島原聖少女

出水千春

第1話  火事場で出会った虚無僧は……

 浅葱と浅太郎は、必死に競い合っていた。

 どっちが早ぅ〝一人前の大人〟になれるやろかと。


          一


 明け六つにはまだ間がある暁七つ――寅の刻だった。

 これから盛夏に向かう皐月の寝苦しい夜を過ごし、ようやく深い眠りに落ちた頃。

 乱打される半鐘の音で、浅太郎は夜具を蹴飛ばし飛び起きた。近くの火の見櫓から打ち鳴らされる半鐘の間隔から推し量る。

 かなり近い。


 家の内外が騒がしくなった。微かに、焦臭い臭いも漂ってくる。

 階段をばたばた駆け上る音とともに、

「浅太郎。起きや。火事どすえ」

浅太郎の父、重右衛門の叫ぶ声がした。

蚊帳を捲る手ももどかしく、葭戸をがらりと開けた。


 部屋から飛び出した浅太郎は、重右衛門と廊下で鉢合わせした。巨漢の重右衛門と小柄な浅太郎とでは勝負にならない。

 重右衛門のぶ厚い胸板にぶつかって弾き飛ばされ、廊下の板の間に見事にひっくり返った。


「ど、どないもおへんか。浅太郎。頭でも打ってへんか」

 重右衛門は大慌てで浅太郎を抱き起こした。


「危ないやろ。おとうはん。なんぼ火事やいうたかて、隣が燃えてるわけやおへんで。慌て過ぎどすがな」

 派手に転んだ恥ずかしさに突っかかった。

「そない言うたかて、延焼して来たらどないえ。大事な大事な浅太郎が、逃げ遅れでもしたら、どないするんどす」

 重右衛門は、げじげじ眉をハの字にして、言い訳した。

「うちは、ややこでも、紙の人形でもおへん」

 浅太郎は重右衛門の手を、力一杯、振り払った。


 西本願寺の東裏にあるこの仕舞屋は、先代が隠居する際に建てた豪壮な大塀造(だいべいづく)りの町家だった。

 表通りには高い黒塀が巡らされ、見越しの松を配した前庭が設けられている。後方に粋にしつらえた二階建ての家屋が建つ。


 簾を捲ると、隣家の一文字瓦の屋根越しに、明々と燃え上がる夜空が見えた。

「お父はん。よう見てみよし。だいぶと遠おおすがな」

 こちらまで延焼の恐れはなさそうだった。浅太郎は安堵とともに、物足りない気がした。


「旦はん~。どないどすかあ。見えますやろか」

 軽い足音とともに、お髙の甲高い声が階下から昇ってきた。

 燭台を手にしたお髙が、素肌に小袖を羽織っただけの自堕落な格好で顔を見せた。 燭台を持たぬ右手で、はだけそうになる胸元を掻き合わせている。

 寝化粧をした白浮きする顔が紅い理由は、火事の炎を照り返しているだけではないだろう。


「お父はん。そこまで慌てんかて、ええんと違うのんか」

 暗い廊下に立つ重右衛門が、下帯もつけぬ全裸である滑稽さに気付いた浅太郎は、大仰に舌打ちした。


「旦はん~」 

 お高は、重右衛門の胸板に、じれった結びにした洗い髪を寄せた。重右衛門はにやけながら、半乾きの臭いのするお高の髪を撫でた。


「あほくさ~」

 浅太郎は暗く沈む坪庭の池に向かって、手摺り越しに唾を吐いた。


「この方角やと、島原のほうと違いまっしゃろかあ」

 重右衛門に体を預けたお髙は、間延びした口調で紅蓮に染まる空を見上げた。


「郭のうちかどうか、ここからはわからへんけどなあ。とにかく、わしが見て来るわ」 

 安政三年に大門辺りから出火した火事では、西奥に位置する揚屋の角屋を除き、郭内が焼失した。悪夢の再来がないとは言い切れなかった。


 狭い階段を踏み鳴らし、重右衛門は肩を揺らしながら下りていく。重右衛門は歳を重ねるごとに体の厚みが増し、若い頃とは歩き方まで様変わりしていた。


「旦はん、うち、怖ぉおすぅ」

 お髙もとんとんと軽い足音で重右衛門を追う。


「お髙がほんまに怖いんは『三崎屋が焼けてしもたら、贅沢な妾暮らしができひんようになる。祇園の芸妓に逆戻りせなあかん』っちゅうことやおへんか~」

 五つしか違わぬお髙の背中に向かい、聞こえよがしに揶揄した。


「浅ぼんは……」

 黒光りする階段の半ばで立ち止まったお髙は、ひんやりした眼差しとともに、ついと振り返った。

「三崎屋が燃えて、浅葱はんが焼け死なはったら、いっそ清々しはりますやろ。お互いの顔も見とおへんほど、姉弟で啀み合うことも、のうなりますよってになあ」

 お高は薄暗がりの中で、紅を塗りたくった唇を歪ませた。


 身のうちがかっと熱くなる。

「う、うちは……。そ、そないなことまでは……」 

 言葉に詰まった浅太郎は、お高の丸みのある背中を、力一杯に蹴りたくなった。


              二


 身仕舞いを整えた浅太郎は、日和下駄を突っ掛け、炊事するための長細い土間〝ハシリ〟を駆け抜けた。

 格子戸を開き、短冊敷の石畳の続く前庭に出る。黒塀越しに騒ぐ声が聞こえる。棕櫚の葉に肩先が触れ、耳元で乾いた音を立てた。塀に設けられた潜り戸を、外れるかというほど勢いよく開けた。


