第五話

「お、おい、リョウ……」

 徹矢が、俺の肩に手を伸ばしてくる。

 魁成は、ぽかんと顔をしてフリーズしている。

「リョウ」

 律が、肩と胸を大きく上下させながら言った。

「今なら、まだ許すぞ。素直にオレに従ってくれりゃあいいんだぜ? 江崎大河は、クラスの敵なんだぜ? そこから離脱してあいつを庇えば、当然矛先は、リョウ、お前に向く」

「って言うけど、向けてくるの結局律だろ? いい加減、気づけよ」

 慎重に、俺は言葉を紡いでいく。

「何にだ、組長に口答えしてでも言うことって」

 その慎重さは、俺に近寄って上からジロリとこちらを見下ろす律によって、ぶち壊された。


「自分の孤独さに、さ」


 気づけば、俺は宙を舞っていた。

 五十センチほど吹き飛ばされたところで、肉が衝撃で固まった。気に入っている、グレーのニットジャケットが、砂埃でくすむ。

 口の中には、鉄の冷たい味がとくとくと広がる。

 腕にヒリリ、と痛み。

 と、ジャケットの内側の白黒ボーダーのロンティーがグイッと引き上げられ、顎からゴチン、という鈍い音が鳴った。

 目の前に、炎が宿った。圭田律のキツネ顔だった。

 瞳は、大嵐の前に走る稲妻のように鋭く尖り、下唇が突き出た顔で歯を食いしばっている。そのおかげで、顔面がヒリヒリと細かく震えていた。

「……お前、さっきの、どういう意味だ」

「そのまんまさ」

 この、遠本涼一郎と圭田律以外は存在しない世界で、ススキがサアサア揺れてる。

 不思議と、心肺機能はのんびりとしていた。

「自分には誰もが従ってると思ってる。でも、それは何かバレちまえば一瞬で抹殺されるっていう恐怖から来るものだ」

「うっせえ」


「お前がしてたことは、恐怖政治に他ならない。他人の心は冷ややかだぜ」


 腹が後方に吹き飛ばされた。

 口から出てきた赤黒いドロドロの液体が圭田律の顔面にかかるまでの時間が一時間以上の感覚だった。

「畜生、不純物でしかない血なんて吹きかけてきやがって、この毒トカゲが」

「俺だって、ずっと歯向かいたかった。正直、江崎大河……タイちゃんに、あんなひでえことすんのは、耐えられるもんじゃなかった。屈辱だった。五左衛門とお前に押さえつけられて服を脱がされてるタイちゃんがこっちを見つめる目は」

 脳天が揺れた。

 俺は、ネジが二、三十本抜け落ちたラジオみたいに喋り続けた。


「俺も、恐怖政治に良いようにされて言えなかった。五左衛門は俺よりもバカデカい身体してるし、俺までお前らのストレスを満たす玩具にされちまうのは嫌だった。でもな、もう限界なんだよ。タイちゃんのことはよく知ってる。小さい頃からな。あいつは、誰にも目をかけてもらえることなく、ずっと一人で生きてきたんだ。あまりにも可哀想じゃないか? そんな人を、お前らはいじめっていう最低なゲームの対象としてズタズタにしてたんだ。その一員ってことがどれだけ情けないことだか分かるか? 父さんに、母さんに、クラスメイトに、タイちゃんの親御さんに、どんな顔すればいいってんだ? お前らの心の奥底は闇だ、漆黒だ、そんな奴に将来どんなえらいことが出来るってんだ、そんなんで親と同じこと出来ると思ってんのか? お前の親父さんは……」


「黙れ! 黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇ!」


 左右から何度も俺の頬骨を殴る圭田律の腕は紫色に変色していた。

 山に、その声がぼわわんと反響する。

「お前に何が分かるってんだ、糞野郎、こっちはどうやってここまで育てられてきてると思ってんだ!」

 胸を足裏で突き放され、俺は力なく地面にあおむけで倒れた。

 今日も、太陽が地球を飲み込んできたみたいな、血まみれの空だ。

「魁成! 徹矢! 死刑だ、絞首刑だ、ギロチンだ、こいつなんか」

 頭の下に、腕がかかった。

「こうしてやっ」

 その腕が真上に、捻られながら持ち上げられようとしていた。俺は、目をギュッと瞑って、首元に力を入れた。

 が、それ以上は上がらなかった。


「律、今までありがとう。今日からは、お前の番だ」


 終わりのない、黒い目をした魁成が、圭田律の長い首に、野球部で鍛えられた腕を回していた。

「ちょっとさ、俺、平和主義者だからさ、言葉で言っとくわ。律、お前、女子がずっとお前の周りでヒソヒソ話してるの、知らなかったか?」

「てつゆあ……」

「今度、お前と五左衛門のロッカーに、クラスの女子全員署名の『死刑宣告状』入れとこっか、って計画してたぜ」

 徹矢は、雨の跡の虹のような、清々しい表情で笑っていた。

「じゃ、頑張れよ、律」

 魁成は、一瞬ぎゅっと腕に力を入れてから、腕で圭田律を捻り倒した。




「お前らもそんなこと思ってたのか」

 俺は、徹矢と魁成に肩を貸してもらいながら、タイちゃんの家から離れてゆく。

「まあ、色々思うことあるじゃない? やっぱ、気分良くないじゃん。俺なんか、なるべくそういうところではちょっと離れてたけど、それでもやっぱ加担してるって言うのはあるからさ」

 徹矢の顔は、沈んでいく前に最後の輝きを放つ太陽に照らされて、キラキラと光っていた。

「俺は、単純に五左衛門と律が嫌いだった。ま、江崎大河も嫌いだけど」

 魁成は、冷めた表情でそれだけ言った。

「ま、でもこれでちょっとでもよくなるなら、まあいいんじゃね?」

 と、徹矢が弾む声で言った時だった。


 キャハ、キャハハハ、キャハハハハハハハハッ


 クタクタの心臓が、縮み上がった。

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