、己が一番、偉いと思てるんや。今日という今日は、うちがはっきり言うたる」

 浅葱は着物の裾を引きずりながら、すたすた離れ屋へ急いだ。

 褄を右手でぐいと取るや、鼻息も荒く二階に駆け上がると、廊下と四畳の間で、二人の禿がおろおろしていた。

「あんたら目障りや。他所、行き」

浅葱は禿を、野良猫のように追い払った。


 四畳の間と六畳の間の境の葭戸はぴしゃりと閉められていて、奥から嗚咽が聞こえた。葭戸の隙間から、籐で編まれた網代のうえに突っ伏して泣く、如月の姿が見える。

 立兵庫の髪は結い上がっているものの、鼈甲の大きな櫛のみで、笄や花簪は挿してはいなかった。意匠を凝らした涼しげな夏柄の打ち掛けも、衣桁に掛かったままである。


「あんた。お父はんが無闇にほちゃほちゃしはるちゅうて、図に乗るんやないで。ええ加減にしいや」

 浅葱は葭戸をがらりと開け、六畳の間にずかずかと足を踏み入れた。如月は光る瞳でゆっくりと顔を上げた。

「勝手にうちの部屋に入らんとくれやす」

 涙に濡れているが射すくめるようなきつい目が、浅葱を見上げた。

 如月は、浅葱を『どうせ嫁に行って、おらんようになる者や』と軽んじている、と思えば、浅葱の頭にかっと血が上った。

「この為体はどういうこっちゃ。小娘みたいにうじうじ泣いてからに」

 浅葱は如月の前に仁王立ちした。

「小娘に、小娘と言われとうはないなまし」

 如月に図星を指され、浅葱の頬がぴくぴく動いた。


 さして年齢に違いはない。だが、如月は男を知っている。いや、知り尽くしている。なにより、今は恋を知っている。

 女としての年齢でいうなら、大人と子供だった。

「葛山いう虚無僧宛に、毎日のように文をやっている、いうやないか。文を書く相手が違うえ。もっと金になるお大尽に、誘いの文を書かんかいな」

 浅葱は矛先を逸らすしかない。

「『会えずとも、せめて尺の音なりとも……』てお願いしたら、葛山さまは快よう引き受けてくだされたなんし」

 夢見るような如月の眼差しに、浅葱の身のうちから苛立ちの炎が燃え立つ。

「裏木戸の戸口で尺八をひとしきり吹いたら、心付けをもろて帰って行く。たったそんだけやないか。向こうも、ただの商売や。それが証拠に、会うてもくれへんのやろ?」

 浅葱の言葉に、如月の目がきつく吊り上がった。

「うちの手管に靡かん男はんは、おらんなまし。葛山さまは謙虚なお方やさかいに、まだ遠慮してはるだけえ。けど……」

 如月の目尻が朱をはき、視線が彷徨う。

「けど……。このまま葛山さまに会わんままやと……。うちは死んでしまうなます」

 突如、大きく身を震わせた。我が身を哀れぶる如月が、どうにも憎らしい。

「あほ言わんとってんか。あんたをこったいにするのに、なんぼ金子と時間が掛かってると思うてるねんな」浅葱は叱りつけた。


「浅葱はんが金を出したんか。贅沢して遊んでる苦労知らずのお嬢はんのくせして」 

 太夫独特の悠長な〝なます言葉〟が消えて、如月の中にいる女が剥き出しになった。

 如月は浅葱を見下すように顎をしゃくった。

「うちはなあ。さる御国の歴とした番士の娘や。あんたみたいな町娘とは生まれが違う」

「その歴としたお武家はんが、聞いて呆れるわ。娘を女衒に売るて」

 言い返す浅葱の言葉に、今度は如月が血相を変えた。


「あんたの親は、どないえ。あんたらは、畜生腹から生まれた双子やないかいな」

 一等、気にしている禁句を突かれ、浅葱の腹の底がぐつぐつ煮え返った。

「姉分の睦月は気立てがええのにぃ。あんたはうちと張り合うてケンケンしてからに。睦月がお公家はんの家(うち)の生まれで、あんたは撃剣師匠の娘ちゅう荒々しい出自のせいどすやろか~」

