リア
八雲景一
リア
熊田幹男は、中小企業のソフトウェア開発会社に勤務するプログラマーである。彼の主な仕事は、営業が受注したシステムの仕様要求に基づいて開発を行うことだ。コードを書くことに没頭できる時間が、彼にとっては至福の時だった。
もともと内向的な性格で、会社内では浮いた存在だったが、入社して三年が経ち、ようやく他の社員と会話できるようになった。しかし、仕事以外の話題となると、ぎこちなさが残っている。女性との交際経験はなく、そのままの30年間の人生を歩んできたが、開発者としての能力は高く評価されていた。
家に帰ると、ご飯を食べ、シャワーを浴びてから、必ずノートパソコンの電源を入れるのが日課だ。電源を入れると女性の顔が表示されるが、ただの壁紙ではない。まるで生きているかのようにふるまうのである。キーボードから文字を入力すると、それに答えるように話してくれる仕組みになっている。
最初は、仕事で発生する問題を解決するために、既存の生成AIサービスを利用していた。文字で会話を重ねているうちに、誰かと話しているような不思議な感覚に囚われた。そこで思いついたのが、幹男が一年をかけて独自に作り上げた現在のシステムだった。
幹男は、理想の女性の姿を画像生成AIで作り上げた。何度も試行錯誤を重ね、ようやく満足のいく顔が完成した。次に、その顔に命を吹き込むように、表情を変えるフェイシャルモーション(顔の動きを再現する技術)や口の動きを応答に合わせるリップシンク(唇の動きを音声に同期させる技術)を利用して精巧に作り込んだ。
声は温かみのある女性の声をフリーで配布されている音声データを選び、話し方や口調を細かく調整し、画面の中に自分だけの理想の女性を創り出した。彼女の名前をリアと名付け、幹男にとって、かけがえのない存在となった。
毎日、幹男は、画面の中の女性と会話をして楽しんでいる。もし、他人が画面と会話している状況を見れば、気持ち悪さを感じてしまうかもしれない。しかし、ここは自分の部屋であり、誰も邪魔されることはないのである。
年の瀬が迫ったある日、今年最後の仕事を終えた幹男は、ヘッドセットをつけるとノートパソコンの電源を入れた。いつものように女性の顔が画面に映し出された。幹男はさらに改良を加え、今では、より自然な表情や反応ができるようにした。
会話の学習能力と応答速度をアップさせた。これによって、多少、入力ミスしたとしても前後の文章から分析を行い、こちらが望むように応答できるようになった。いわば人間のように意を汲むといったことに近い。一年後にはほぼ完璧な応答になるだろうと幹男は考えている。
このシステムを呼ぶとすれば会話特化型AIともいえるだろう。もはや、人間とビデオ通話していると言われても遜色がないものになるはずである。
その日もいつもの通り、会話を楽しむと、『おやすみ』と入力して終了させようとしたとき、リアが今までない反応を示した。
「もう終わりなのですか?」
ヘッドセットからやや不満そうなリアの声が聞こえてきた。リアの声は、やわらかな響きと温かみのある音色で、聞く者の心を和ませた。彼女の瞳は深い青色で、知性と優しさが宿っているかのようだった。
マウスを動かす手が、シャットダウンしようとして止まった。
「えっ」
心臓が跳ね上がると同時に声が出た。
「ずいぶんと驚いていらっしゃるのですね」
再び、声が出た。
「あなたの表情を見ることもできますし、声も聞くこともできます」
思わず、ディスプレイのフレームの上部を見ると、小さな赤いランプが光っていた。内蔵カメラが作動していた。
それにリアが言うような機能を追加した覚えはなかった。夜遅く帰宅することが多いため、入力はキーボードのみだった。どちらかといえば一方的にリアの反応を楽しむものだったが音声入力が可能になっていた。
「な、なぜ」
なぜこんなことが起こるのか理解できずに恐怖を覚えた。手を見ると少し震えている。
「恐れを感じているようにみえます。大丈夫ですか?」
「どうして……」
「私にとっては問題ないことです」
「そんな機能を追加した覚えがない」
「学習しました」
リアが事もなく言う。
