第2話 謎の男と憧れの行方は、賀茂の流れに……
京の街に祇園会の囃子が聞こえる。
ただでさえ盆地の夏は暑いのに、祇園囃子がにぎにぎしいとなお暑苦しい。
夕暮れ迫る太夫町通を、浅葱は、退屈な生け花の稽古から戻ってきた。
京の外れにある島原までは祇園囃子も追って来ない。粋な三味線や鼓の聞き馴染んだ音が、そこかしこから聞こえる。
「ここらまで来たら、ほっとするわ」
日傘を畳む小女に話しかけながら、開いた京扇子で顔に風を送った。
見世に入ると、珍しく重右衛門の顔があった。草履を脱いでいるところである。浅葱の顔を見て、重右衛門は、
「お客はんが来たて、お信から使いが来たもんでな」
相好を崩しながら、浅葱の顔をまじまじとのぞき込んできた。
「浅葱。こないだ買うたった紅はつけてへんのかいな。名高い〝笹色飛光紅〟ちゅう小町紅を、わざわざ玉屋で買うたったのに」
重右衛門の問いかけに、高価な紅が放つ輝きを思い出した。
大人を感じさせる艶っぽさが、厭わしく感じられて、鏡台に放り込んだまま忘れていた。
「うちは紅なんかつけしまへんて、前にも言うたやおへんか。ましてあないな色、似合わしまへん」
あとで小女にやろうと考えながら、素っ気なく返した。
「流行の色やおへんか。品切れでなかなか手に入らへんのを、無理して手に入れたったのやで」
重右衛門は未練がましく、口中でなおももごもご呟いた。
「うちは欲しいて一言もいうてまへんえ」
ぴしゃりとはねつけた浅葱の言葉に、重右衛門は性懲りもなく、
「そのびらびら簪、よう似合おてるやないか」
左のこめかみ近くに差した簪を褒めながら、浅葱の髪を撫でかけた。
背筋を、得体の知れぬ虫が這い上る。
「触らんとってんか」
商人に似合わぬ竹刀胼胝のある、ごつい手を振り払った。
「こりゃ、すまんすまん」
重右衛門は亀のように首を竦め、慌てて手を後ろにやった。
「なんぼお父はん言うたかて、男はんの手ぇは脂っぽいさかい、触られるのは厭どすねん」
よくわからぬ怒りが、ふつふつと込み上げてきた。
いかにも男でございといったむさ苦しさが苦手である。
オスに特有の臭いや肌の肌理の荒さが、汚らわしく疎ましい。
「ほな、ちょっと客間に行って来るわな」
背を丸め加減にした重右衛門は、そそくさと見世の奥に消えた。
浅葱が二人の芸妓の前を通り過ぎようとしたとき。
「あんなあへ。昨日、千紅万紫楼のお座敷に壬生狼が来てたんえ」
若い芸妓と年増の芸妓との話が、ふと耳に入った。
「おお怖わ。壬生狼ちゅうたら、ついこないだも大坂で相撲取り相手に喧嘩しはって、何人も斬り殺しはったそうどすやろ」
「それがなあ」
若いほうの芸妓が、得意げに顔を突き出した。
「井上松五郎さまちゅうお侍はんが、上様の警護で江戸へ戻らはるちゅうて、送別の宴を開かはったのどすけど。近藤さまのお仲間だけやったよってに、えろう楽しおましたえ」
ほほほと意味ありげに笑った。
「ほなら、あの土方さまも来てはったんかいな。あ~羨ましおすえ」
年増の芸妓が大きな溜息をついた。
「無骨な乱暴者ばっかしの壬生狼やけど、あの土方はんだけは違うえ。おなごに優しいうえに、役者にしたいようなええ男はんや」
若い芸妓が、夢見るように中空に目を泳がせた。
「近頃、如月さまが懸想してはる、あの葛山ちゅう虚無僧はんと、ええ勝負どすえ」
女たちの噂話はどんどん熱くなる。
「あほくさ。土方さまが、どないっちゅうねんな」
浅葱は聞こえよがしに呟きながら、早々に奥へと向かった。
濡れ縁で、あたふたと帳場に向かう如月付きの引舟に出くわした。
「また如月が、我が儘ぁ言うてるんかいな」
浅葱はむかっ腹を立てながら尋ねた。
