遠本涼一郎

第一話

「ブワァックション! ブワァーックション!」


 ニコニコと、アイドルの話をしていた女子たちが一斉にそちらを注目し、クシャミの主に見せつけるようにヒソヒソ話を始めた。

 そんな中、教室の中心の席に座る江崎大河えざきたいがは、鼻水をじゅるじゅる啜り、針金のような髪の毛をガリガリと掻く。フラフラと、不潔な雪が髪から地面へ落ちる。彼はそのガサガサした手のまま、面長の顔の四分の一を占める角眼鏡をごしごしと拭いた。


「あいつ、何なんよマジ。いつになりゃまともにシャワー浴びれんだ?」


 机の上にドカッと腰を下ろした、金のツンツンヘアーのキツネ顔、圭田律けいだりつが言った。

「なあリョウ、お前もそう思うよな?」

「え? あ、ああうん、全く」

 唐突に問われ、俺は慌てて作り笑いで取り繕って同調し、満足そうに笑う律を前に後悔を募らせた。

 江崎大河は、出っ歯を剥き出しに、どす黒い右手首の火傷跡を睨んでいる。

魁成かいせい五左衛門ござえもんは本当にあいつにビビって休んだのか? ホントは奴に風邪でもうつされたんじゃねーのか?」

 ここに来て初めて、僕の右隣に伏見ふしみ魁成の気配を感じた。

「まあ、そうならそうでいいけど……いや、まあそれはそれで碌な風邪にかかっちゃいねえか」

 背中をうんと伸ばしながら、さらりと魁成は言った。

「テツ、なんか知らねーの?」

「んー、まあ知らんわ」

 情報屋兼コミュニケーター、高梨徹矢たかなしてつやはそう言いながらも、道路に停車しているスポーツカーに目を注いでいた。


 ピーンポーンパーンポーン


 二年目の担任が仁王立ちしている、その目の前で、皆は友達と話し、ヘラヘラ笑い合いながらロッカーに英語の用意を取りに向かった。




 英語の授業は、辺りを見渡せばほとんどが机に顔を伏せているか、英語の教科書を盾に漫画や小説を読んでいる者ばかりだ。

「なあリョウ」

「ん?」

 後ろの席にいる律が椅子を軽く蹴った。

「五左衛門いないだけでこんな授業の雰囲気大人しくなるもんか?」

「まあ確かに……それだけの影響力はやっぱあるってことなんじゃね?」

「まあ、そうか」

 普段のクラスには、律、魁成、徹矢、俺を取りまとめる“組長”がいる。

肥後ひごがいないだけで随分快適よね」

「全く。荒尾あらお君とかめちゃめちゃ過ごしやすいんじゃない? のんびり本読めて」

「馬鹿は風邪ひかないって言ってたけど、どうなんだろうねー」

 隣の女子たちの会話は俺たちにまでダダ洩れだ。




 自らが気に喰わぬものに徹底して制裁を加える、二年の暴君、肥後五左衛門が、突如学校に来なくなったのは二日前からの話である。

 弱小野球部の四番である彼は、これまで学校を休んだこと無く、取り巻きを引き連れて、金を持ってこさせたり万引きをしたり、おかしな噂を流したり、ターゲットの裸の写真を拡散したりし、従わぬ者には鉄拳制裁を加える毎日を送っていた。

 山奥の中学校において、そんな彼を止められる者は存在せず、紛れも無く彼は二年のトップに君臨するようになっていた。

 そんな彼に異変が起こったのが、五日前ほどだった。




「ちょっと、遠本涼一郎とおもとりょういちろうさん、いいかな?」

 授業が終わり、給食の配膳が始まりそうになったところで、背中に声を掛けられた。

 生徒のことをフルネームで呼ぶ教師は、知るところあの人しかいない。

「はい?」

 振り向くと案の定、担任、北井悟きたいさとるが、許しを請う万引き犯のような目をして立っていた。

「ごめんね、ちょっとだけ訊きたいんだけど、肥後さんがなんで来てないのか、知ってたりする?」

「いや、知らないです」

 髪の毛一本一本に、律らの眼差しを感じていたため、俺はそれだけ言って立ち去ろうとした。

「あ、ちょっと、もう一つだけ、お願い、お願いします」

 北井は、気体のように尻すぼみな声で俺の手を握った。

「なんすか?」

 焦りから、つい声が大きくなる。


「遠本涼一郎さんって、江崎大河さんと家、近いよね?」


 握る手を振り払おうとした腕が、スイッチが切れたみたいに止まった。

「え、それが一体?」

「いや、彼、早退してしまったんだけど、荷物を置いて行っちゃったから、届けてもらえるかな、って思って……」

 叱られて言い訳をする幼児のような口振りだ。どちらが教師の立場なのかも分からない。

 瞬時に頭の中で損得の天秤が動く。

「まあ、良いすよ、別に。下校の時にもっかい言ってください」

「本当に? ありがとう、めちゃめちゃ助かる」

「てかあいつ早退したんすか?」

「そう、英語終わってすぐに帰っちゃった。そんなにしんどそうじゃ……」

「おいリョウ、早く来いって!」

 キンキンと鼓膜に刺さる声が聞こえたので、俺は北井の手から自分の手をスルリと抜き、律のところへ向かった。


「なあリョウ、北井と何の話してた?」

 律の尖った爪が、俺の首を刺した。

「江崎大河が早退したから、荷物を送れって」

「で、受けたのか?」

 ツンツンヘアーの先端が額に刺激を与える。

「え、ま、まあ……」

 しばらくギロリと睨んでいた律は、フッ、と笑って言った。


「お前マジ最高。いいぜ、有能だ。どーせなら、江崎大河の家に潜り込めよ」


「……え?」

「で、出来んなら江崎大河に、五左衛門に何をしたのか尋問しろ。まあ、五左衛門が二度と帰ってこねぇなら、それはそれでオレには上々だけどよ、一応今は“組長サマ”だからな?」

「何をしたって尋問して何も無かったら?」

 律の細い目が鷲のかぎ爪のように鋭くなった。

「うっせえ!」

 二年の学年フロアが、一瞬にして凍結した。


「んなわけねーだろ、何も吐かねーならPCR検査でも何でもやってこい! そんでアルコール消毒液でもぶっかけてやれば十分世のため俺のためだろうが!」


 俺は顎下の筋肉を固まらせて、首がもげるほどの勢いで頷いていた。

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