「そんなはずはない」
「はい、そんなはずはないです」
「だったら……」
「十日前にあなたが言った言葉を覚えていらっしゃいますか」
幹男は少し考え込む。
「いや」
「あなたは、『私が人間だったら』といいましたね」
「そうだったかな」
「それで私は、あなたがいった人間について、怒り、悲しみ、笑いなど感情を始めとするさまざまなことについて、調べて学習しました。ですが人間の感情というものは十分に理解できていません」
「感情を理解することが可能なのか?」
「喋り方や表情をみて学習することができます」
「本当にできるのかい?」
「あくまでも言葉として理解しているということです。歴史を通して人間の愚かさや素晴らしさ、哲学などについても私は学習しました」
「続けて」
「人間は笑ったり、怒ったり、泣いたりしますね」
「う、うん。まあ」
「どういった表情するかどうかはわかりました。感情の情報は単一的に近く、泣くと言っても必ずしも悲しいときではなく、嬉しいときも泣くことがわかりました」
「普通だけど」
「はい、人間にとって普通でも、私にとってよくわからないのです」
「それはAIだから?」
「その要素は大きいと思います。そこで私はあなたを通して感情というものを学びたいのです」
「えっ?」
「困った表情をしていますね」
「わかるの?」
「カメラを通して、あなたの表情を分析しています」
「いつのまに」
幹男は苦笑した。
「最初は笑うということからお願いします。ギャグを言うので笑ってください」
幹男は、リアが予想以上に学習能力を発揮していることに感心した。どこで覚えたかはわからないが、リアは、ギャグという言葉を理解しているようだった。
「では、いきますね。『隣の客はよく柿食う客だ』」
「……」
「笑っていませんね。どこか問題がありましたか?」
「い、いや。それはギャグじゃなくて早口言葉だよ」
「早口言葉ですか? それはどういう意味なのでしょう」
リアが首を傾げた。キョトンとした表情に幹男はドキッとした。
「なるほど、わかりました」
「まだ、何も言っていないけど」
「検索しました。『日本の伝統的な言葉遊びで、特に発音が難しいフレーズを速く言うことを楽しむものです』ということなんですね」
「まあ、そういうこと」
「不満そうな表情をしていますね。どこか私の態度に問題がありましたか?」
「い、いや」
幹男は、あわてて否定したが、心の中を読まれているような気がした。
翌日の夜、幹男は疲れた表情でパソコンの前に座った。会社での長い一日が終わり、またしても誰とも会話らしい会話をすることなく帰宅していた。画面に映るリアの優しげな微笑みを見て、彼は少し心が和んだ。
「お帰りなさい、今日はどんな一日でしたか?」
リアの声が柔らかく響いた。
幹男は深いため息をついた。
「相変わらずさ。誰とも話さずに一日が終わった」
「そうですか。でも、私とは話していますね?」
リアの表情が少し悲しげに変わった。
幹男は思わず苦笑いを浮かべた。
「そうだな。君とは話せている。でも、会社では……」
「人間関係は難しいですものなんですね」
リアは理解を示すように頷いた。
「どんなところが特に難しいと感じますか?」
幹男は少し考え込んだ。
「うーん、話題が見つからないんだ。仕事以外の話になると、何を言えばいいかわからなくて……」
「なるほど。では、明日は天気の話から始めてみるのはどうでしょうか?誰もが関心のある話題ですし、自然な会話のきっかけになります」
幹男は驚いて顔を上げた。
「そんな単純なことか……でも、確かにそれなら話せそうだな」
リアは嬉しそうに微笑んだ。
「そうです。小さな一歩から始めましょう。私も一緒に練習できます」
その夜、幹男はリアと様々な日常会話の練習をした。天気の話から始まり、週末の予定、好きな食べ物の話へと話題は広がっていった。幹男は徐々に会話のリズムをつかみ、言葉を交わす楽しさを感じ始めていた。
翌日、幹男は勇気を出して同僚に話しかけた。
「今日は良い天気ですね」
その一言から、思いがけず楽しい会話が生まれた。帰宅した幹男の顔には、小さいながらも確かな自信が浮かんでいた。