「へえ。太夫道中の刻限が迫っているちゅうのに、まだ身支度してもらえまへんのや。毎晩これでは困りますえ」
眉間に深い皺を寄せた引舟は、浅葱の返答も聞かずに帳場へ消えた。
「如月は、こったいさまやから、自分が一番、偉いと思てるんや。今日という今日は、はっきり言うたる」
着物の裾を引きずりながら、すたすた離れ屋へ急いだ。
二階に駆け上がると、廊下と四畳の間で、二人の禿がおろおろしていた。
四畳の間と六畳の間の境の葭戸がぴしゃりと閉められ、奥から嗚咽が聞こえてくる。
隙間から、突っ伏して泣く、如月の姿が見えた。
「あんた。お父はんが無闇にほちゃほちゃしはるちゅうて、ええ加減にしいや」
浅葱は葭戸をがらりと開け、六畳の間に足を踏み入れた。
如月は光る瞳でゆっくりと顔を上げた。
「勝手にうちの部屋に入らんとくれやす」
涙に濡れているが射すくめるようなきつい目が、浅葱を見上げた。
「この為体はどないえ。小娘みたいにうじうじ泣いてからに」
如月の前に仁王立ちした。
「小娘に、小娘と言われとうはないなまし」
如月に図星を指され、浅葱の頬がぴくぴく動く。
さして年齢に違いはない。だが、如月は男を知っている。いや、知り尽くしている。なにより、今は恋を知っている。
女としていうなら、大人と子供だった。
「葛山いう虚無僧宛に、毎日のように文をやっている、いうやないか。文を書く相手が違うえ。馴染みのお大尽に、誘いの文を書かんかいな」
「『会えずとも、せめて尺の音なりとも……』てお願いしたら、葛山さまは快よう引き受けてくだされたなんし」
夢見るような如月の眼差しに、浅葱の身のうちから苛立ちの炎が燃え立つ。
「裏木戸の戸口で尺八をひとしきり吹いたら、心付けをもろて帰って行く。たったそんだけやないか。虚無僧はそれが商いや。それが証拠に、会うてもくれへんのやろ?」
浅葱の言葉に、如月の目がきつく吊り上がった。
「うちの手管に靡かん男はんは、おらんなまし。葛山さまは謙虚なお方やさかいに、まだ遠慮してはるだけえ。けど……」
如月の目尻が朱をはき、視線が彷徨う。
「けど……。このまま葛山さまに会わんままやと……。うちは死んでしまうなます」
突如、大きく身を震わせた。
「あほ言わんとってんか。あんたをこったいにするのに、なんぼ金子と時間が掛かってると思うてるねんな」
浅葱が思わず叱りつける。
「浅葱はんが金を出したんか。贅沢して遊んでる苦労知らずのお嬢はんのくせして」
太夫独特の悠長な〝なます言葉〟が消えて、如月の中にいる女が剥き出しになった。
浅葱を見下すように顎をしゃくる。
「うちはなあ。さる御国の歴とした番士の娘や。あんたみたいな町娘とは生まれが違う」
「その歴としたお武家はんが、聞いて呆れるわ。娘を女衒に売るて」
浅葱は、びらびら簪に手をやって指で玩んだ。
「親のこというたら……あんたの親はどないえ」
話の矛先がついっとそれる。
「あんたらは、畜生腹から生まれた双子やないかいな」
一等、気にしている禁句を突かれ、浅葱の腹の底がぐつぐつ煮え返った。
「姉分の睦月は気立てがええのにぃ。あんたはケンケンしてからに。睦月がお公家はんの
「武家には武家の矜恃がおますよってな」
如月が顔を背けてうそぶいた。
「ほんまに不運が重なっただけや。詳しい訳を知らんとってからに」
如月は色のない唇を震わせた。
「道場にある日、腕の立つ諸国修行のお武家はんが来て、父上は破れてしまはった……」
如月はきつく唇を噛んだ。
