少女等

山口夏人(やまぐちなつひと)

第1話 美容院に行かなくちゃ

 布団の中は温かい。どうしてこれほど人間が暮らすのに理想的な環境なのか、そのテーマで一本論文が書けそうな気がする。書くならば、理想というものには依存性があることを論文の中でとくに強調しなくてはいけない。なぜかというと、自分がまさしく布団のその理想的な環境に依存し、抜けだせなくなっているからだ。

 時刻は刻一刻と自分のアルバイトの入りに向かっている。自分は一歩たりとも向かっていないというのに。時間なる概念と、自分とは全く相理解し合えるものではないらしい。

 どうして人間はこうも縛られることを強要されるのだろう。時間もそうだが、自分の上に覆いかぶさり動こうとしない布団もだ。自分は現在、布団に拘束されている。これは立派な監禁罪にあたるのではないか。まことに憤慨だ。自分は自分の人権を主張するっ。と言っても、だれがその主張を汲み取ってくれるというのか。自分の責任を取ってくれるのは自分以外ないことは、大人になって最初に覚えたことだ。

 自分は仕方なく、暖かな布団から這うようにして滑り出た。寝るときに次の日の活動着を着てしまうので、着替える必要はなかったが、歯磨きに洗顔に、朝食も作らなければいけない。文明に生きる人間であるからには、朝からすることがたくさんだ。

 部屋に洗面台は付いていないので、歯を磨くのも顔を洗うのもキッチンのシンクだ。設置している手の平サイズの鏡を覗き込み、昨日とそれ以前とも変わらない、きっとこれからも大して変化はしないであろうと思われる、いまいち好かない自分の顔面の造りを見つめた。右目が左目よりも高い位置にあり、全体的に釣り合いが悪い。仔細に眺めれば眺めるほど、やはり好かない顔だという気持ちが強まった。

 歯を磨き顔を洗い、身支度を済ませたあと、ご飯を食べるかどうか悩みに悩み、悩んでいるうち、家を出ると決めている時刻が目前まで迫ってしまった。時間が迫らなければ、どうせ食べないという選択を選んだろうに、強制的に食べられないとなると、空腹で空っぽな胃袋に沸々と怒りが湧いた。怒りで腹が膨れてくれればいいのにと思った。

 玄関には、きのう買い替えたばかりのスニーカーが置いてあった。履こうとすると、つま先のほうに緩衝材が入ったままで、足先が弾き返された。乱暴に抜き取り、古いスニーカーの紐が、崖に必死に掴まっている人間の手のように垂れたゴミ箱へと、必要以上の力で投げ捨てた。緩衝材はゴミ箱の縁へ当たって床に転がった。

 靴はなかなか自分の足を受け入れてくれず、格闘してるうち、自分は派手に尻もちをついてしまった。この状況を一言で言い表すなら、ツイてない、これに尽きるな。そんなことを考えて、玄関の天井を無意味に見つめた。

 インターホンが鳴った。また手間取られるのかと絶望し、無視を決め込む戦法を全細胞に伝達しようとしたそのとき、「大丈夫ですかー。隣の市川ですけど」、聞き慣れた女性の声がした。

 声の主は、主自身も言ったが、普段親切にしてくれている、最近では珍しいお隣さんという関係にあたる市川さんだった。

 市川さんが訪ねてくるときの理由はこれまでの経験からおおよそ二択に絞られる。おかずやお菓子の支給か、電球の取り換えなどの手伝いの要請だ。お裾分けなら時間はあまりとられないが、後者であった場合、自分は隣人さんのお願いを断らなければいけない。

 扉の覗き穴から市川さんの姿を確認した。そこには、いつもと同じようにけばけばしい色彩を湛えた服装の市川さんが立っていた。しかし、扉の前に居るのは市川さんだけではなかった。市川さんを奥にして、手前方に見知らぬ少女二人、どちらも目に刺さる鮮烈な赤のワンピースを着た、が見えた。

 市川夫婦の子供は自分より年上のはずだったが、はて。お孫さんだろうか。いや、結婚していたのだったら、市川さんはそれに関する何かしらの愚痴を自分に賜ったはずだ。誰の子供だろう。とにもかくにも、自分は扉を開けるほかなかった。

 「いま開けます」

 扉をゆっくり開けると、扉の輪郭から少女等の赤いワンピースの裾が現れ、微かな風に揺れた。見ると、少女二人の視線がいやに高い。足元を見ると地に足が付いていなかった。身長に見合わない椅子に座った子供のように、足をぶらぶら放っているようだ。座っているのは、下方に作られた市川さんの腕のアーチらしい。

 「おはようございます、市川さん。それ、大丈夫なんですか」

 「何がよ。大丈夫か聞きたいのはこっち。さっき大きな音がしたけど、怪我してないの」

 「それは、玄関でしりもちをついたもんで。心配で声をおかけになったんですか」

 「いや違うの。これなんだけどね」

 そう言って市川さんは腕を突き出した。少女たちのワンピースの裾が自分の腕に触れた。

 「女の子、ですか」

 「なに言ってんのよ。これイチゴ。旦那が知り合いから貰ったんだけど、とっても美味しいの。美味しいが過ぎちゃったからもう二粒しかないけど、どうしてもこの美味しさをだれかと共有したくて。あなたにあげるわ」

 イチゴ、確かに市川さんはそう言った。話の流れからしてもイチゴの話をしていることは確実だったが、自分の目には、そのイチゴとやらは無く、イチゴみたいに赤いワンピースを着た少女二人しか見当たらなかった。

 「イチゴ、ですか」

 「これよ、ほら、手出して」

 自分は市川さんに言われるがまま、手を前に差し出した。すると、市川さんの腕のアーチに腰かけていた少女二人が、自分の腕に手を伸ばして掴んだかと思うと、そのまま地面を介さず、差し出した手の平に直接移動してきた。少女たちを落としてしまうと危惧して、二人を地面に下ろそうとしたのだが、それより早く少女等は体重を移動させた。少女等は驚くほど軽かった。それはこれまで生きてきて、様々な物を持ってきた自分には、丁度イチゴ二粒分に感じられた。

 「食べたら感想聞かせて頂戴よ。じゃあこれで。私この後、美容院に行かなくちゃならないの」

 そう言い切るか否かで市川さんはもうすでに階段の方へと身体を翻していた。少女等の体温は冷たかった。

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