「武家には武家の矜恃がおますよってな」如月が顔を背けてうそぶいた。

「ほんまに不運が重なっただけや。浅葱はんは、詳しい訳を知らんとってからに」

 如月は色のない唇を震わせた。

「あんたの昔話なんか聞きとおへんなあ」

 浅葱は、びらびら簪に手をやって指で玩んだ。

 

「道場にある日、腕の立つ諸国修行のお武家はんが来て、父上は破れてしまはった……」

 如月はきつく唇を噛んだ。

「橘ちゅう師範代がおったんやけど短慮な男どしてなあ。門弟どもをそそのかして、お武家はんを闇討ちしようとしたんえ。道場主としてはそないな卑怯な真似は許せへんと、父上は止めに行かはった。父上の説得に弟子どもは納得したんやが、橘は逆上、乱心して、父上にまで刃を向けよったそうや。道場破りを庇うたげはった父上は……。弟子たちに追われた橘は、そのまま出奔しよって、ほんで……」

 如月はところどころ言葉を詰まらせた。

「父上は背中から斬られはったもんやさかいな。『武士道不覚悟』ちゅうことにされてしもた。禄を召し上げられて家は断絶。母上が重い病に伏せらはったよってに……」

 ありふれた期待はずれの身の上話になり、浅葱は落胆した。

「なんや。しょうもない。どこにも、ようある……」

 言いかけた浅葱の足下に、如月が突然、煙草盆にあった煙管を投げつけた。

「何するんえ」

浅葱も負けじと如月に掴みかかった。

 お互いに髪を掴んで引っ張る。組んず解れつの取っ組み合いに発展した。


「まあまあ。やめとくれやす」

 騒ぎを聞いて駆けつけた引舟とお峰の二人が止めに入った。

 双方が息を切らし、網代の敷物の上に尻餅をついた頃には、お互い、鏡で我が身を見られぬほどの惨状となっていた。


               三


 奥にある睦月の部屋は、出払ったあとなので蛻の空だった。浅葱は、睦月の香りの残る部屋でお峰に髪を直させ、母屋の最奥にある自室に戻りかけた。

 

 日はとっぷりと暮れて島原が目を覚ます頃となっていた。

 広い奥庭の灯籠にも灯が入って、苔むした庭に朧げな陰影をもたらしていた。台所からは、立ち働く物音が聞こえてくる。そこかしこの部屋に置かれた燭台や行燈の明かりが滲む。三味線や鼓の音が茶屋から聞こえる。

 