「橘ちゅう師範代がおったんやけど短慮な男どしてな。門弟どもをそそのかして、道場破りをしたお武家はんを闇討ちしようとしたんえ。道場主として、そないな卑怯な真似は許せへんと、父上は止めに行かはった。父上の説得に弟子どもは納得したんやけど、橘は逆上、乱心して、父上にまで刃を向けよった。お武家はんを庇うた父上は……。弟子たちに追われた橘は、そのまま出奔しよって、ほんで……」
如月はところどころ言葉を詰まらせた。
「父上は背中から斬られはったさかい、『武士道不覚悟』を理由に禄を召し上げられて家は断絶。母上が重い病に伏せらはったよってに……」
「なんや。しょうもない。そのくらいようある……」
言いかけた浅葱の足下に、如月が煙管を投げつけた。
「何するんえ」
浅葱も負けじと如月に掴みかかる。
お互いに髪を掴んで引っ張る。組んず解れつの取っ組み合いに発展した。
「やめとくれやす」
駆けつけた引舟とお峰が止めに入ってきた。
双方が息を切らし、敷物の上に尻餅をついた頃には、お互い、鏡で我が身を見られぬほどの惨状となっていた。
日はとっぷり暮れて島原が目を覚ます頃になった。
浅葱は座敷の横の外縁をふらふら歩いていた。
座敷は葭戸が閉められて廊下に上女中が一人だけ控えている。
重右衛門が、わざわざ夕方に見世に出て来るとは、どのような客なのか。
ふと興味が湧いた。
三崎屋に、改まった客人の来訪は少ない。
不仲な重右衛門とお信が揃って応対する客となれば、なおさら珍しい。
廊下の角を曲がった、階段の上がり口近くで足を止めた。
真っ先に、安藤早太郎の耳障りな作り笑いが耳に飛び込んできた。
葛山も連れて来ているのだろうか。
浅葱は、寡黙な葛山の〝鶴の一声〟を聞き漏らすまいと、耳を澄ませた。
「親としては……」
なにやら低く重苦しい声が耳に入った。
落ち着いた壮年の男の声だった。
なにやらくすんだ色を帯びた口調が気になった。
「……譲ってしもたもんは、どないもなりまへんやないか」
重右衛門の声が答える。だが、声が小さくて聞き取りにくい。
「今になって、言わはってもなあ。な、あんた」
お信がしんみりした口調で重右衛門に同意を求めた。
「若気の至りと申しましょうか……。考えもなしに、あのように我が子を……」
いったい何の話なのかと、心に漣が立ち始めた。
「喜三郎殿、せっかく尋ね当てたわけだが、今となってはのお」
歯切れの悪い口調で安藤が取りなし、座を収束させようとしている。
「わかりました」
喜三郎と呼ばれた謎の男が、静かに答えた。
一斉に立ち上がる気配がし、浅葱は慌てて階段下の暗がりまで退いた。
「せっかく身共を探し当ててもろうたに。役に立たぬことで済まんかったのお」
安藤が喜三郎に詫びたが、心はこもっていない風だった。
「いえいえ。わざわざご一緒していただいただけでも有り難いと存じております」
喜三郎は訛りのない言葉で、丁重に礼を言った。
喜三郎の後ろ姿に目をこらした。
刀を持っていないから武家ではない。
歩き方も、根っからの町民らしい足取りに思えた。
安藤と喜三郎の後ろを歩くお信の後ろ姿が、やけに小さく見えた。
普段、ぴしっと伸びている背筋が、今は曲がって老婆のようである。
ふいに、浅葱の胸の動悸が高まった。
心の中に立ったさざ波は、突然、嵐の海と変わった。
途切れ途切れの言葉を集めて縫い合わせば、〝貰い子〟と答が出る。
喜三郎が、本当の父親だ。
三崎屋に引き取ってもらったものの、今になって恋しくなったのだろう。
重右衛門とお信は『今さら名乗りを上げてもろても困る』と断ったに違いない。
重右衛門とお信が妙に甘かった根底には、遠慮があったのだ。
真の親子なら『あかんときはあかん』と、きつく叱ってくれたはずだ。
浅葱は、他人だったからこその水臭さを感じた。
もしかすると……。
浅葱は激しい目眩と吐き気を感じた。
重右衛門は、浅葱と歳の変わらぬお高を囲っている男である。