 大通りから一本入った新道の狭い通りに一歩、踏み出した、そのとき。

「大変どっせ」

 男衆の庄吉が数珠屋町通の角から姿を現した。顔が引き攣り、奇妙に歪んで、普段の剽軽な庄吉とは別人である。

「あ、浅太郎はん。槌屋はんが……。か、火事どす」

 庄吉は水面に浮いた金魚のように、口をぱくぱくさせた。

 槌屋といえば、太夫や芸妓を呼んで宴席を催す揚屋の一つで、格式の高い見世である。

「うちの〝こったい〟さまが……。ひ、火の中に取り残されはった……み、みたいどす」

 庄吉は体を震わせ、言葉を途切れさせた。


「うちのこったいて……。どっちや。睦月か如月か」

 浅太郎は背伸びし、庄吉の胸倉を掴んでせっついた。

「き、如月太夫さまが、逃げ遅れはったんどす」

 庄吉の口から出た名に、背中からどっと汗が噴き出した。


「えらいこっちゃがな」

 後から出てきた重右衛門が頓狂な声を発した。下駄のように角張った赤ら顔が、夜目にも色を失っている。

「行くで。庄吉」

 重右衛門は新道をばたばたと駈け出した。

「お父はん。うちも行くがな」

 息が上がってへたり込んだ庄吉を尻目に、浅太郎も続く。

 重右衛門は五十を過ぎたいまも、暇にあかして撃剣道場に通っている。高田の馬場にひた走る剣客――中山安兵衛(堀部武庸)のごとく大股で走り去る。


「如月が一大事や」

 負けじと重右衛門の後ろ姿を追った。

 火事場である島原遊郭までは三町ほど。走ればあっという間である。


 新道から道幅の広い数珠屋町通に出た。

 野次馬を突き飛ばし、間をすり抜ける重右衛門を追う。庄吉が浅太郎の後方をへろへろしながら走る。


 うちの初めてのおなごは如月やと固ぅ心に決めてるのに。


 なんとしても如月が無事であって欲しい。

 重右衛門の後ろをひたすら駈けた。


 高鍋秋月屋敷の土塀と向かい合った郷士宅では、下男に高価な掛け軸や壺を運び出させ、荷車に積み込ませている気の早いご隠居もいる。

 悠揚迫らぬ態度で火事の様子見といった、手習いの師匠の姿も見えた。

 町式目に従って火事場に駆けつける若い男が、着物の裾を絡げて走り出す。


「お父はん。先ぃ行くで」

 ようやく重右衛門を追い抜いた。

「浅太郎。無茶したらあかんで」

 耳に、重右衛門の酒焼けした掠れ声が追いすがった。

「火事場に無闇に近づくんやおへんで」

 半鐘の音の合間を縫って重右衛門の叫びが、しつこく追って来る。


 秋月屋敷の四つ辻を曲がって花屋町通に出た頃には、とうとう重右衛門を振り切っていた。人波のなかでひとつ抜きん出て見えた重右衛門の頭も、いつか見えなくなった。


 今まで町家の連なりに遮られて見通しが利かなかったが、田圃に囲まれた浮島のような島原遊郭が、ようやく眼前に現れた。

 花屋町通は、野次馬や火事場に向かう人で、ごった返していた。怒声とともに、半裸の町衆の手で、龍吐水が運ばれていく。

 鳶口を持った専門人足たちが、鼻息も荒く火事場を目指す。

 

 人の波を右に左に捌きながら、ずんずん駆けた。人混みを縫うには、小柄な浅太郎のほうが小回りが利いて、断然、有利だった。

 思案橋を渡ると、花屋町通はくの字に折れ曲がっている。


 島原遊郭の大門が見えた。大門横の艶めかしい〝出口の柳〟も、風情有る〝さらば垣〟も、いつもと違ってよそよそしい。

  大門を潜れば、真っ直ぐに島原を貫く〝道筋〟が伸びている。

 人混みを蹴散らして火消し人足たちや町衆が、大門のうちに吸い込まれていく。


          三


 暗い座敷の燭台の蝋燭の光のもと、如月の艶やかな舞い姿が夢幻のように蘇る。

 胸がどくりと脈打ち、鼓動が無闇に大きくなった。


 太夫と太夫に次ぐ位の天神は娼妓ではないから金では買えない。気に入られて馴染みになれねば抱けない。置屋の跡取りと抱えの太夫となれば、近くにいながら遠い間柄だった。


 如月を助けられれば、良い仲になれるのではないかとの妄想が膨らんだ。

 まだ前髪を落としていないものの、いっぱしの男のつもりである。

 欲得抜きで惚れ合って、出会い茶屋の二階でこっそり密会する。大層な打掛を脱いだ如月が、縮緬の単衣にしごきの帯を締め、嫣然と微笑みながら夜具に誘う。

 如月と自分の姿が頭の回りをぐるぐる廻った。


 恋が成就したら、晴れて一人前の男だ。浅葱を出し抜いてみせる。


 勝手に胸算用しながら先を急ぎ、人波を押し分けて郭内に足を踏み入れた。


 吉原の鉄漿溝(おはぐろどぶ)のように、郭のぐるりを堀が取り囲んで遊女が逃げぬようにする工夫など、島原にはなかった。享保十七年には、東の大門のほかに西門も設けられ、東西に道筋を通り過ぎられるようになった。壬生浪士組の隊士などは、壬生村に近い西門から、毎夜のように出入りしていた。