 浅葱は鬱々とした気持ちで、座敷の横の外縁をふらふら歩いた。座敷は葭戸が閉められて廊下に上女中が一人だけ控えている。


 重右衛門が、わざわざ夕方に見世に出て来るとは、どのような客なのか。

 ふと興味が湧いた。

 三崎屋に、改まった客人の来訪は少ない。不仲な重右衛門とお信が夫婦揃って応対する客となれば、なおさら珍しい。


 浅葱は上女中の前をさりげなく通り過ぎた。廊下の角を曲がった、階段の上がり口近くで足を止めると、座敷の中の声に、そっと耳を澄ました。


 真っ先に、安藤早太郎の耳障りな作り笑いが耳に飛び込んできた。

 葛山も連れて来ているのだろうか。葛山がすぐここまで来ているとも知らず、如月があのように恋しがって泣いてたのなら、いい気味だった。

 浅葱は、寡黙な葛山の〝鶴の一声〟を聞き漏らすまいと、さらに耳を澄ませた。


「親としては……」

 なにやら低く重苦しい声が耳に入った。

 葛山の声ではなく、落ち着いた壮年の男の声だった。なにやらくすんだ色を帯びた口調が気になった。

「……譲ってしもたもんは、どないもなりまへんやないか」

 重右衛門の声が答える。だが、どうにも声が小さくて聞き取り難かった。

「今になって、言わはってもなあ。な、あんた」

 お信がしんみりした口調で重右衛門に同意を求めた。

「若気の至りと申しましょうか……。考えもなしに、あのように我が子を……」

 いったい何の話なのかと、浅葱の心に漣が立ち始めた。

「まあ、仕方ない。喜三郎殿。せっかく尋ね当てたわけだが、今となってはのお」

 歯切れの悪い口調で安藤が取りなし、座を収束させようとしている。

「わかりました。こちらに長居しても致し方ありません」

 喜三郎と呼ばれた謎の男が、静かに語った。


 喜三郎の言葉を潮に、一斉に立ち上がる気配がした。

 廊下に控えていた上女中が、外から葭戸を静かに開け、たおやかな仕草で手をついてお辞儀をした。浅葱は慌てて階段下の暗がりまで退いた。


「せっかく身共を探し当ててもろうたに。役に立たぬことで済まんかったのお」

 安藤が喜三郎に詫びたが、さして心はこもっていない風だった。

「いえいえ。わざわざご一緒していただいただけでも有り難いと存じております」

 喜三郎は訛りのない言葉で、丁重に礼を言った。


 浅葱の場所からはよく見えなかったが、喜三郎の後ろ姿に目をこらした。

 刀を持っていないから明らかに武家ではなかった。 

 歩き方も、根っからの町民らしい足取りに思えた。


 安藤と喜三郎の後ろを歩くお信の後ろ姿が、やけに小さく見えた。

 普段のお信は、年齢より若く見られるのが自慢だった。だが、ぴしっと伸びているはずの背筋が、なぜか今は少し曲がって一挙に老婆になったようである。


 おりから生暖かい風が、中庭から見世の表に向かって吹き抜けた。蹲いの周囲に茂った羊歯が、かさかさと乾いた音を立て、ふいに、浅葱の胸の動悸が高まった。


 心の中に立ったさざ波は、突然、嵐の海と変わった。

 風に乗って、遠い彼方の祇園囃子が聞こえる気がした。耳の奥でコンチキチンと鳴り響く。単調な音色が、浅葱のか細い体を、ゆさゆさ揺さぶるように渦巻き、浅葱は耳を押さえた。