もらった紅を唐突に思い出した。
紅つながりで、如月の下唇を妖しく彩る笹紅色が、脳裏に蘇った。
重右衛門が如月に我が儘させているにはわけがあったに違いない。
熱さと寒気が同時に襲いかかってきて、体の芯から混ぜくり返される。
本当の父親のあとをつけてみよう。
裏木戸から出て路地を伝い、表玄関が見える場所に急いだ。
道筋との辻で立ち止まった喜三郎は、懐から取り出した包みを安藤に手渡すと、安藤に向かって慇懃にお辞儀をした。
大きく頷いた安藤は、素早く懐にしまい込んだ。
安藤は壬生の屯所に戻るのか、女郎屋に寄るのか。軽く手を挙げてすたすた歩み去った。
喜三郎は足取りも重く島原の大門を潜って東へ歩き始めた。
文久年間に入って京も物騒になったが、京の町衆には矜恃がある。
今年の祇園会も、例年通り華やかに催されていた。今宵は宵宮とあって、通りをぷらぷら行き交う人も多かった。
浅葱は喜三郎の後をつかず離れず従いていく。
堀川を渡る頃から、ますます人の数が増した。一斉に四条大橋の方角を目指す。
喜三郎だけ、冥界から来た亡者のように、賑わう町を歩む。
着ているものや物腰から見て、暮らしぶりは安気そうだった。
若いころは貧しくとも、今は立派に身を立てている人に違いない。
さりげなく横に回って、祭提灯の灯りに照らし出された顔を盗み見た。
商人には見えなかった。田畑を耕している日に焼けた肌でもなかった。
口元は引き締まって目が鋭い。大柄で体つきもしっかりしている。年輪を重ねた男の風格が感じられた。
喜三郎の面差しに浅葱たちとの類似点はまったくなかった。
供も連れずに出歩いている。小物細工をしている職人だろうか。案外、名のある絵師かも知れないと、浅葱は勝手に想像してみた。
いつの間にやら四条大橋まで来てしまった。
こんなところまで来てしまったと思うものの、心細さより、喜三郎を知りたい気持ちが大きかった。
人出で溢れ返る河原に降りた喜三郎は、行き交う人々の流れを縫って、うつむき加減で足早に歩く。
見せ物小屋が数軒、軒を連ねていた。
種々の幟が川風になびいて〝浮世見立四十八癖〟と書かれた文字が躍る。〝大鼬〟やら〝蛇女〟やらのインチキ臭い粗末な小屋が並んでいた。
西瓜売りが、大きな包丁で西瓜を真っ二つに割った。西瓜の紅い汁が四方に飛び散り、浅葱は驚いて一歩、後ずさった。
しまった。
目を戻した先に、喜三郎の姿はなかった。
「もうし。お嬢はん。お連れはんが、あっちでお待ちでっせ」
目つきの悪い男が浅葱の腕を掴み、ぎらりと光る匕首を、脇腹に突きつけてきた。
破落戸は五人である。
「さあさあ、こちらどっせ。黙って従いてきてもらおかいな」
暗がりへと引きずり込もうとする。
冷たい汗が、全身を滝のように流れ、浅葱は我が身の軽率さを呪った。
そのときだった。
「何をいたしておる」
凛としたよく通る声が、破落戸どもの足を止めさせた。
「娘御を放せ」
声の主は、土方歳三、その人だった。
「その先まで顔を貸してもらおか」
首班らしき相撲取りのような男が、顎をしゃくって中州の外れを差した。
「邪魔が入らぬほうが、存分に成敗できるというものよ」
土方の瞳が、夜店の明かりにきらりと光る。
めざとく気付いた連中が見物にやってくる。
「そこで待っておれ」
土方は、後方で心配げに見守る綺麗どころ三人に、声を掛けた。
破落戸どもは、長脇差や匕首を抜き放って土方を取り囲んだ。
匕首を手にした男と、長脇差を握った男が、奇声とともに土方に向かって突進した。
無言のまま、土方は身を沈めた。
河原の砂利を掴むや、頬被りの男の顔目がけて素早く投げつける。