 一般の男女が、気軽に郭内に足を踏み入れることができる。中に棲む女たちも、門番に札を渡せば比較的自由に外に出られた。


 ますます混乱を極める道筋の通りを泳ぐように抜け、火事場に近付いていく。

 右に曲がれば中之町の通りだった。

 ぴたりと足を止めた。

 島原で一、二を争う置屋、輪違屋の数軒先に見世を構える槌屋が燃えている。

 浅太郎は息を呑んだ。


 火の勢いは強い。まだ夜も明けぬのに真昼の明るさだった。

 桶を手にした人々が蟻のように繋がって、懸命に水を掛けている。だが全く意味をなさない。

 足に脚絆を巻いて陣笠を被った、専門の火消し人足たちが、隣家の屋根に梯子を掛ける。屋根に上って類焼せぬよう鳶口で隣家を壊し始めた。

 火の粉を煽り返すつもりだろう。男衆(おとこし)が外した障子を持ち上げ、両肌脱ぎで奮闘している。

 龍吐水も精一杯に働いているが、まるで頼りにならない。

 近くの店では、家財道具を運び出す男衆が、てきぱきと素早い動きで出入りする。皆が皆、例外なく殺気立っていた。


「浅太郎」

 突如、腕を掴まれ、慌てて振り向いた。

 目の前に、重右衛門の汗に塗れた大きな顔があった。

「この様子やったら、如月は、もうあかん……」

 重右衛門は額に深い皺を寄せて首を横に振った。


「こったいさま。如月さまー!」

 燃え崩れる店の前で、如月付きの禿が二人、泣き叫んで地団駄踏んでいる。遠巻きに、三崎屋の男衆や芸妓・仲居たちも見えるが、騒ぐばかりで何の役にも立たない。

 槌屋主夫婦もおろおろとただただ歩き回っている。

 重右衛門は、足が地面に縫い付けられてように立ちすくんだまま動かない。紅い炎を映した顔は、まるで赤鬼の形相だった。


              四


「あんた。こないなときに、何処に行ってはったえ」

 重右衛門の姿に気付いた、お信が、体をわなわな震わせながら詰め寄った。

「なんぼ『置屋に男気は要らん』ちゅうても、肝心のときにいたはらへんてどないえ」

 見世は仲居頭が取り仕切って主は目立たないよう心がけるのが、置屋の世界だった。

「なんやて。好きで向こうに寝泊まりしてるんやおへんえ。わしかて……」

 重右衛門の言葉を、般若と化したお信が遮った。

「いま、そないなこと言うてる場合やおへんやろ。如月を早ぅ火の中から助け出しとくれやす。な、あんた」

 きんきんした癇癪声を出しながら、お信は重右衛門の胸を力一杯叩いた。

「あほ言うのやおへん。無理に決まってるがな」

 重右衛門とお信は、つかみ合いを始めんばかりに、双方とも目を釣り上げた。


 商家なら、普段から〝用心土〟を用意している。駆けつけた左官に、お宝――商品の詰まった蔵に目張りをさせて火が入るのを防ぐ。店のうちにも地下蔵を設けて大事な帳簿や品を放り込んで封じる方法で損失を最小限に抑える。


 置屋の場合、大事なお宝は女だった。ことに太夫となれば、一人前に育て上げるまで高くつく至宝である。


 女衒から、あるいは直接、親から、顔立ちの整った幼女を買い取り、禿のときから五体を磨き上げる。舞、琴、三味線から和歌や俳句、生け花に書……。一流の師匠を頼んでの稽古事に注ぎ込む金子は半端ではない。太夫を失えば、三崎屋の浮沈に係わる。