 途切れ途切れの言葉を集めて縫い合わせば、〝貰い子〟と答が出るではないか。


 喜三郎という人が、本当の父親なのだ。

 事情があって子ができぬ三崎屋に引き取ってもらったものの、今になって恋しくなったのだろう。重右衛門とお信は『今さら名乗りを上げてもろても困る』と断ったに違いない。


 重右衛門とお信が妙に甘かった根底には、遠慮があったのだ。真の親子なら『あかんときはあかん』と、もっときつく叱ってくれたはずだ。叩いてくれたはずだ。

 浅葱は、他人だったからこその水臭さを感じた。


 重右衛門が浅葱を猫かわいがりするには下心があったのではないか。

 浅葱は激しい目眩と吐き気を感じた。

 なさぬ仲の娘ゆえ、重右衛門はついつい、浅葱を嫌らしい目で見ていたのだ。重右衛門は浅葱と歳の変わらぬお高を囲っている男なのだ。

 小女にやると言ったものの『そないな高価な品はもらえしまへん』と遠慮され、そのまま鏡台に戻した紅を浅葱は唐突に思い出した。


 如月の下唇を妖しく彩る笹紅色が、浅葱の脳裏に蘇った。

 重右衛門が如月に我が儘させているにはわけがあったに違いない。

 黒い想像が、深い井戸の奥から迫り上がった。

 如月ととっくにできてるから、重右衛門は如月に強く出られないのだと考えれば、すべて筋が通る。

 熱さと寒気が同時に浅葱を襲い、体の芯から混ぜくり返される。


 本当の父親のあとをつけてみよう。どんなところに住んでいて何をしている人か知りたい。

 浅葱は裏木戸から出て路地を伝い、表玄関が見える場所に急いだ。


                 四


 道筋との辻で立ち止まった喜三郎は、懐から取り出した包みを安藤に手渡すと、安藤に向かって慇懃にお辞儀をした。大きく頷いた安藤は、素早く懐にしまい込んだ。

 安藤は西門から壬生の屯所に戻るのか、はたまた女郎屋に寄るのか。軽く手を挙げて道筋を西方向へすたすた歩み去った。


 喜三郎は足取りも重く島原の大門を潜って東へ歩き始めた。鼻の下を伸ばしながら島原へ向かう遊客の流れに逆行し、西本願寺の暗い杜方向に向かって花屋町通を黙々と歩く。


 文久年間に入って京も物騒になったが、京の町衆には矜恃がある。時流に惑わされず、いや、不安な世の中だからこそ、四季の行事をしっかりと守りたいと考えている。

 今年の祇園会も、例年通り華やかに催されていた。今宵は宵宮とあって、通りをぷらぷら行き交う人も多かった。

 浅葱は喜三郎の後をつかず離れず従いていく。


 大宮通で左に曲がって北へ上がった。四条通にぶつかると右に曲がり、堀川を渡って四条通を東に歩く。

 堀川を渡る頃から、ますます人の数が増した。どこから湧いて来るのか。思い思いの浴衣を着た老若男女が、団扇や扇子を片手に、一斉に四条大橋の方角を目指す。

 喜三郎は一人だけ冥界から来た亡者のように、祇園会で賑わう町を歩む。

 

 通りの人波は、浅葱に味方してくれた。喜三郎は心ここにあらずで、他人の動きを気にする素振りもなかった。しだいに大胆になった浅葱は、喜三郎にどんどん接近した。

 着ているものや物腰から見たところ、喜三郎の暮らしぶりは安気そうだった。若いころは貧しくとも、今は立派に身を立てている人に違いないと思えた。

 浅葱はさりげなく横に回って、祭提灯の灯りに照らし出された喜三郎の顔を盗み見た。


 商人には見えなかった。色白ではないが、田畑を耕しているような日に焼けた肌でもなかった。

 口元は引き締まって目が鋭い。大柄で体つきもしっかりしていた。男ぶりが良いとは言えないが、年輪を重ねた男の風格が感じられた。

 喜三郎の面差しに浅葱たちとの類似点はなかった。わずかに、意志の強そうな目元が似ている気がした。


 供も連れずに出歩いているところからみれば、腕は確かだが一人でこつこつ小物細工をしている職人であろうか。案外、名のある絵師かも知れないと、浅葱は勝手に想像してみた。


 いつの間にやら四条大橋まで来てしまった。通りの東の彼方に、祇園社の灯りが見える。

 鴨川の大きな中州は、六月七日から十八日までの間、〝四条河原の夕涼み〟と称して賑わう。 

 こんなところまで来てしまったと思うものの、心細さより、喜三郎を知りたい気持ちが大きかった。

 四条大橋を渡るかと思えた喜三郎は、思いがけず、人出で溢れ返る河原に降りて行った。浅葱も慌てて後ろ姿を追った。


 前垂れをした女たちが、岸辺に軒を連ねる料理屋から縁台を置いた納涼床へと、酒や料理を忙しく運んでいた。

 風鈴売りの店では、風流というより喧しくチリンチリンと甲高い音色が響く。小屋掛け芝居の木戸口では、口上が口八丁手八丁で、面白可笑しく客を呼び込んでいる。

 喜三郎は行き交う人々の流れを縫って、うつむき加減で足早に歩く。

 まるで場違いな雰囲気に、浅葱は違和感を感じた。


 川のせせらぎの音は、物売りの呼び声や夕涼み客の喧噪に掻き消される。料理屋の屋号入りの行燈や提灯の明かりが、川面にゆらゆら揺れる。神輿が四条寺町の御旅所に移っている間だけの賑わいだった。


 覗き絡繰の少し先に、見せ物小屋が数軒、軒を連ねていた。種々の幟が川風になびいて〝浮世見立四十八癖〟と書かれた文字が躍る。〝大鼬〟やら〝蛇女〟やらのインチキ臭い粗末な小屋が並んでいた。


