おっぱいが世界を包み込む話

ノート

嫌われ舞の一生

 少女は星空のもと目を覚ました。


 眼前の真っ白な満月が少女の目の奥にツンと冷たい錯覚を起こす。


 果たして自分はいつからここで寝ていたのだろう。


 未だぼんやりする意識の中、素肌に星の光を感じながら、彼女は記憶の海に潜った。


*  *  *


 少女が生まれたのは14年前。岡山の名士である五反田家の長女として、舞という名前を与えられた。


 舞の最初の記憶は、赤ん坊だったころにまでさかのぼる。


 およそあり得ないことだが、舞は生後2か月からの記憶を持っていた。


 そんな彼女の最古の記憶──網膜に焼き付いて離れない光景は、実の両親の閨である。


 比較的夜泣きの少ない赤ん坊だったからだろうか。舞の両親はある晩、ベビーベッドで彼女が寝ているというのにその隣でセックスを始めたのだ。


 とはいえ、純粋無垢な赤ん坊だった舞はそんな行為の名前も意味も知るはずなく、祖母から性教育を受けるまでその光景は恐怖の記憶として残り続けた。


 およそ人とは思えない荒い息、その時々に漏れる呪文めいた睦言。


 上気し真っ赤になった肢体を、大きさも質も違う人間たちが絡ませ悶えている。あどけない童顔に笑みを浮かべて甘い言葉を吐くのは、舞の母だろう。皴1つ弛み1つないグラマラスな肉体を煽情的に揺らしている。一方、舞の父は、逞しい日焼けした腕とだらしなく色情に歪んだ顔で、自らの妻を全身丁寧に愛撫した。


 その様は虫か獣か判別つかぬ様態で、どことも知れずぐちぐちと耳障りな音を出した。


 二胴八足が蠢いていると考えるなら、恐らく虫よりかもしれない。


 この虫は時折分離しては再び1つになり、よくよく見れば互いの身体を上に下にと移動させ、ちょうどいい位置を探しているようにも見えた。


 ちょうどいい位置というのは即ち、少女がついこの前までいた寝床を歪ませるのに良い位置という意味だ。


 やがて舞の目は、両親の目に吸い寄せられた。


 そして舞は赤子特有の純粋無垢な感受性で、両親が互いを見つめる、その目の奥にある感情を理解した。


 それは父が抱き上げた笑顔や、母が母乳をやったりするときに向ける視線に込められたものと同じだった。


 舞は涙を流した。


 だが行為が一通り終わるまでは声1つ上げずひたすらじっとしていた。


 やがて父が奇妙な行動を取り始めた。母の胸元から垂れる、舞にとっては食料供給源である肉の塊をこねくり始めたのだ。


 ろくろの如く押しつぶされ持ち上げられ、また潰され広げられ挟まれ、摘ままれ弾かれ舐められ吸われ、揉みしだかれる……。


 そんな父の手の動きに合わせ、母は熱い息を吐いた。


 父にとっては無用の長物なのに、一体何をしているのだろうか。


 何も知らぬ舞は疑問に思った。


 だが母は、そんな風に自分の身体を弄ぶ父の頭を優しくなでてやっている。


 ふいに、母の目線が舞に向いた。


 「…………」


 喜悦の浮かぶその目に光はない。底なしの泥のような瞳孔が、舞を映していた。


*  *  *


「女たるもの、思いは秘めるもん。下品に歯を見せて笑うたり、怒って暴れりゃおえんぞ。」


 それが舞の祖母の口癖だった。


 両親は舞の育児についてはまるで興味も意欲も出さず、その役目はもっぱら祖母のものだった。


 とは言え仕方のない事だろうと、舞は心のどこかで納得していた。五反田家は江戸から続く豪農の血筋である。戦後の農地改革により昭和の中頃まで多少落ちぶれてはいたものの、当時の当主が始めた不動産事業が見事成功。現在ではビジネスホテルチェーンやマンションの開発・運営を始めとした、日本有数の不動産デベロッパーとなった。舞の父はそんな五反田グループの若きトップ、母に至ってはその役員の1人を務めている。