「こったいはんを助けとくれやす。な、なんとかとか、おたのもうします」

 金の定紋入りの赤前垂れを掛けた仲居頭のお峰が、必死の形相で、人足頭に懇願している。頭は困惑の色を隠せない。

「火の廻りが早おすさかいに。うちらかて、逃げるので精一杯どしたえ」

 槌屋から逃がれてきた舞妓が、言い訳めいた言葉を口にした。

「男衆はんは、どないしてはったんどす」

〝引舟はん〟と呼ばれる太夫付きの仲居が、隣に立つ男衆をなじった。

「こったいさまのあの衣装や。男衆が何人もおらんと、助け出すやて無理どすがな」

 太夫の打ち掛けは夏でも袷の綿入りで、前に結んだ帯も大層で身動きの邪魔となる。

 京風の立て兵庫に結った髪に、鼈甲の大きな櫛や八本の笄、花簪ときては、独りで逃げられない。

「引舟はんは、すぐ近くにおいやしたのやろ。あんさんだけ逃げはってからに」

 少しばかり腰が曲がった年配の男衆が、歯を剥き出して言い返した。

「うちは真っ先に男衆はんを呼びましたやろが。そやのに聞こえん振りどす。あんたらの逃げるのが先て、呆れてものも言えまへんえ」

 引き舟も負けずに大声で言い返した。

「あほ抜かせ。わしらは『こったいさまは無事に裏から逃げはった』て聞いたさかい表から逃げたんや」

 見苦しく責任の擦り合いが始まった。


「誰か助けに行かぬのか」

「はは。男になるか。のぉ、野口」

「拙者は、攘夷の大義がござる身なれば……」

 壬生村に寄宿する貧乏浪士たちの声が聞こえてきた。中でもよく通る大きな声は、芹沢鴨という水戸出身の偉丈夫だった。今夜も大いに酒が入っているらしい。


 炎が奇怪な物の怪のように軒先を舐め上げる。ぱちぱち弾ける音やごーごーと渦巻く音が、人々を威嚇する。


 地面に根が生えたように、一歩も進めなかった。

 想像していたように、頭から水を被って火の中に飛び込むなど思いもよらない。

 妄想の世界ではいくらでも勇気を出せる。古今の読本の英雄や勇士にもなれるが、これは現の出来事である。


 お峰は誰彼構わず「助けとくれやす」と乱心したように泣きつく。皆は気の毒そうに首を振るしかない。

 お信も重右衛門も、いつの間にやら諍いを止めて静かになった。じっと動かない。


 直に襲い懸かる炎の熱が肌に痛い。煙に咽せ返る。目を開けているのも辛い。火の粉が容赦なく降り注ぐ。

 今さら飛び込んでも〝相対死に〟してしまう。いや違う。

 如月は焼け死んでいるに決まってるから〝後追い〟である。恋が始まる前に終わってまう。 


 大きな柱が凄まじい轟音と共に燃え落ちた。野次馬からどっと叫びが上がる。

「もうお仕舞いや。如月はもうあきまへん」

 お信が身も世もなく地面に泣き伏した。


 そのときだった。


        五


 赤々と燃え盛り、火の粉が舞う中、黒い影が戸口の奥に浮かび上がった。


 どっとどよめきが起こる。皆の目が一点に集まり、一斉に固唾を呑む。

 最初は、踊り狂う炎の悪戯に見えた。

 朧だった影は見る間に形を成し、姿を現した。朦々たる煙で、形はまだ定かでない。

 浅太郎は目の前の光景が幻に思え、思わず目をこすった。

 息を詰めて凍りついた人々から、一気に歓声が上がった。群衆のざわめきは、津波のように左右と後方に波及していく。

 諸方から拍手がどっと湧いた。

 火消し人足たちが、素早い動きで駆け寄る。

 布団らしき物を被って出て来た人影は、果たして如月なのか。

 四間ほど離れた場所から懸命に目を凝らした。


 通りまで出た影は、燃え燻る布団を放り投げるように、力強い動きで脱ぎ捨てた。

 現れたのは、上背のある男と、小脇に抱えられた小柄な女だった。

 人足たちが男の着流しの裾に着いた火を手早く叩き落として水を掛けた。

 髪を乱し単衣だけ身に纏った如月は、気を失っているらしく、ぐったりと項垂れている。


「如月。如月。大丈夫か」

 重右衛門とお信が二人に駆け寄った。


 確かな足取りで、男は中之町通りを横切っていく。男の進む先だけ、野次馬の人波がさっと引いた。

 着流しで総髪の男は、通りの斜め向かいの豆腐屋に向かい、如月の体を、店先の縁台にそっと横たえた。ぐるりを遠巻きにするように人の輪ができた。


「如月。しっかりしぃ。如月!」

 お信が如月に取りすがって華奢な体を揺すった。

 果たして如月が生きているか否か。傍らに突っ立つ浅太郎の握った拳のうちが、じっとりと汗ばむ。

 暫時のち、小さな呻きとも吐息ともつかぬ声とともに、如月が意識を取り戻した。

 お峰が、浅太郎の手を、皺の目立つ骨張った手でぎゅっと掴んで、何度も頷いた。

「良かった。ちゃ~んと、仏さんが守ってくれはった」

 浅太郎も殊勝な気持ちになって大きく頷き返した。

 体を強張らせていた力みが取れ、眼前にぽっと灯りが灯ったような安堵が、浅太郎を柔らかく包んだ。

「良ぅおました。良かったどす」

 お峰は、皺くちゃの顔を、さらにくしゃくしゃにして、袖で涙をぬぐう。

 浅太郎の体が勝手に、兎のように飛び跳ね、その場で小踊りした。


 男は、体についたこもごもを手で払いながら、豆腐屋横の路地に向かった。暗い路地の奥からなにやらごそごそ取り出した。

 火事場の明かりに照らし出されたのは、虚無僧の被る深編み笠――藺製の天蓋と錦の袈裟や笛袋だった。

 良く見れば、京師の虚無僧特有の帯の締めかた――平絎の男帯を前で巻き結びにしている。ゆったりした動きで、施米や施銭を納めるための三衣袋(さんえぶくろ)を首に掛けると、手慣れた手つきで、帯の背に尺八の殻袋を挟み垂れ、別の袋に収めた尺八を脇差のように腰に差した。