 河原の外れに立てられているせいか。どの小屋も流行っているようには見えず、寂しさと侘びしさを感じさせた。

 西瓜売りが、大きな包丁で西瓜を真っ二つに割った。熟れすぎていたのか、西瓜の紅い汁が四方に飛び散り、浅葱は驚いて一歩、後ずさった。


 しまった。


 目を戻した先に、喜三郎の姿はなかった。掻き消すように、視界から失せていた。

 今まで意識しなかった足の裏の痛みに気付き、浅葱は歩みを止めた。


 実の父である喜三郎の面影は、永久に霧の彼方に消え去った。

 浅葱は、楽しげに行き交う群衆の中で、一人立ち尽くした。


「もうし。お嬢はん。お連れはんが、あっちでお待ちでっせ」

 目つきの悪い男が浅葱の腕を掴み、ぎらりと光る匕首を、浅葱の脇腹に突きつけた。ざっと見渡したところ、破落戸は五人だった。

 大店の娘だと一目でわかる身なりの浅葱を攫い、身代金でもせしめるつもりか。いや、器量を見込んで売り飛ばす胸算用か。玩ばれてから、あっさり殺される恐れさえあった。

「さあさあ、こちらどっせ。黙って従いてきてもらおかいな」

 破落戸どもは浅葱を、立ち並ぶ夜店の奥の暗がりへと引きずり込もうとした。奈落の底が口を開いて、浅葱を飲み込もうと待ち構えている。

 冷たい汗が、全身を滝のように流れ、浅葱は我が身の軽率さを呪った。


 そのとき。


                  五


「何をいたしておる」

 凛としたよく通る声が、破落戸どもの足を止めさせた。

「娘御を放せ」

 声の主は、土方歳三、その人だった。

 まさに救いの神である。土方の背後に後光が差して見えた。


「なんや。色男。黙って引っ込んでんかい」

「二本差やいうて、怖がると思うんかい」

 決まり文句で凄むあたり、破落戸どもの頭の軽さは推して知るべしだった。

 頭が軽いと、前後の見境もなく、何をしでかすかわからない。

「ここは拙い。その先まで顔を貸してもらおか」

 破落戸の首班らしき相撲取りのような男が、顎をしゃくって中州の外れを差した。

「面白い。邪魔が入らぬほうが、拙者も存分に成敗できるというものよ」

 土方の瞳が、夜店の明かりにきらりと光る。


「喧嘩や。喧嘩どす」

「いや、斬り合いどすえ」

 めざとく気付いた連中が、野次馬よろしく、遠巻きに見物にやってくる。

「そこで待っておれ」

 土方は、後方で心配げに見守る綺麗どころ三人に、声を掛けた。


 中州の外れへと向かった。明るさに慣れた目は、闇を深く感じさせた。

 破落戸どもは、長脇差や匕首を抜き放って土方を取り囲んだ。

「道場剣法が何ほどのもんや」

「実戦で鍛えた儂らを、見くびるのやおへんで」

 匕首を手にして頬被りした男と、長脇差を握った猫背の男が、奇声とともに土方に向かって突進した。勢い勝負、先手必勝のつもりだろう。切った張ったに慣れた凶暴な男たちであると、女の浅葱にもわかった。