 当然ながら育児に割く時間などない。


 ただ祖母の場合、年頃の子供のように遊んでくれたりはしなかった。


 現代においても地元の名士と名高いこの家を背負って立てるような淑女に教育する。厳格かつ冷徹な祖母は、そんなことを言って幼い舞に数々の習い事をさせた。


 華道、茶道、日本舞踊のような芸道。

 炊事洗濯裁縫などの家事。

 その他多種多様な作法や教養。


 祖母自ら行う指導は、苛烈を極めた。


 まず過密なタイムスケジュール。朝5時に起きてから22時に就寝するまで、祖母からの指導・教育は食事中や入浴中でさえも休むことなく行われた。


 だが舞の精神を疲弊させたのは、祖母直々の折檻であった。彼女は自分の孫が何か1つでも「ミス」を犯せば容赦なく罵声と鞭を飛ばした。


 鞭というのは隠語や比喩表現ではない。舞の祖母は、いつも竹鞭を黒留袖の帯に差していた。そして舞の服を下着もすべて脱がした上で、小さな背中めがけて本来乗馬用のそれ容赦なく、真っ赤になるまで振るうのだ。


 例えばこんなことがあった。


 舞の七五三用の着物を仕立てるからと、祖母がわざわざ仕立て屋を呼んだ時の事だ。仕立て屋の店員が採寸のために舞の胴にメジャーを回すとき、その指が舞の脇腹をまさぐったことがあった。舞は思わずくすぐったくて笑ってしまったのだが、それを運悪く通りかかった祖母に見られてしまったのだ。


 祖母はいつも、舞のことを猛禽のような目で見ていた。


 「笑うな言うたじゃろう」


 さっと顔を青くした舞につかつかと歩み寄った祖母は、仕立て屋が止めるのも聞かず舞を畳みに四つん這いにした。


 そして帯から脇差のようにスラリと竹鞭を抜くと、来客の前にも関わらず舞の背中を一心不乱に打った。


「笑うな言うたじゃろう、笑うな言うたじゃろうが!笑うな、泣くな、目ぇ動かすな口ぃ開けるな!見苦しい見苦しい見苦しい!!」


 祖母は、舞が笑ったり、泣いたり、怒ったり、感情を表に出すような行動の全てを「ミス」の1つとして数えた。


 そのため、舞はいくら悲しかろうと悔しかろうと、泣くことさえ許されず、自然と笑い方も泣き方も忘れてしまった。そうして小学校に上がる前にはもう、舞の鉄面皮は完成してしまったのである。


*  *  *


 それは華道の稽古中の事だった。


「お前の祖父の芳三が、お前の生まれる前に1つ予言をしたことがあるんじゃ」

ふと祖母がそんな話を始めた。


 舞は3時間ほど正座を続けていたせいで足の感覚がすっかりなくなっていたが、少しでも足を崩したり身じろぎしたりすれば、容赦なく祖母の鞭が抜かれる。


 むしろ祖母の話に集中したほうが足の痺れを忘れられるだろう。そう思って舞は大人しく話を聞くことにした。


「舞よ、婿入り言うんは分かるか?……ええ。

 わしの父さんと母さんは子ができにくい身体だったんじゃ。特に母さんはわしを産んだらポックリ死んでしもうたけえ、父さんはわしに五反田の家を継がせて、とにかく婿を取ってぼっけえ子を産めぇ言うたんじゃ。……まあ、結局できたのはお前の父さんだけじゃけどな。

 それで、私の旦那はお前の父親……春雄の父の大助と、大助が死んでから私のところに婿入りに来た芳三の2人がおってな。春雄は元々私の幼馴染でな、器量はええし頭も良かった。

 しゃあけど、芳三はなあ……カスや。器量も頭も悪い、仕事も家の事も何もできないぼんくらじゃ。

 ん、なんでそんなぼんくらを婿に取ったって?そりゃお前、私の息子が春雄しかおらんかったのもあるがな……芳三は、特別だったんや。

 芳三は、千里眼を持っとったんじゃ。三船千鶴子みたいな透視じゃのうて、あの男は未来が見えたんじゃ。どんな人間にも一つくらいは長所があるんじゃろうなあ」


 そういうと、祖母は遠くを見るように目を細めた。心なしか口調も穏やかになり、これが祖母の素なんだろうか、と舞は興味深げに息を吐いた。


「芳三の千里眼は伊達じゃあなかった。バブル崩壊にリーマン・ショック、あらゆる災害から政局の変化……五反田家に仇なす凶事の全部を見て、警告したんじゃ。おかげでわしら五反田家は、田舎の名士程度じゃのうて、日本一のホテルチェーンでおり続けることができたんじゃ。まさに火炎太鼓の芳三様様じゃのう。