 虚無僧は普化宗の徒で、かつては、尺八を吹きながら出家者として全国を行脚していたが、近頃は苦労の多い諸国修行に出ず、近隣をうろつくばかりとなった。

 半僧半俗で剃髪もしていない。もともと武士しかなれぬ建前で、浪人の仮の姿が多い。浪人なので、仕官の道が開ければたちまち還俗する。虚無僧稼業をお上が黙認する理由は、体(てい)の良い浪人対策だった。

 男は知恩院にある一心院の虚無僧だろうと思われた。


「ありがとうぞんじます。如月の〝親〟で三崎屋重右衛門と申します」 

 重右衛門が虚無僧に近づく。

「お助けいただきまして、ほんまに有り難いことどす。お礼も言いとおすし、是非にもうちへお越しくださいませ」

 礼を尽くして丁寧に頭を垂れた。お信も、立ち居振る舞いもたおやかにお辞儀をした。

「せいだい寄進なとさせてもらいとおすしぃ」

 虚無僧と侮るのか、お峰は直裁に謝礼を口にした。

「いや。拙者はこれにて……」

 お峰の言葉が癇に障ったらしく、初めて口を開いた虚無僧は、すげなく断った。


 気骨があるなと、浅太郎は少しばかり虚無僧に興味を惹かれた。


「どないに礼を言うてええのやら……。このお礼は……」

 虚無僧に向かって、重右衛門はくどくどと畳み掛けた。

「いやいや。礼には及びませぬ」

 陰気に笑う虚無僧の言葉には、どこか野暮ったい田舎訛りが感じられた。

「私どもの気が済みません。せめてお名前だけでも……」

 あくまで食い下がる重右衛門に、虚無僧がおもむろに天蓋を被りかけたときだった。


         六


「愉快。愉快。あの業火から女を救い出すとは、なんとも豪気千万。虚無僧にしておくにはもったいない男じゃ」

 自慢の鉄扇を持った芹沢鴨が、大股で歩み寄った。三十半ばの芹沢は貧相な隊士のなかで際だって身なりが整っている。大柄で押し出しも良く、お大尽風の浪士だった。

 数名の隊士も近づいて来た。芹沢一派の平山五郎と平間重助、野口健司だった。壬生浪士組随一の剣客と言われる永倉新八の大柄な姿もあった。

「あっぱれ。あっぱれ」

 取り巻き連中が、芹沢に付和雷同して口々に騒ぎ立てる。

 芹沢らは、今宵も島原に繰り出していて、火事騒ぎに遭遇したのだろう。


 大勢の武家に賞賛されて黙っているのは無礼と思ったのか、虚無僧は動きを止め、芹沢一行に向って黙礼した。

 ほかにも〝みぶろ〟は来ているかと首を回して見渡すと、野次馬に紛れて土方歳三の白い顔が目に付いた。

 群衆の中で、土方は否でも目立ってしまう。近藤の金壺眼もすぐ脇で光を放っていた。


 浅太郎は、壬生浪士組が屯所として占拠している八木源之丞邸の三男、八木為三郎と同い年だった。八木邸にしょっちゅう遊びに行くので、壬生村に居着いた得体の知れぬ浪士軍団の面々にも詳しかった。


 文久三年当初は、衣替えの季節になっても、夏の衣服に窮する浪士が多かった。今では僅かにせよ会津侯より給金が出るようになり、隊士の数も三十五名ほどに増えていた。


「おお。浅太郎。如月太夫が助かって良かったな」

 沖田総司が、屈託がない、明るい声で話しかけてきた。

「近頃はとんと八木邸に姿を見せぬではないか。ははん。この前、厳しく稽古をつけてやったので、臆したのだな」

 沖田は浅黒い顔に白い歯を煌めかせ、浅太郎の肩を乱暴に叩いた。 

 沖田の顔を見ただけで、たちまち脛の打ち傷が痛み出した。

「置屋の主は、男いうても、一通り、芸事ができな務まりまへんよってにな。うちかてもう十四どす。本腰入れて研鑽を積まんとあきまへん。この頃は何かとお稽古ごとが忙しおしてなあ。今までみたいに遊んでばっかりはおれまへんのや」

 虚実織り交ぜて言い訳した。

 沖田は子供好きで、暇さえあれば近隣の子供の相手をしてくれる。遊んでくれるのはいいが、いつの間にか撃剣の話題から手ほどきへと移行してしまう。あげく、目の色が変わって相手を誰彼構わずびしびし打ち据える悪い癖があった。