 無言のまま、土方は身を沈めた。河原の砂利を掴むや、頬被りの男の顔を目がけて素早く投げつける。頬被りの男は礫をまともに受け、顔に手をやった。

 土方は猫背の男の攻撃を躱すや、抜き打ちに刃を一閃させた。鶏を絞め殺したような叫びとともに、何かが大きく宙に舞った。

 長脇差を握ったままの手首から先が、浅葱の目の前にどさりと落下した。湿った重い音が、浅葱の耳にこびりつく。

 浅葱の短い悲鳴に、破落戸仲間の叫び声が重なった。

 一瞬遅れて、悲鳴がもう一つ。

 頬被りの男が袈裟懸けに斬られ、血煙を上げて砂利の上に突っ伏した。

 手首を失って痛みにのたうち回る猫背の男の背中に、土方の大刀がぐさりと突き刺さった。

 土方は、動きを止めた男の背に片足を乗せ、大刀をぐいと引き抜いた。鮮血が噴き上がる。

「ぎゃああ」

 残る三名は、猿のような叫びを上げながら、我先に走り去った。


 土方は血に塗れた刀身を川の流れで濯ぐと、懐から取り出した懐紙で拭いておもむろに鞘に納めた。懐紙が川面にひらひらと舞い落ちる。

「怪我はないか」

 土方は黒い瞳で浅葱を見つめた。

「へえ。おかげさまで大事ありまへん。このお礼は……」

 くどくど礼を述べかける浅葱を、土方は笑顔で制した。

「確か、三崎屋なる置屋の娘で、浅葱……とかいう名だったな。弟の浅太郎はよう知っておるが、そこもとと話すは、今宵が初めてじゃな」

 涼しい目元が、浅葱の姿を捕えて放さない。豊かな黒髪は、夜目にも艶やかだった。

 三崎屋の舞妓・芸妓が熱を上げるのも無理はない。


 間近で見た土方の肌は、武者人形のように肌理が細かかった。顎の辺りもつるりとして爽やかで、たとえ病に伏したときでさえ、汚らしい無精髭など無縁と思われた。

 喉仏も、女よりは大きいものの、無闇に目立ってはいなかった。浅葱は、重右衛門の、なぜか鶏を想起させる大きな喉仏を思い浮かべ、慌てて頭の片隅から追い払った。


「三崎屋には、睦月と如月の両太夫がおったな。助勤の安藤が、なにやら肩入れしておるが。はは」

 土方はすべてお見通しというように、鷹揚な笑い声を上げた。

 ただ勇気があって腕が立つだけではない。他人の裏表を見抜く洞察力にも優れている。

 このような男が、この京にいた。見た目は人形のように綺麗で、中身はしっかりして頼もしい。浅葱の胸は、生まれて初めてうち震えた。


 この心地は『男はんを好きになる』ということに違いなかった。


「連れはいかが致したのかな。人混みで、はぐれたのか」

 柔らかだが張りのある声が、涼やかに浅葱の耳をくすぐった。浅葱は土方の視線にどぎまぎした。

「こ、今宵は……う、うち一人どす」

 胸の動悸が速まり、唇がうまく動かない。やっとの思いで浅葱は答えた。

「なんと。では、島原から四条河原まで、一人で来たと申すか」

 大店の令嬢が一人歩きする例などあり得ない。土方は驚き呆れたように、ほうっと息を吐き出して目を瞬かせ、少し角張った顎に手をやった。

「は、はい。実は……」

 浅葱は口ごもった。

「怖かったろう。深い子細はゆっくり聞くとして、少し休むがよかろう」

 言いながら、土方は先に立って歩き始めた。


 土方は人情の機微がわかる賢明な男だった。

 浅葱の中で土方の存在があり得ないほど大きく膨らみ、小さな身体が破裂しそうになる。

「幸い、拙者が心やすくしておる茶屋が、近くにあるゆえ」

 土方は浅葱の肩をそっと抱き、明るい方角へと戻り始めた。


「さすが土方さまやわあ」

「破落戸どもが土方さまを知らんかったんが、運の尽きどすえ」 

 芸妓二人と舞妓が、土方目がけて駆け寄ってきた。どの顔も『土方にぞっこん』と書かれていた。

「今宵の夕涼みはお開きとしよう。また明日な」

 土方は愛想良く、だが、きっぱりと、明るい笑顔で芸妓たちを追い払った。


              六


 浅葱は、宮川筋を一本入った新道の、さらに路地奥にある小さな茶屋、蔦屋に連れて行かれた。


 蔦の紋を染め抜いた半暖簾を潜ると、傍らに枝折り戸があり、松と槙のみが植わった猫の額ほどの庭があった。


「三崎屋では、さぞ大騒ぎしておろう」

 蔦屋に着くなり、土方は見世の者に頼み、三崎屋まで使いの者を走らせてくれた。


「人目を忍んで美女と密会と参るには、格好の見世なのだ」

 土方は、意匠が凝った六枚折りの障子屏風を背に、どっかと腰を据えた。


『人目を忍んで……』『密会』

 土方の口からさらりと出た艶めいた言葉に、浅葱の心ノ臓が、びくんと跳ね上がった。