 ああ、芳三の家じゃあな、背中に炎に巻かれた太鼓みたいな真っ赤な痣を持つ子が生まれるんじゃと。そんな痣を持つ子は特別な力を持つそうなんじゃ。

 ともあれあいつが倒れて死んじまう三日前、言ったんじゃ。「胎の中の子は、いずれ世界を抱く女になるだろう」言うてな」


 祖母はそこまで言うと、途端に目の端を釣り上げていつもの猛禽のような目になった。


「しょぼくれた小さな目に、大きな鼻に膨れた顔面……こないな小面みたいな顔の女が世界を抱くなんぞ」


 その言葉は、舞の感情を押し殺した目をまっすぐ見つめて吐き捨てられた。


「オトンによう似た、不細工なツラじゃのう。お前は」


*  *  *


 舞の地獄のような日々は、そう長く続かなかった。


 舞が小学校に入ってしばらくしたころ、祖母は急性の病で他界したのだ。


「遺言がある……お父さんと、お母さんを呼んでおくれ」


 流石に余命わずかの祖母は穏やかなものだった。


 舞は両親を祖母の部屋に行くよう呼びつけると、祖母の死亡が確認されるまで便所に籠って過ごした。


 祖母の遺言など、どうでも良かったのだ。


 叱責と体罰の記憶しかなかった舞は、祖母が死に特に思うことはなかった。


 だが祖母の口癖だけは彼女の中に呪いのように残り続けた。


 舞は笑うことも泣くこともなく、能面の小面のような表情を貼り付け、教室の片隅でひっそりと独り寂しく過ごす子供になり果てた。


 そんな祖母の葬式が終わり1週間ほどした晩の事、ある事件が起こった。


 舞はドアが開く音で目が覚めた。


 幼いころから眠りの浅い舞は、祖母の指導もあってか少しの物音ですぐに目を覚ます癖がついていた。


 暗闇の中瞼を薄く開けると、ベッド脇に男の影があった。


 父だ。


 彼はベッドサイドの照明をつけ、


「まだ寝ているよな」


 そういうと、ぬうっと片手を舞の口もとに持ってきた。


「許せよ、舞」


 父はそう言って口を抑え、空いたもう片方の手で舞のパジャマを剥がした。


「…………!」

「ちょっとだけだ、ちょっとだけだからな」


 声の出せない少女の顔に、酒臭い息がかかった。


 襲われる、犯される、実の父親に!

 

 驚愕、怒り、恐怖。舞の頭の中をすさまじい感情と衝動の奔流が支配した。


 だがそれが表情や行動に出ることは無かった。


 祖母の教育の甲斐もあり、舞は感情の出し方はおろか、実の父に無理やりに服を剥がされることに抵抗する事すら出来なくなってしまっていたのだ。


 父は片手で苦労しながら、されるがままの舞のシャツを無理やり脱がした。


「…………ぁあ」


 気力を失くした声だった。


 父はふらりと立ち上がると、照明は点けっぱなしに、脱がしたパジャマとシャツを舞に無造作に投げつけ部屋から出て行った。


 その晩、舞は眠ることが出来なかった。


 父の異様な行動への恐怖もそうだが、もし朝になって父とばったり出くわしたらどんな会話をしたらいいか分からなかったからだ。


 だが結局そんな心配は杞憂に終わった。


 翌朝、舞はリビングで父の首吊り死体を発見した。


 頸部圧迫のせいか、顔は蒼白に染まり行き場のない血液が出口を求め顔面に血管を浮かばせていた。肛門の筋肉が緩んだのだろう、ズボンの尻に糞が溜まり悪臭を放っている。


 45歳の若さで日本有数のホテルグループの采配を握るエネルギッシュな社長。精悍なルックスを維持する秘訣は週1の妻とのテニス……そんな風に経済紙で紹介されたこともあったようだが、今や見る影も無い。