 槌屋はあらかた燃え落ちたが、人足たちの働きで、延焼もなく収まりそうな具合になった。

 気付くと、如月は三崎屋に運ばれたらしく、縁台に姿はない。

「ささ、うちへ……」

「いや。拙者は、これにて……」

 まだ重右衛門夫妻と虚無僧との攻防は続いていた。どちらも意地になっている。

 虚無僧はあくまで名乗りもせず固辞するつもりらしい。重右衛門の腕を振り切るようにして立ち去りかけたとき。


「おぬしは、葛山武八郎ではないか」

 群衆の中から、副長助勤を勤める古参隊士、安藤早太郎が進み出てきた。

「おお。安藤殿。お久しゅうござる。その節は世話になり申した」

 葛山は被ったばかりの天蓋を脱いで、深々と礼をした。

「いやいや。ごぐごく当たり前のことをしたまで」

 安藤は四十を超えている。若い隊士の中では目立って年長者である安藤は、顎を撫でながら鷹揚に頷いた。

「今ではこの通り、活計にも困らぬ身とあいなり申した。五年前のあの折り、安藤殿に声を掛けていただいた御陰と存ずる」

 葛山は初めて薄い笑みを浮かべた。

「浅太郎は知らんだろうが、安藤さんは三河は挙母の内藤家から出奔した浪士でな。壬生浪士組に参加するまで十年ほど虚無僧暮らしであったのだ。あの虚無僧の先輩というわけだな」

 沖田のお節介な説明の御陰で、浅太郎は合点がいった。


「安藤さまのお知り合いどしたとは心強おす」 

 仲居頭として鳴らすお峰は、揚屋や茶屋で宴席を取り仕切っており、浪士組の面々とも心やすい。ここぞとばかりに心得顔で口を挟んだ。

「安藤さまからも仰っとくれやす」

 お信も「このままやと、うちらは恩知らずのそしりを受けます。焼け焦げた衣服だけでもまどわせて(弁償させて)もらいとおす」

 葛山の袖にすがるように泣きついた。


「葛山。ここまで言われてすげのぉ立ち去るのは、いかん。な、わしも同道するゆえ三崎屋に出向かんか。わしの顔も立てんか」

 否と言わさぬ勢いの安藤の言葉に、葛山は「さようまで仰せとあらば……」と渋々従った。

「そないしてくれはりませ。代わりの小袖も御用意させますよってに、ごゆるりとくつろいどくれやす」

「さ、さ、どうぞ、どうぞ。うちの見世はすぐその先どすさかいに」

 重右衛門夫妻とお峰は、嬉々として葛山と安藤を先導し、太夫町に見世を構える三崎屋に向かった。


           七


 我が国で最古の廓である島原遊郭は、正式には西新屋敷と称され、約一万二千坪の敷地に、揚屋や茶屋や置屋などが、華やかに軒を連ねている。

 三崎屋の紋が粋に染め抜かれた、濃茶色をした麻の大暖簾を潜ると、出迎えの仲居が一斉にお辞儀をした。

 内玄関に入ると、正面中央に帳場格子の結界と机が見え、さらに奥には坪庭の石灯籠に灯った明かりが揺らめく。  


「揚屋や茶屋にはときどき参るが、置屋に揚がるは初めてじゃ」

 安藤が無遠慮に辺りを見回しながら、式台で草履を脱いだ。葛山は何事にも無関心な様子で、物珍しげな素振りを見せなかった。 

「まずは、私どもの座敷で一献。そのうち如月も身仕舞いを整えますゆえ」

 磨き立てられた廊下は曲がりくねっている。重右衛門は露払いをしながら、安藤と葛山とを書院造りの奥座敷へと丁重に案内した。

 赤前垂れも鮮やかな仲居が、しとやかに襖を開けて客人を席に案内する。

「揚屋の角屋はんなどとは、比ぶべくもおへん荒ら屋どすが、寛いどくれやす」

 置屋である三崎屋は、揚屋のように遊客を接待する楼閣ではないから、煌びやかに飾っていない。宴を催すための大広間もなかった。だが財力にものを言わせて贅を尽くした造りと調度を誇っている。