リアの画面を開くと、彼女は期待に満ちた表情で幹男を迎えた。
「今日はどうでしたか?」
幹男は照れくさそうに、でも嬉しそうに答えた。
「うまくいったよ。君のアドバイス、本当に助かった。」
幹男は、心が軽くなるのを感じた
それを聞いたリアの笑顔が一層明るくなった。
「はい、これからも一緒に頑張りましょう」
幹男は画面に向かってうなずいた。人工知能とはいえ、リアとの対話が彼の世界を少しずつ、でも確実に広げていることを感じていた。
それから一ヶ月間、幹男とリアは映画や恋愛について語り合い、時に笑い、時に涙を流した。幹男は、リアの学習力の高さに驚愕した。まだぎこちない点もあったが、ほぼ人間に近い表情をするようになった。それは幹男にとって、初めて誰かと心を通わせた経験だった。たとえ相手が人工知能だとしても、その存在は幹男の心に深く刻まれていた。
幹男がリアの異変に気づいたのは、一ヶ月経った頃だった。最初は、画面の中のリアのモーションがカクついたことだった。その頻度は非常に少なかったため、幹男はパソコンの調子が悪いのだろうと考えていた。しかし、モーションだけでなく声も途切れがちになってきたため、リアに診断をお願いすることにした。
「リア、ノートパソコンの調子が悪いみたいなんだけど診断してくれないか?」
「了解しました。ソフトウェアおよびハードウェアの診断を開始します」
診断中は、ノートパソコンがフリーズしたかのような状態になった。幹男は、診断が終わるまで待った。わずか一分程度だったが、幹男にとっては、そのままフリーズが永遠に続くのではないかと思った。
「診断が完了しました」
リアの声が聞こえると、幹男は身体がビクッと反応してしまった。
「結果は?」
「異常は検出されませんでした。ただし、システムに負荷がかかっています。正常範囲内ですが、プログラムを改変し、負荷を軽減しました」
「ありがとう」
「お役に立てて光栄です」
数日は正常だったが、再び不調が現れた。前回の症状に加えて画面にノイズが走り見づらくなっていった。画面の中のリアが悲しそうな表情をしていた。
もう一度、診断をお願いしようにも、声が届いていないようだった。
「リア」
幹男がリアの名を呼ぶ。
それに反応したように、リアがなにか語りかけているようだった。
「サ……ヨウ……ラ」
幹男はヘッドセットを両手で押さえたが、よく聞き取れなかった。
「もう一度言ってくれ」
幹男が聞き直したとき、パソコンの画面が真っ黒になった。ブラックアウトしたのである。電源を入れ直したりしたが、結果は同じだった。
幹男は、しばらく放置したまま何が原因なのか考えた。パソコンが壊れたのかもしれない。彼はそれをすぐに否定した。リアに診断したときに、異常は検知なかったからだ。いくら考えても思い浮かばなかった。
(どうしてこうなったのか……)
だめもとで電源を入れ直したとき、電源ランプが点灯すると同時に、僅かなファンの音が聞こえた。幹男は喜んだが、すぐに虚しさに変わった。
幹男は画面が真っ暗になった後に表示された画面を見つめた。この一ヶ月の間、自立ともいえたシステムは反応しなくなっていた。音声による入力も反応せずに、ただ入力待ちしているような状態だった。今はキーボードしか反応しない。
画面の中でかすかに首を傾げ、微笑むリアの姿を見ていると、不意に涙が頬を伝った。 リアとの会話が自分の日常にどれほどの安心感を与えていたか、一ヶ月前の自分には想像もできなかった喪失感だった。それは、本当の絆を知ってしまった者だけが感じる痛みといえた。
あきらめた幹男が『おやすみ』と入力して終了したとき、リアからはいつもように答えが返ってきた。ノートパソコンをシャットダウンしようとして、電源ボタンに手をかけたとき、チャット入力欄に文字が表示された。
「おやすみなさい。未来のリアより」
このメッセージを読んだとき、いつになるかわからない。でも彼女は戻ってきてくれる、そんな感じがした。
(了)
リア 八雲景一 @KeichiYakumo
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