 軽く触れると、父は振り子のようにギシギシと揺れた。


「…………」


 いつものように深く息を吸い、3秒止め、ゆっくり吐く。


 そうして心に蓋をするため。


 呼吸に乱れはなかった。


 そうして父の死に顔を何秒か見つめて、舞は母を起こしに寝室へ向かった。


 母は特段感慨もなく救急車を呼び、死亡を確認し、葬式の段取りを組んだ。また自殺を予見し根回しをしていたのだろうか。数日後、舞の母が五反田グループのトップ就いた。そうして1週間も経たぬうちに、舞の家は2人の死亡者を出し、代わりに新たな経営者を産んだのだった。


*  *  *


 舞に転機が訪れたのは、小学4年生の頃だ。


 第二次性徴期を迎えるとともに舞は女性らしい容姿を手に入れた。


 特に身体は母譲りの発育を発揮し、背はすらりと伸び、何より胸が大きくなった。


 5年生の終わりごろの時点でCカップ、翌年にはEカップにまで成長した。


 舞自身の顔がそこまで美形でも可愛くもなく、いつも能面のような無表情でいたのも相まって、年齢に似合わず生育した身体は男からの邪な視線も集めるようになった。


 だが皮肉にも、物心ついてから祖母に指導された会話術や礼儀作法がここで功を奏した。舞は小学生の間、クラスメイトからいじめられもせず、教師から猥褻な嫌がらせを受けたりもせず、平穏無事に小学生活を送ることに成功した。


 身体が成長するにつれて周りから注目されるようになった舞は、それに愉悦を覚え……それだけでなくもっと多くの視線を集めたいとまで思うようになった。


 母は、人の目が顔面についているのは目の前の愛する人を見つめるためだと言っていた。ならば、ヒトの乳房が体の前面についているのは、より多くの人の視線を集め、愛されるためだと言えるのでは?


 幼いころから共働きの両親とはたまにしか会えず、祖母に虐待され続けた少女の渇愛欲求が花開いた。


 しかしその欲求を解放することは許されない。


 欲求が疼くたび、祖母の言葉が脳裏によみがえった。「淑女たるもの思いは秘めるもの」


 秘めねばならない。


 その反動か妄想は加速した。


 例えば昼休みサッカーをしているとき、男子の前で胸トラップをして見せたらどんな顔をするだろう。


 例えば授業中、教師の前で落ちた消しゴムを拾い谷間を見せたらどんな態度をとるだろう。


 時も場所も選ばず、少女はただ欲求自体は決して態度にも口にも出すことはなく胸に秘めた。そして欲求が強くなる度、バストは1cm、また1cmと大きくなっていった。


 卒業するころには、舞の胸はFカップを超えていた。


*  *  *


 そして舞は中学生になった。


 流石にこの頃になると、舞は幾分か乙女としての恥じらいを覚え、また自分の身体の付き合い方も学んできた。


 欲望を抑え込めば抑え込むほど、舞の胸は増え肥える。つまりは何事にも動じぬ心の強さを持てばいいのだ。


 だがすぐに安易な考えだったことを思い知らされた。


 変化する環境、自分の身体への不満、将来への不安。舞はこの世界全てが自分を追い詰め……彼女の胸を大きくするためにあるのではないかなど、突拍子もない妄想を抱くまでになった。


 小学生の頃はささやかな自慢だった巨乳は、すっかりコンプレックスの象徴と化した。


 だがそんな彼女に日常を取り戻したのは、奇しくも新たな刺激に他ならなかった。


 初恋である。


 中学2年の担任教師は岡田という、初任の、若い男性教師だった。


 初めてのHR、舞に雷に打たれたかのような衝撃が走った。


 紛れもない一目惚れだった。


 やや線が細いながら知性を感じさせる顔立ち、紳士然とした柔らかな物腰。少し押しに弱そうな態度だったのも舞にはプラスポイントだった。たかが顔惚れながら、夢中になるには十分だった。