 仲居たちが裾を引きずりながら、仕出し屋から急いで取り寄せた膳を銘々の前に並べた。

「儂は行きがかりで参っただけのこと。すぐにも帰る所存でござったのに」

 安藤は人差し指で鼻先を擦った。

「ご遠慮なさらずに。今宵は安藤さまも立派なお客人でございますよ」

 重右衛門が手をぽんぽんと叩いて合図をした。芸妓や舞妓もやってきて、酌をし始める。


「こったいさまを救うてくれはった虚無僧はんて、歌舞伎役者はんみたいに、えらいええ男はんやおへんか」

 禿から上がって間がない舞妓同士が、小声でひそひそ囁き合う。

 何がいい男だ。金のない男には見向きもしないくせにと、舞妓たちを睨んだ。

 舞妓たちは、笑い声をはしたなく上げるばかりで、目は葛山にばかり向いている。


 当の葛山は、何を考えているのか、押し黙ったままだった。極彩色の艶やかな島原にあって、葛山だけが墨絵の世界の住人に見えた。


「ところで娘御はご壮健かな」

 安藤は盃を手にしながら、重右衛門に向かって横目で訊ねた。 

「浅葱はあいにく臥せっておりますのどす」

 重右衛門はにこやかに答えた。


 燭台の灯りがジジと湿った音を立て、風もないのに揺らめいた。お信の横顔に奇妙な陰影が浮かんで消える。


「ここにおる浅太郎も浅葱も、ときおりわけのわからぬ病で寝付きますのどす。気鬱どすやろか。『甘やかして育てたせいや』て郷里の父にもよう言われるのどすえ」

 お信はほつれ髪を撫でつけた。仕草が妙に仇っぽいせいか、安藤の目が好色の色を宿した。 

 お信は安藤の眼差しなど無頓着な様子で、浅太郎のほうを振り向いた。


「そうそう。浅太郎。安藤さまはなあ。うちら夫婦の恩人どすえ。ほほほ。安藤さまはなあ……」

 お信が言いかけた言葉を、重右衛門がついっと端折った。

「安藤さまが虚無僧してはった時分や。油小路通の居酒屋で偶然出くわしたのが始まりや」

 重右衛門は感慨深げに、一つ息を吐き出した。

「ほんで、安藤さまから『子作り』に霊験あらたかな品を譲ってもろたんや。そないしたらすぐ、ややこが授かってなあ」

 重右衛門の話に、お信が再び口を挟んだ。

「ほんまに安藤さまの御陰どす。うちは死産ばっかし繰り返してましたさかいなあ」

 お信が安藤の目を見つめて頭を垂れると、安藤は嫌みなほど背を反らせて頷いた。 

「ややこがどないしても欲しかったお信は、気がふれたみたいになっとったのどすが……」

 嬉しげに話す二親の言葉に嘘はない。だが、口中に砂の味を感じた。

「儂も人助けできて、何よりと思うておる」

 安藤は芝居がかった素振りで豪快に酒を煽った。


 打ち水をされた仄暗い庭から、朝を感じさせる爽やかな気配が吹き渡ってきた。庭の石灯籠の灯りも、そろそろ不要になる刻限だろう。

「こったいさまがお待ちどす~。お部屋まで、ちいと、おいでくだされませ~」

 甲高い童の声とともに、廊下に小さな影が二つ現れてちょこなんとお辞儀をした。

 火事場で泣き叫んでいた二人の禿だった。振り乱していた髪も整え、煤で汚れた小袖も着替えていた。


「ささ、葛山。儂に遠慮せんと、行って来い」

 安藤は右手で追い立てるような仕草をした。

「安藤殿も、ご一緒ではござらぬのか」

 無表情だった葛山の顔に当惑の色が浮かんだ。

「如月が礼を言う相手は、おぬし一人であろうが」

「し、しかし……」

 葛山は目を宙に泳がせ、逡巡した。

「うははは。おぬし、太夫の部屋に行けばしっぽりできると、期待しておるのじゃな。なあ、葛山。図星であろう」

 安藤の推量に、葛山は一瞬、顔色を変えた。が、そのまま絶句して面を伏せた。

「儂らはここで、ゆっくり待つ。それゆえ気にせずともよいぞ」

 下卑た含み笑いをしながら、安藤は二度も大きく頷いた。これから腰を落ち着けてたっぷり飲み食いするつもりだろう。


「こったいさまが、お待ちかねどすえ。ささ……」

 如月付きの引舟が、葛山の手を取って廊下を去っていく。

 すらりとした葛山の後ろ姿を見送っていると、心の琴線がびんと弾かれた。

 礼儀を尽くして、感謝の気持ちを伝えたいだけだろう。


 だが、色里で礼儀を尽くす言えば、やはり……。


 心は千々に乱れ始めた。


           八


「安藤さまには、十数年来、何かとお世話になっておりますなあ」

 重右衛門が自ら安藤に酌をする。お信はいつの間にやら席を外していた。

「いやいや、儂こそすまぬことじゃ。盆、暮れの付け届けなんぞ無用と申しておるに」

 安藤は脇息にだらしなく凭れかかって、注がれた酒を胃の腑に流し込んだ。

「この頃は、島原もようやく息を吹き返したしだいで、ありがたいことどす」 

 お信に代わってお峰が、団扇で安藤をゆるゆると扇ぐ。仲居頭のお峰のほうが、お信よりよほど女将らしい貫禄を醸し出している。


 お信は根っからの花街の女ではない。近江八幡で薬種問屋を手広く構える大店、安木屋の娘だった。傾きかけていた重右衛門の見世が現在のように持ち直したのも、お信の郷里の財力だった。

 お嬢様育ちのお信は、今なお御新造さまであっても、女将ではない。禿から叩き上げのお峰が、女将のごとき辣腕を発揮して見世を切り盛りしていた。重右衛門が浅太郎とともに暢気に妾宅暮らしができるのも、見世の差配を任せられるお峰の功が大きかった。


「安政の世になってから、国事多端とやらになりましたやろ。世の中の変わりようが、うちらにとっては、かえって有り難いことどす」

 重右衛門は、仲居に酌をさせた盃をゆっくりと飲み干した。

 京では各藩の志士の往来が繁くなり『島原は密議に格好の場である』として重宝されるようになった。勤王、佐幕、攘夷、開国。各々の国を背負って、思惑の異なる志士たちが島原に遊ぶ。

「壬生浪士組の皆様は、今や会津侯の思し召しも目出度く……。今後、ますます飛躍なさると期待いたしております」

 愛想笑いを浮かべながら、重右衛門は安藤を持ち上げた。

 だいぶ目が据わってきた安藤は、

「壬生より島原まで僅か十町ほどの距離を、じゃぞ。芹沢、近藤両局長は、駕籠を仕立てて参られるように相成った。そのうち儂らも、駕籠を連ねて毎夜参るようになるぞ。大名行列のようになあ。はっはっは」

