第4話

 異世界からやってきたというだけで伝説の妃にされてはたまらない。凡人の結羽に皇国の危機を救うだなんて大それたことができるわけはないし、いくら王子様のようなレオニートであっても初対面の人と結婚するなんて到底考えられない。

 だがレオニートは少しも怯まず、優雅な微笑を浮かべた。

「氷の花はどんな病も治すといわれている幻の花なのだ。まだ誰も見たことがないというが、霊峰の頂に咲き、死と引き換えにした者のみ手にすることができるという。アスカロノヴァ皇国に古くからある言い伝えだよ」

 どんな病気も治せる花なんて、ありはしない。

 伝説の妃に、誰も見たことのない氷の花。すべて雲を掴むような話だ。

 つまり皇国の危機を救う伝説の妃も、病を完治する氷の花も、人々の心の拠り所にするための単なる伝説なのだ。

 小さく嘆息した結羽は、ちらりとレオニートの紺碧の瞳を見上げる。

「どんな難病でも治す氷の花が本当に存在したら素敵ですね。でも僕の捻挫はすぐに完治しますから、氷の花は必要ありません」

「そのようだな。ひとまず足の怪我を治すことに専念するのだ。政務の合間に毎日様子を見に来る。逃げだそうなどと考えず、大人しく寝ているのだぞ。もっとも外は極寒だが」

 レオニートの肩越しに窓を見遣れば、窓枠には吹きつけた雪がこびりついている。どうやらアスカロノヴァ皇国も厳しい寒さの国らしい。薄着で外へ出れば、たちまち凍えてしまうだろう。

「逃げようなんて、思っていませんよ。これでも冬の厳しさは知ってます」

 柔らかな寝具に潜り込んだ結羽の頭が、ふわりと撫でられた。

 じわりとした熱を仄かに感じて身動ぎする。

「それは良かった。なにかあればベルを鳴らすのだ。隣室に控えた召使いがやってくるからな」

 優しい仕草で髪を撫でるレオニートの手のひらは、結羽の身体に残されたぬくもりと同じ熱を持っているような気がした。

 まさか……?

 布団から出した目で、部屋を出て行く彼の後ろ姿を追う。

 まっすぐに伸びた背に纏う天鵞絨のベストが扉のむこうに消えると、結羽はサイドテーブルに置かれた金色の小さなベルに目を移す。再び小さく嘆息すると、布団を頭まで被った。



 予期せずアスカロノヴァ皇国を訪れることになった結羽だったが、足の怪我はすぐに良くなった。軽い捻挫なので数日も経てば歩けるようになり、結羽は城の中を探検してみた。

 広大な石造りの城はまるで中世のお城のようで、荘厳な建築様式に溜息が零れてばかりである。高い天井には天使の絵が描かれ、巨大な柱や壁の至るところに精緻なレリーフが彫られている。長い廊下の至るところに緋毛氈が敷かれ、その先の広いホールには瀟洒なシャンデリアが吊り下げられていて、眩く煌めいていた。

 窓から見える景色は一面の銀世界。どうやらこの城は小高い丘の上に位置しているらしい。寒風を遮るものは城壁しかないので城内は相当冷えるものと思われるが、どの居室にも寒さ対策のため、大型の暖炉が設えられていた。そういえば結羽の宛がわれた部屋にも大きな暖炉があり、常に赤々と灯が点されている。そのためか、外は厳しい吹雪にもかかわらず、いつも暖かく過ごせていた。

「結羽、ここにいたのか。部屋にいないので捜したぞ。そのような格好では寒いだろう」

 レオニートに声をかけられてしまい、結羽は首を竦めた。彼は始めの宣言どおり、毎日結羽のもとを訪れては怪我の具合はどうかとか、不自由はしていないかなど細かに配慮してくれる。

 結羽が伝説の妃ではないかと、まだ信じているのかもしれない。そんなわけはないのに。

「寒くないですよ。もう怪我も良くなりましたし、寝てばかりでは退屈なんです」

 皇帝の弟を助けた恩人として、結羽は客人として扱われている。専属の召使いがついて、着替えも食事も手伝ってくれるという至れり尽くせりの生活はどうにも慣れない。

 怪我が治れば、帰らなくてはならない。それに次の仕事も見つけなくてはならないのだ。

 ローブ一枚に裸足の結羽は唇を尖らせながら、回復した足首を晒して見せた。

 途端にレオニートは銀色の眉をひそめて、咎めるような目をむける。

「そのように淫らに誘うものではない。私を試しているのか?」

 なんのことかよく分からないが、この世界では行儀の悪い仕草だったらしい。結羽は足を下ろして、膝頭をローブの裾に隠した。

「僕の着ていた服はどこにあるんでしょうか。気がついたら、このローブを着ていたんですが」

「あの異世界の服は妙に脱がせにくかったが、あれは外出着だろう。心配ない。靴もみな、洗濯して保管してある」

 脱がせにくかったという過去形を耳にして瞠目する。まさか、結羽の服を脱がせたのはレオニートなのだろうか。てっきり召使いの人が着替えさせてくれたのだと思い込んでいたのだが。

「あのう……まさか、僕を裸にしたのは……」

「私だ」

 事も無げに言い放ち、側近から上着を受け取ったレオニートは、目眩を起こしている結羽の肩に毛織りの暖かいガウンを着せかけてくれた。

「靴は。ダニイル」

 レオニートの問いに、ダニイルと呼ばれた大柄な体躯の側近はさらりと答えた。

「ありません。彼の足が小さいのでサイズがないのです」

 結羽は平均的な男性よりも若干小柄ではあるが、レオニートは背も高くて体躯が良く、ダニイルはさらに肩幅が広くて胸板が厚い。どうやらアスカロノヴァ皇国の男性は立派な体躯の人が多いようだ。

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