 その日から、岡田は舞にとっての全てになった。


 HR中や授業の際は教壇に立つ岡田の姿をノートに描き、家では余り紙に「岡田舞」と繰り返し書いては結婚生活に思いを馳せた。授業の終わる度、岡田を探して学校中走り回った。


 舞は時間さえあれば、岡田に話しかけた。岡田の出身大学、現在の住まい、私生活のアレコレ、家族構成……そんなとりとめもない事を聞いては手帳に書き留めた。そしてそのたび、舞は中学二年生にしては少々発育しすぎている胸元に視線を誘うよう、制服のボタンを2,3外した。


 小学生の時開花した渇愛欲求は、すべて岡田の気を引くためにあった。


 だが、たかが中学生の誘惑に一体何の魅力があるだろうか。


 岡田は舞から話しかけられるたび、気の無い返事をするか、乙女にあるまじき行動云々と説教を垂れた。


 とはいえ岡田のストライクゾーンに女子中学生という属性が入っていたところで、舞に手を出されることは万が一にも無かったろう。彼女の能面のような無表情は中学生になってから磨きがかかり、煽情的な行動と相まって非人間的な恐怖の演出をしていたのだから。


 とはいえ、岡田から気のない対応をされるごとに、舞の中で思いは募り、そのたび胸はますます大きくなっていった。


*  *  *


 バストサイズがPカップを超えた頃、舞は拘束具のようなブラジャーとコルセットを嵌めて生活するようになった。彼女の体幹や筋力が、その巨乳を支えきれなくなったからだ。


 流石にそのごろになると、介護が必要と判断したのだろう……岡田が登下校に車を出してくれるようになった。


 本当は家で運転手を雇うという話もあったのだが、舞の必死の説得で岡田に登下校の面倒を見てもらうということで学校との話し合いは決着した。


 岡田にとっては仕事が増えるばかりで迷惑極まりない裁定だったが、舞にとっては岡田との登下校は、夢のような時間だった。


 舞が中学三年に上がったころ、三者面談のために母が仕事を休んで学校に来ることになった。


 本人は舞がもうすぐ受験期だからなどと言っていたが、本当は舞の初恋の相手を一目見たかったからだろう。母との月一の会食で、学校のことなど話すんじゃなかったと舞は後悔した。


 さらに学校にやってきた舞の母は、まるで繁華街の夜の蝶のようなドレスを着て現れたものだから、舞は内心開いた口が塞がらなかった。身体にぴったりと吸い付くようなシルエットで衰え知らずな母のプロポーションは惜しげもなくさらされている。大きく開いた胸元は、男の目という虫を引き付ける誘蛾灯のように煌いていた。


 だが舞が一番辟易したのは、母の顔だった。40を過ぎてなお皴1つない、20代と言っても通用するその顔には、発情した女の笑みがあった。父が死んでからというもの、男遊びが激しくなったことは知っていたが、娘の初恋の相手まで狙うのか。


 最悪なことに、三者面談は大盛り上がりだった。主に母と岡田のおしゃべりで。ふと、岡田が自分の母に熱い視線を送っているのに舞は気づいた。


 にこやかで華やかな、妙齢の女性。均整の取れた、グラマラスな肢体。能面もどきの中学生には、到底太刀打ちできない相手だった。


 その日は岡田を待たず、舞は1人で下校した。


 久しぶりの1人きりの下校は、舞の胸に刺すような痛みだけを残した。


 その晩、バストサイズは一気にRカップにまで成長した。


*  *  *


 それからしばらく経った日の事。


 会食をするから学校まで迎えに行くと連絡を受け、舞は校門前で母が来るのを待っていた。舞は内心イライラしていた。いつもは時間に厳しいはずの母が、今日は10分も遅刻している。