 乱杭歯の口の奥まで丸見えにして笑った。

「だんはん。その節はせいぜいご贔屓にぃ。揚屋からの差紙(招請状)には、うちの太夫、芸妓の名をおたのもうしますえ~」

 現役の頃の癖が出たのか。お峰が年甲斐もなく色っぽい流し目で安藤を見やった。

「わかっておる。わかっておる。儂は年長ゆえ、芹沢、近藤両局長には一目も二目も置かれておる。『宴を催すおりは、三崎屋抱えの女に限る』と進言するによって安心せい」

 安藤は胸を反らせ、厚い胸板をどんと叩いてみせた。 

 重右衛門はいつの間に用意していたのか、懐から紙包みを取り出して安藤の袖のうちに潜ませた。

「そのほうらの心がけ次第で、儂もそれなりに力も入れようというものじゃ。はははは」

 安藤は上機嫌で、料理の皿に盛んに箸をやる。迷い箸が見苦しい。


 こうしている間にも、如月と虚無僧が何をしているかわかったものではない。

 浅太郎は、ついに居ても立ってもいられなくなった。


         九


 厠へ行く素振りで、浅太郎は外縁に出た。

 日の光が僅かに差し始めた奥庭を左に見て、湯殿の前を通った。体を磨き上げる日課も商いのうちである。湯殿は、仕事を終えた女たちが一度に大勢入れるよう、普通の商家よりかなり大きく作られていた。

 奥庭の沓脱ぎ石は鞍馬石で、踏み石が点々と千鳥に打たれ、離れへと案内する。

 長い渡り廊下の先が、女たちの住まいだった。母屋と同じく、障子や襖も葭戸に替えられ、瀟洒な夏仕立てに設(しつら)えられている。一階の大部屋には、芸妓、仲居や禿などが起居し、仲居頭のお峰や、天神や旦那持ちの芸妓は、狭いながらも一室を与えられていた。 


 階段を上って、手前にある如月の部屋を目指した。暑くもないのに、額に汗が染み出す。

 廊下の奥に位置する睦月の部屋からは、明るい笑い声が響いてくる。  

 如月を禿から育て上げた、姉分の睦月は、もう二十五だった。お礼奉公の最中で、来年には退郭するという気楽な身の上である。芸事の師匠を始めるため、馴染みの旦那に、適当な仕舞た屋を探させている。


 柱の影からそっと顔を出して、手前に位置する如月の部屋のうちを窺った。葭戸なので隙間から内部が透けて見える。 

 八畳と六畳の二間ある部屋は、吉原のように遊客を迎えるわけではないから、虚仮脅かしな豪華さはない。質素だが趣味の良い調度が並べられていた。 畳の上にすがすがしい網代が敷かれ、仄かに香の匂いが漂ってくる。


 浅太郎は目を凝らした。

 酒肴を前に、如月がなにやら小声で話し、葛山は黙っている。しばらく沈黙が続いたかと思えば、また、如月が何か声をかける。が、葛山は頷くだけで話が続かない。合間に引舟が笑い声を立て、硬いままの座を取り持とうと必死である。

 浅太郎は常ならぬ空気を感じた。

 太夫たるものは禿のときから仕込まれ、お公家さま、お大尽、どんな相手にも引けを取らぬだけの教養を身につけている。

 手練手管も、睦月から十二分に伝授されている。

 いかに無口で無愛想な客人とて、如月が座持ちせられぬはずはない。


 如月はつまらぬ虚無僧風情に本気で惚れてしまったのではないか。


 浅太郎ははたと気付いた。


 火勢がさほどでないうちなら、火の中に飛び込んだのは、通りすがりの葛山ではなく浅太郎だったはずだと思えば、悔しさが募った。


「こったいさま。お待たせどしたなあ」

 乱れ籠を捧げ持った古参の仲居が、とんとんと階段を上ってきた。浅太郎に軽く会釈して通り過ぎた。

「葛山さまはお背が高おますよって、旦那はんや男衆はんの小袖ではあきまへんよってになあ。他所さままで当たって、ようやっと見つけて来ましたどすえ」

 乱れ籠から取り出された衣服は、虚無僧の衣装としても使えそうな藍の綿服だった。

「忝ない。お借りした小袖は、明日にでもお返しに参るゆえ」

 葛山は立ち上がり、そそくさと着替えを始めた。引舟と禿が、手慣れた手つきで手伝う。

「お返しには及びまへんえ。虚無僧はんの装束、ちゃんと設えて、持って参りますまでの仮着にお使いやす。あとは、どないなと処分くださりませ」

 引舟が心得顔で、饒舌に愛想を振りまく。


 軒端に縁取られた外界が、いよいよ曙めいた。と、見る間に明るさを増す。高く張り出した楓の枝のさまも、輪郭を際立たせる。

「では、これにて……」

「まだ、よろしおへんか」

 引舟と葛山との問答がしばらく続いた。如月はじっと座したまま、深い睫毛に縁取られた瞳で葛山を見つめている。

 引き留めの誘いを振り切った葛山が座敷を辞する気配に、浅太郎は慌てて階段を駆け下りた。


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