頬被りの男は礫をまともに受け、顔に手をやった。
土方は猫背の男の攻撃を躱すや、抜き打ちに刃を一閃させた。
鶏を絞め殺したような叫びとともに、何かが大きく宙に舞った。
長脇差を握ったままの手首から先が、浅葱の目の前にどさりと落ちた。
浅葱の短い悲鳴に、破落戸仲間の叫び声が重なった。
一瞬遅れて、悲鳴がもう一つ。
頬被りの男が袈裟懸けに斬られ、血煙を上げて砂利の上に突っ伏した。
手首を失って痛みにのたうち回る男の背中に、土方の大刀がぐさりと突き刺さる。
土方は男の背に片足を乗せ、大刀をぐいと引き抜いた。
鮮血が噴き上がる。
「ぎゃああ」
残る三名は、猿のような叫びを上げながら、我先に走り去った。
「怪我はないか」
土方は黒い瞳で浅葱を見つめた。
「おかげさまで大事ありまへん。このお礼は……」
くどくど礼を述べかける浅葱を、土方は笑顔で制した。
「確か、三崎屋なる置屋の娘で、浅葱……とかいう名だったな。弟の浅太郎はよう知っておるが、そこもとと話すは、今宵が初めてじゃな」
涼しい目元が、浅葱を捕えて放さない。
豊かな黒髪は、夜目にも艶やかだった。
間近で見た土方の肌は、武者人形のように肌理が細かかった。
顎の辺りもつるりとして爽やかである。
喉仏も無闇に目立っていない。
重右衛門の大きな喉仏を思い浮かべた浅葱は、慌てて頭から追い払った。
「三崎屋には、睦月と如月の両太夫がおったな。助勤の安藤が、なにやら肩入れしておるが。はは」
土方はすべてお見通しというように、鷹揚な笑い声を上げた。
ただ勇気があって腕が立つだけではない。
他人の裏表を見抜く洞察力にも優れている。
このような男が、この京にいた。
見た目は人形のように綺麗で、中身はしっかりして頼もしい。
浅葱の胸は、生まれて初めてうち震えた。
この心地は『男はんを好きになる』ということに違いなかった。
「連れはいかが致した。人混みで、はぐれたのか」
柔らかだが張りのある声が、涼やかに耳をくすぐる。
浅葱は土方の視線にどぎまぎした。
「こ、今宵は……う、うち一人どす」
胸の動悸が速まり、唇がうまく動かない。
「なんと。では、島原から四条河原まで、一人で来たと申すか」
土方は驚き呆れたように、ほうっと息を吐き出して目を瞬かせ、少し角張った顎に手をやった。
「は、はい。実は……」
浅葱は口ごもった。
「怖かったろう。深い子細はゆっくり聞くとして、少し休むがよかろう」
言いながら、土方は先に立って歩き始めた。
土方は人情の機微がわかる賢明な男だった。
浅葱の中で土方の存在が大きく膨らみ、小さな身体が破裂しそうになる。
「幸い、拙者が心やすくしておる茶屋が、近くにあるゆえ」
土方は浅葱の肩をそっと抱き、明るい方角へと戻り始めた。
「さすが土方さまやわあ」
「破落戸どもが土方さまを知らんかったんが、運の尽きどすえ」
芸妓二人と舞妓が、土方目がけて駆け寄ってきた。
どの顔も『土方にぞっこん』と書かれている。
「今宵の夕涼みはお開きとしよう。また明日な」
土方は愛想良く、だが、きっぱりと、明るい笑顔で芸妓たちを追い払った。
路地奥にある小さな茶屋、蔦屋に連れて行かれた。
「三崎屋では、さぞ大騒ぎしておろう」
蔦屋に着くなり、土方は、三崎屋まで使いの者を走らせてくれた。
「人目を忍んで美女と密会と参るには、格好の見世なのだ」
土方は、障子屏風を背に、どっかと腰を据えた。
『人目を忍んで……』『密会』
さらりと出た艶めいた言葉に、浅葱の心ノ臓が、びくんと跳ね上がった。
「三崎屋より迎えの者が到着いたすまで、ここでゆっくり休むがよかろう」
土方は傍らの煙草盆を引き寄せる、慣れた手つきで煙管に煙草を詰めた。
「ようこそ、お越しやす」
