第三話

 ヒマワリで言う種が密集している部分。

 限りなく黒に近い紫の円形に、薄っすらと何かが浮かび上がっている。

 ぽっかりと穴が開いたようにも見える、赤い円が二つ。その下に、横向きの赤い半月型が一つ。

 それが、嗤ってる人の顔に見える。それも、こちらを見下すような、下卑た笑みだ。

 途端に、急に心臓がバクンバクンと、全身の血液を一気飲みしては吐き出しているのではないかというくらいの速さと大きさで波打ち始めた。

 どよんとした空だというのに、ドバドバと汗が滝のように溢れ出してくる。ニットの中が一気に蒸れてきた。


「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ……」


 もう一度、花が揺れたように思えた。

 その時、花の口角が上がった気がした。

 ぽっかり開いた目は、じっとこちらを見つめている。


「……エザキタイガのヤロー、ここから出てぶちのめ……」


 ふと、風が止んだ。

 荒い息遣いで話す、何かが喉に引っ掛かったような、がさりとした声。

「五左衛門?」

 耳をすませても、もう声は聞こえない。

 だが、あの声は……。


「ん」


 雲の隙間から、一瞬、太陽が差した。

 その時、小さな鉢植えのそばで、キラリ、と何かが光を放った。

 俺の意識は、声も花の揺れもシャットアウトして、“そこ”だけに集中した。

 分厚い雲が再び空に被さって、光はもう放たれない。

 しかし、俺の脚は糸で引っ張られているように、“そこ”へ向かっていく。


「えっ」


 いよいよその辺りに迫ってきた時、フラフラと引き寄せられていた脚がピタ、と止まった。

 落ちていたのは、バーベキューソース味のポテトチップスのアクリルキーホルダー。ガチャガチャに入っているくらいのサイズだ。

「なんで……?」

 俺の頭の中に、ポテトチップスのアクリルキーホルダーと言えば、あのデブい暴君がバリボリ音を立てながらチップスを噛み砕く姿しか思い浮かばない。


 いじめっ子の一人に、スーパーでポテトチップスの万引きをさせた時、五左衛門がガチャガチャで手に入れたのがこのキーホルダーだ。


 それから、彼は百六十八センチ八十六キロの巨体にはどう考えても不釣り合いな、手のひらサイズの首から下げるポシェットにそれを付けていた。

 外出する時には、基本的にそれを持っていたのだ。

 そのポシェットに付いていたキーホルダーがこんなところに落ちている。

 この家に殴り込んだ時に偶然、落としてしまったのだろうか。

 しかし、殴り込みに来てわざわざ裏口に回る理由は一体何だろうか。


 少しだけ、また少しずつ太陽が差してきた。

 このキーホルダーのアクリルに光が跳ね返り、俺の目を焼き付けるのか……という予想は、光が多くなってもなかなか当たらない。


 代わりに、影が。


 そう、影が、キーホルダーを覆い隠しているのだ。

 蒸れていたニットの中に、新たに汗が染み始めた。


 ブルリ


 全身に、痺れに似た悪寒が走った。


 クッ、クゥッ、クッ、クッ、クッ……


 真上から、人を嘲ける、甲高く、粘っこい笑い声。

 影は、だんだんとこちらに迫ってくる。

 花が、ニチャニチャ嗤いながら、こちらを、覗き込んでくる。


「ウワアアアアアァァァッ、グアアアアアァァァギヤアアアアァァァァァッ!」




「おいおい、どうした、らしくねえぜ? お前まで江崎大河にビビり始めたってのか? ああ?」

 律の挑発的な声が、風のように耳のそばを通り過ぎてゆく。

「一体どんだけ怖えもんがあった? チビるほどにか? 言ってみろよ、何なんだよ。一言二言、言ってみろや」

 電話を切ろうにも、腕がダランと垂れ下がり、背中は椅子の背に全てを預けている状態ではどうにも出来なかった。

「……ちぇっ、話になんねぇ。お前、オレらのハブになりてぇってのか? おお?」

「なんか……嗤ってる花があったぁぁぁ」

 語尾で、唇がブルブルと細かく震えた。

「なんじゃそりゃ。まあいいぜ、今、魁成が江崎大河を尾行してる。奴は誰かと会った帰路についてるみたいだ。もうじき、家に着く。今のところ、それと言ったこともねえらしいが、一つ、妙にウキウキしてるらしい」

「そっか」

「……ったく、マジお前しっかりしろよ、そんなんで、新しい“組長”になるオレの部下が務まるとでも思ってんのか? おお?」

 キツネ顔の傲慢な面構えが、電話の向こうに見えた。

「……まあいいぜ、ちゃんとそのツラ作り直してこ」

 電話が切れた。




 あれから、二時間弱経って、俺は凝り固まった頭で必死に連立方程式を解こうとしていた。

 ブブブブブ、ブブブブブ

「ったくんだよ……」

 ページを捲りかけた、鉄道写真集を机にそっと置いて、俺は代わりに電話を手に取った。

「もしもし?」

「もしもし、ああ、俺」

 肥後組のグループ通話に入り、最初に聞こえてきたのは、はきはきとして耳馴染みの良い、徹矢の声だった。

「おい、なんかえらいことが起こったみてぇだ。よく聞いとけおめえら」

 いつも余裕のあるのに、珍しく律の声が切羽詰まっている。

「どうしたぁ?」

 徹矢が欠伸しながら問うた。


「魁成が意識不明で救急搬送された。江崎大河の家の近くで倒れていたらしい」

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