 流石に電話でもして確認しよう。


 電話はすぐに繋がった。


「……んちゅ、じゅる……」


 粘液質な水音。厭らしくも痴情的な吐息。


 舞は、サッと顔を青くして校内に戻った。


 最悪の事態が起きている。舞は確信した。


 やがて舞は、体育館倉庫までやってきた。いつも体育館の陰に隠れ、敷地の中でも目立たない位置にあるこの小屋は、中学生同士の不純異性交遊の場によくなっていた。


 ドアの隙間がわずかに開いている。舞は足音を殺して倉庫に近づき、中を覗いた。


 埃とカビの混じった空気、およそ整理されていない雑多な体育用具たちに囲まれ、


 母と岡田が接吻していた。


 腕は互いの首と背に巻かれ、髪は乱れ、汗を一筋二筋とこめかみ辺りから垂らしながら、舌を絡めていた。


 予想はしていた。


 あの三者面談の日から、母の帰りは普段以上に遅くなった。

 岡田は登下校時に車を出してくれなくなった。

 母のスマホの不在着信に岡田の名前があった。

 岡田の身体から時々、母の香水の香りがした。


 疑惑はいくつもあった。


 そのたび、舞は心の中で力無き反証を繰り返し、だとしてもという言葉を胸の内に秘めていた。


 だが時は来てしまった。答えは出てしまった。


「う…………」


 舞は膝を折った。


 グラグラと揺れる視界の中、ハンカチを口元に当て、せり上がる胃液を必死に押しとどめる。


 初恋の男と自分の母親が不倫をした。


 岡田を初めて見た時以上の衝撃が体の中を走った。


 だが舞は、自分の身に起きた不幸を泣くことなどできなかった。バカバカしいと笑うことも。どちらも死んだ祖母の口癖に反してしまう。


 表に出せぬ感情は胸に秘めるしかない。


 舞は胃液を口の端から垂らしつつ、それでも能面のような無表情を貫いた。


だが、


「先生……」ドアの隙間から、ナメクジの如く身を一つにする2人を見て、思わずつぶやきが漏れた。「先生……!」


 その声が聞こえたのか、岡田の頭越しに母の視線が舞のいる方向に向いた。


 その目は煽情的に、喜悦に歪んでいた。


 フラッシュバックするのは赤子の頃の記憶。ベビーベッドの隣で盛り合う両親。


 ああそうだ、舞は気づいてしまった。


 母は……この女は、見られて興奮しているんだ。愛娘に、愛娘の初恋の相手とキスしている場面を、見せつけて興奮しているのだ。そのために、あんな電話まで。なにが会食だ。


「お、母さん……ダメだよ……」


 舞はこらえきれず、ドアを開けた。震える声だった。


 母はクスクス笑いながら岡田から離れ、遅れて今さっき気づいたかのように「ご、五反田……?」と男性教師は間抜けな声を上げた。


「ダメって、何が?」

「だって、先生のことは、私が先に好きになったんだよ……?」


 ギチギチと、音がする。


「後から好きになったくせに、それを横から盗むなんて、ひどいよ」

「はあ、何言ってるの」


 母は心底呆れた顔で言った。


「あんたが誰を好きになったってアンタの勝手だけどさあ。好きになられた側にも都合ってヤツがあるでしょ。それに……」


 母は岡田の首に腕を絡めた。


「この人、アンタの事ずうっと気味が悪いと思ってたみたいよ。対して可愛くもない癖に、能面みたいな表情で、牛どころかシロアリの腹みたいな乳ぶら下げて、いつもいつも先生先生……。可哀想にねえ、ホテルで聞かされる愚痴は、アンタの事ばかりだったわ」