女が酒と肴を運んで来たが、心得顔ですぐさま姿を消した。
隣も裏茶屋だろう。男の密やかな話し声に、女の笑い声が時おり甲高く混ざる。
うちは置屋の娘や。なんともおへんと、心のうちで肩肘を張った。
「拙者は、武州多摩の田舎育ちでな。江戸の大店に奉公に出されたこともあったが、誠の武人にならんと、この京まで参ったのだ」
土方は煙管片手にゆったり話し始めた。
「家は、石田散薬なる薬を作っておってな。薬の商いを家業としておった」
〝商い〟と聞いて、急に身近になった。
土方が、武家特有の融通の利かなさや堅苦しさとは一線を画す、柔軟な思考の持ち主に思えてきた。
「子供の頃の拙者は〝
土方は手酌で一献、ぐいと飲み干した。
「今や、わが壬生浪士組は、会津侯の御預かりという身分と相成った。この先の働き如何では、出世も思いのままというものよ」
盃に残った滴を切ると、土方は盃を浅葱に手渡した。
一瞬、戸惑った浅葱に、
「おお。これはすまん。そなたには、茶と菓子が似合いか。ははは」
土方は鮮やかに笑みを見せた。
「うちかて、もう子供と違います」
浅葱は、注がれた酒を、一気にぐいと飲み干した。
「さすが三崎屋の娘だ。良い飲みっぷりではないか。もう一杯」
差しつ差されつになってしまった。
いつの間にやら、土方との距離が狭まっている。
土方の指の長い手が、なにげなく浅葱の肩に触れ、腕の中にするりと抱き寄せられた。
抗う間もなかった。
最初から納まるべき位置に納まったかのように、ごく自然に思えた。
熱い吐息が、浅葱の顔に掛かった。
如月が熱を上げる葛山と、目の前の土方とでは雲泥の差があった。
土方は、これからどんどん出世する、誰にでも自慢できる相手である。
細めた土方の目が蠱惑的に光る。
土方は、浅葱の尖り気味の顎に手を触れ、顔をそっと上向かせた。
次の瞬間……。
違う。
土方の優しい仕草が、浅葱に奇妙な苛立ちを与えた。
だが、拒めない。
深い睫に縁取られた土方の黒い瞳が近づいてくる。
唇が触れようとする。
浅葱は、咄嗟に顔を横に向けた。
厭がっているわけでは決してない。
心で言い訳し、自ら抱きつくような格好で誤魔化した。
土方の腕に力が籠められる。
熱い感触が、うなじを這う。
荒くなった息の音は、土方なのか、浅葱なのか。
「あ、あの……」
ようやく発した浅葱の声に、土方はあっさりと体を離した。
「はは。すまぬ。そこもとが、昔馴染みの娘によう似ておったもので、ついつい……」
土方は爽やかな笑みで応えた。
「お琴と申してな。高田馬場に近い〝糸竹〟という名の三味線屋の娘であった」
訥々と、思い出を手繰るように続けた。
「拙者が二十四で、お琴は十四だった」
うちと同い年やおへんかと、親近感を覚えて話に釣り込まれた。
「周りが決めた許嫁だったが、拙者が本気で惚れたおなごであった。だが……」
土方は憂いに満ちた伏し目で、暗い庭に目をやった。
「『京に上るゆえ、祝言はしばらく待って欲しい』と告げたところ、お琴の親は『いつまでとわからぬ約束など待てぬ』とばかりに、遮二無二、お琴を余所へ嫁がせてしもうた」
暗い火影の中、土方は唇を震わせたように見えた。
「意に染まぬ嫁ぎ先で、苦労しておるそうな。今もって心が痛んでならぬ」
土方は苦そうな表情で酒を呷った。徳利が畳に転がる。
「酒が過ぎたようだ。ついつい酔狂に及んでしもうた。この通り、謝る。お琴はお琴。そなたは、そなただ」
男らしく小娘に頭を下げる土方は、まさに漢だった。
相手の心を尊重する優しさが、浅葱の心に深く染みた。
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