第17話

「おい、貴様。なにを見ている」

「えっ、あ、あの……」

 自分が咎められたことに気づき、結羽は動転してしまった。姫をじろじろと眺めるなんて、不躾なことなのだ。

「アナスタシヤを直視するとは、従者の分際でなんという無礼者だ! 跪け!」

 ヴァレンチンは腰に佩いた剣の柄に手をかけている。

 いけない。

 アスカロノヴァ皇国の礼儀を疑われてしまう。王子の不興を買っては、結羽のせいでレオニートに迷惑がかかる。

 結羽は咄嗟に言われたとおり、床に跪いた。低く頭を垂れて謝罪の言葉を述べる。

「申し訳ございません。姫様があまりにお美しい方なので、つい見入ってしまったのです」

 レオニートの肩がぴくりと動いたのを視界の端に認めた。

 彼女は、レオニートの妻になる人なのだ。それなのに結羽が不躾に眺めるのは気分が良いわけがない。

 果てない沼の底に、身も心も沈んでいくようだった。

 どうして僕の心は、こんなにも哀しみに満ちているんだ……。

 ヴァレンチンに咎められたからではなかった。アナスタシヤが、レオニートの妃になると知ったその瞬間から、結羽の心はまるで時を止めるかのように動くのをやめたいと願った。

 すっと、跪いた結羽の前に手のひらが差し出される。

 ふと目をむけて、結羽は息を呑んだ。

「立ちなさい、結羽」

「レオニート!」

 なんとレオニートは片膝をついて、結羽に手を差し伸べているのだ。異国の王子と、妃となる姫の前で、皇帝にそのような格好はさせられない。

 結羽は慌てて立ち上がる。差し出されたレオニートの手は見ないふりをした。

 そっとアナスタシヤを窺うと、彼女はまっすぐに背筋を伸ばし、顎を引いてなにもない前方に視線をむけていた。この騒動を気にも留めていないのだろうか。

 レオニートは振り返り、ヴァレンチンにむけて毅然と応じる。

「ヴァレンチン、ここは私の皇国だ。そして彼は私の大切な恩人だ。暴挙に及ぶのはやめてもらおう。この舞踏会はルスラーン王国を歓待するために開かれた。君はその場を、踏みにじろうというのか」

 静かな怒りを漲らせるレオニートに、列席した大臣やホールで見守っていた人々の間に緊張が走る。

 しん、と場が静寂に沈んだ。これほど大勢の人がいるというのに、誰も言葉を発さず、衣擦れの音ひとつしない。

 ヴァレンチンは鼻で嗤うと、ついとアナスタシヤの手を恭しい仕草で取った。

「納得はいかないが、この場は引いてやろう。アナスタシヤのために」

「ありがとうございます。お兄様」

 アナスタシヤが初めて紡いだ言葉は、兄に対する礼だった。ふたりは実の兄と妹らしい。

 鈴を転がすような流麗なアナスタシヤの声音に、大臣たちの間から、ほうと感嘆の息が漏れる。

 今までの不機嫌が嘘のようにヴァレンチンは、優しい眼差しでアナスタシヤを見つめた。

「レオニートとダンスを踊るといい。憧れていたのだろう? 兄はおまえの踊る姿を指先まで見ている」

「はい。お兄様」

 ヴァレンチンは握ったアナスタシヤの白く細い手を、レオニートの胸の前に掲げる。

 流れるような所作で、レオニートは姫の手を掬い上げた。

 ずきり、と結羽の胸の奥が抉られる。

 どうして……僕……。

 レオニートの白銀の背と、アナスタシヤの黒いドレスが寄り添いながら大階段を下りていく。

 楽団が奏でるワルツに合わせて、人々はまたダンスを踊り始めた。大臣たちは一斉に安堵の息を吐く。

「やれやれ。どうなることかと思いました。アナスタシヤ様は幼い頃から陛下に好意を抱いておられたのですな。そういうことなら心配ないでしょう」

「始めから問題などない。おふたりは純血の白熊種なのだ。尊い血筋を絶やさぬためにと、この婚姻はルスラーン国王が勧めたものなのだからな」

 大臣たちの言葉に、結羽は心臓が握り潰されるかのような痛みを味わう。

 蒼白になる結羽を、傍にいたユリアンが気遣わしげに見上げた。

「結羽、大丈夫? 顔が真っ青だよ。さっきのことなら気にしないで。ヴァレンチン王子は兄上を試したんじゃないかな」

 ユリアンに気を遣わせてしまい、申し訳なさに居たたまれなくなる。結羽は無理に笑顔を作ったが、その笑みは歪んでいた。

「平気……です。僕のせいで迷惑をかけてしまって……すみませんでした」

 階上からホールを見下ろせば、ひときわ華麗なステップを踏む白銀の髪をたなびかせたふたりが否が応でも目に入る。

 皇帝と姫。純血の白熊種。美男美女のふたりはとてもお似合いだ。誰もが祝福を贈る婚姻になるだろう。

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