「三崎屋より迎えの者が到着いたすまで、ここでゆっくり休むがよかろう」

 土方は傍らの煙草盆を引き寄せると、慣れた手つきで煙管に煙草を詰めた。

「ようこそ、お越しやす」

 女が酒と肴を運んで来るが、心得顔ですぐさま姿を消した。


 どこからか、三味線の音色が小さく聞こえてくる。祇園会の賑わいも遠い。

 松の木の後ろは建仁寺垣で、隣は、やはり裏茶屋だろうか。男の密やかな話し声に、女の笑い声が時おり甲高く混ざる。

 蔦屋は、こざっぱりとしている反面、ギヤマンの簾が掛かるなど、どこか俗っぽく、不穏な印象があった。

 うちは置屋の娘や。なんともおへんと、浅葱は訳もなく、心のうちで肩肘を張った。


「拙者は、武州多摩の田舎育ちでな。江戸の大店に奉公に出されたこともあったが、誠の武人にならんと、この京まで参ったのだ」

 土方は小振りな松に目をやりながら、煙管片手にゆったり話し始めた。


「家は、石田散薬なる薬を作っておってな。薬の商いを家業としておった」

〝商い〟と聞いて、土方が急に身近になった。土方が、武家特有の融通の利かなさや堅苦しさとは一線を画す、柔軟な思考の持ち主に思えてくる。

「子供の頃の拙者は〝茨垣(ばらがき)〟と呼ばれる乱暴者で通っておった。動乱のこの京に働きの場を得たは、天の導きであろう」

 土方は手酌で一献、ぐいっと飲み干した。

「今や、わが壬生浪士組は、会津侯の御預かりという身分と相成った。この先の働き如何では、出世も思いのままというものよ」

 盃に残った滴を切ると、土方は盃を浅葱に手渡した。

 一瞬、戸惑った浅葱に、

「おお。これはすまん。そなたには、茶と菓子が似合いであったかな。ははは」

 土方は鮮やかに笑みを見せた。

「うちかて、もう子供と違います」

浅葱は、注がれた酒を、一気にぐいと飲み干した。

「さすが三崎屋の娘だ。良い飲みっぷりではないか。もう一杯」

 差しつ差されつになってしまった。いつの間にやら、土方との距離が狭まっている。


 土方の指の長い手が、なにげなく浅葱の肩に触れ、腕の中にするりと抱き寄せられた。

 抗う間もなかった。最初から納まるべき位置に納まったかのように、ごく自然に思えた。

 熱い吐息が、浅葱の顔に掛かった。 

 如月が熱を上げる虚無僧の葛山と、目の前の土方とでは雲泥の差があった。土方は、これからどんどん出世する、誰にでも自慢できる相手だった。

 細めた土方の目が、蠱惑的に光る。土方は、浅葱の尖り気味の顎に手を触れ、顔をそっと上向かせた。次の瞬間。


 違う。

 

 土方の優しい仕草が、浅葱に奇妙な苛立ちを与えた。だが、拒めない。

 深い睫に縁取られた土方の黒い瞳が近づいてきた。丹精込めて作られた人形のような、あり得ない美形に射すくめられ、浅葱はどうしてよいかわからない。

 唇が触れようとする。

 浅葱は、咄嗟に顔を横に向けていた。

 厭がっているわけでは決してない。

 心で言い訳し、自ら抱きつくような格好で誤魔化した。

 土方の腕に力が籠められる。

 熱い感触が、うなじを這う。荒くなった息の音は、土方なのか、浅葱なのか。

「あ、あの……」

 ようやく発した浅葱の声に、土方はあっさりと体を離した。


「はは。すまぬ。そこもとが、昔馴染みの娘によう似ておったもので、ついつい……」

 土方は爽やかな笑みで応えた。

「お琴と申してな。高田馬場に近い〝糸竹〟という名の三味線屋の娘であった」

 訥々と、思い出を手繰るように続けた。

「拙者が二十四で、お琴は十四だった」

 うちと同い年やおへんかと、浅葱は親近感を覚えて話に釣り込まれた。

「周りが決めた許嫁だったが、拙者が本気で惚れたおなごであった。だが……」

 土方は憂いに満ちた伏し目で、暗い庭に目をやった。

「『京に上るゆえ、祝言はしばらく待って欲しい』と告げたところ、お琴の親は『いつまでとわからぬ約束など待てぬ』とばかりに、遮二無二、お琴を余所へ嫁がせてしもうた」

 暗い火影の中、土方は唇を震わせたように見えた。

「意に染まぬ嫁ぎ先で、苦労しておるそうな。今もって心が痛んでならぬ」

 土方は苦そうな表情で酒を呷った。徳利が畳に転がる。

「酒が過ぎたようだ。ついつい酔狂に及んでしもうた。この通り、謝る。お琴はお琴。そなたは、そなただ」

 男らしく小娘に頭を下げる土方は、まさに漢だった。

 無理強いせずに相手の心を尊重する土方の優しさが、浅葱の心に深く染みた。

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