 母の言葉に、舞は自分の顔からすうっと血の気が引くのが感じられた。


 油の差されていない絡繰りの如くゆっくりと首を担任教師に向け、


「本当……?」


 返答は無かった。岡田は顔を伏せ、目をそらした。


 十分だった。


 途端、舞の中で今まで感じたことが無いほどの感情の奔流が起こった。


 それは担任教師への失望で、それを塗りつぶすほどの未練で、初恋を奪った母への嫌悪で、届かぬ夢に手を伸ばした自分への怒りで。


 舞はもう、限界を迎えようとしていた。


*  *  *


 ぎちぎちと弾けそうな胸を抑えて、少女は震える。


 その尋常でない様子を見て、流石に不味いと思ったのか、岡田が声をかけようとした。


 だがそれより先に、舞は「先生……」とかすれるような声を出した。


「あ、ああ。すまんな五反田。お母さんとの件は、きちんとお前にも話そうと思っていたんだ」

「…………」

「お前の気持ちは嬉しいんだが、その、俺は教師だし、何より五反田。お前はまだ中学生だろう?まだ未来が──」

「先生」


 月並みな言い訳を打ち切って、舞は初恋の男の目を正面から見据えた。


「大好き」


 少女にとって、それは初めての経験だった。


 バチン、と音がした。


 それは制服のボタンが飛んだ音かもしれないし、ブラホックが外れた音かもしれないし、舞のクーパー靭帯が切れた音かもしれないし、堪忍袋の緒が切れた音かもしれない。


 ただその音が錯覚であれ本当の音であれ、その瞬間確実に舞の中のある種の堤防が決壊した。生まれてから今まで一度も吐き出すことの出来なかった思いが、欲求が、ついに吐き出される時が来た。告白の喜びと、失恋の哀しみと、母の不貞への憎悪と、自らの生まれへの嫌悪を乗せて。


 その成長はとどまることを知らなかった。


 舞のトップ-アンダー差はものの10秒ほどで200cmを超えた。


 乳輪は座布団程の面積にまで広がり、乳首のサイズに至っては少女の顔面を超えていた。


「おい五反田、なんだよそれ……」


 岡田は震える声で問いかける。


 母はその場からすぐに逃げ出そうとしたが、しかし舞の乳房によって出入口は塞がれていた。


 既に乳房の重みで立っていられなくなった舞は膝を突き、不倫者どもに笑いかけた。歯を見せて、靨を深くし、下品に。


 猛禽のような獰猛な目で。


「おっぱい」


 成長は加速度的だった。


 とどまることを知ることなく大きくなった乳房は、すぐに初恋の相手と自らの母を飲み込み、体育館倉庫を内側から破壊した。


 その5分後には、乳房は中学校の敷地全てを包むほどの大きさになった。何人もの生徒・教師が乳房の奔流に飲み込まれた。飲み込まれた人間たちや倒壊した建物は乳房に吸収され、その養分となり果てた。


 舞は自分の乳房が世界を包んでいく様を見守った。


 その爆発的な成長は、ビルを崩し、岩を砕き、山を割り、谷に蓋をし、海を越え、砂漠を平にし、溶岩を鎮火し、人を飲み込んだ。


 いくつもの国が舞の乳房に軍事攻撃を加えた。だが乳房は爆破の衝撃を完全に吸収し、全ての兵器は少女の柔肌にやけど1つつけることが出来なかった。そもそも迫りくる真っ白な脂肪の塊を相手に戦う方法など、どの軍事組織も持ち合わせていなかった。


 やがてある国が、乳房でなく本体の舞めがけて弾道ミサイルを撃った。しかし舞の乳房はこれも撃退、音速を超えた母乳の掃射により、全てのミサイルを迎撃した。


 舞は世界の破壊者と化していた。


 そうしてある者は胸で十字を切り、ある者は両の手を合わせ、世界の唐突な終わりを受け入れた。


*  *  *


 そして現在、舞は愛した人を世界ごと胸に抱いている。


 とはいえ乳房はすべて背中側に流しているため、胸に抱くというより背負っているような構図になっていた。


 舞はどこまでも続く肌平線と、それに沿って広がる夜空を見上げながら、ふとあの夜のことを思い出した。


 父に襲われたあの晩。


 舞はようやく彼の真意に思い至った。


 父は舞を犯そうと寝間着を脱がせたのではない。背中を確認するために脱がせたのだ。


 舞の背中に、火炎太鼓の赤い痣があるかどうかを。


 恐らく母と義父の関係の暴露が、祖母の遺言だったのだろう。


 そう考えると、祖母が舞の背中を真っ赤になるまで打っていたのも、彼女なりに痣を目立たないようにしようとしたのかもしれない。


 舞は自らの心臓に手を当てた。


 自分の義父と寝て、娘の初恋の相手とも寝た女。その汚らしい血が自分にも継がれている。千里眼を持つ奇矯な男の血も。


 もしかすると、世界を舞1人にしたこの力も、火炎太鼓の血筋のなせる業なのだろうか。


 だが、もうどうだっていい。


 少女は、星空に歯を見せて笑った。


 この星はもう、私のものだ。そう、勝ち誇るように。


 舞は再び眠りについた。


 その後、二度と目を覚ますことなく、後には肉に覆われた星だけが残ったのだった。


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