後宮の毒の寵妃

沖田弥子

第1話

 くちなしの花が甘い香りを運んでくる。

 純白の花弁を目にしたらん雪花せっかは、それが死に装束の一片のように見えた。

 喜びを運んでくるという言い伝えのあるくちなしの花だが、冷遇されている雪花には美しい花を見てもまったく心が潤されない。

「くちなしより、南天がいい……」

 なぜなら、あの人との思い出があるから。

 遠い記憶をたぐり寄せるが、無意味なことを思い知らされて項垂れる。

 ここからは風光明媚な景色が臨めるはずもない。窓の外には雑草が生い茂り、かろうじて林のそばにくちなしの花が咲いている様子が見えるだけだ。殺風景な世界にも、もうとっくに慣れた。嘆息した雪花は鉄格子付きの窓から手を離す。

 雪花が住んでいるのは、離れの粗末な小屋である。

 ただし窓には鉄格子が嵌められており、外と隔てられた扉には錠前がかけられている。

 そこを出入りすることは許されない。もとより鍵がかかっているので、自由に出入りできないのだ。

 カタン、と堅牢な扉の下に空いた戸板が音を立てた。それと同時に、怯えたような下女の声が耳に届く。

「お嬢様、お食事です。……あの、全部食べていただかないと……」

「わかっています」

 返事をした雪花は椅子から立ち上がると、ひび割れた盆を引き寄せた。盆にひとつだけのせられた椀には、粟を煮込んだものが入れられていた。

 たった一杯のこれだけが、雪花の一日分の食事である。

 扉の向こうで、年老いた下女はじっと椀が返されるのを待っている。雪花が食事を残しでもしたら、彼女が主人である父と義母に折檻されるのだ。

 さじで冷えた粟を掬い、口に運ぶ。

 びりっとした感覚が舌先に走ったが、それだけだった。

 粟はたいして量がないので、すぐにすべてを食べ終える。

 喉から胃の腑に流れた、粟以外のものを、雪花は気にしないよう努めた。

 だが体は感じている。

 粟に混ぜられた、毒を――

 体を蝕もうと暴れる毒は、臓腑を通して体に吸収された。四肢に染み渡るように、冴え冴えと毒が行き渡るのを感じる。

 今日は、附子だ。

 猛毒を呑み込んだ雪花は空の椀を盆にのせると、戸板の向こうに押しやる。

 下女の安堵した吐息がこぼれたが、彼女はすぐに盆を持って足早に去った。

 また沈黙が訪れる。

 日に一度きりの食事を終えると、あとは永久のように長い時間を過ごすのみ。

 灰色の室内には簡素な寝台と、木製の椅子がひとつだけ。ほかの家具はなにもない。

 椅子に腰を下ろした雪花は、ぼんやりとした。それしかすることがないからだ。

 致死量の附子を服毒したにもかかわらず、雪花の体はなんともない。

 その特異体質こそが、この冷遇を作り出したのかもしれない。

 雪花は、ここに幽閉されるまでの日々を思い返した。

「あの頃は、こんなことになるなんて思いもしなかった……」

 実の母が生きていたとき、雪花は蘭家に生まれた長女として大切にされていた。

 蘭家は前王朝の皇族の末裔であり、世が世なら雪花は公主という尊い身分である。

 現在は瑞家が支配する瑞国となったが、王朝が征服されたのは三百年も昔のこと。王朝が交代した当時は一族ごと幽閉されていた蘭家だが、数代前の皇帝から恩赦が言い渡され、田舎で慎ましい生活を送っている。

 だが、父は度々瑞王朝への不満を吐いていた。

 本当なら、自分こそが皇帝のはずなのに、と。

 しかし現在の蘭家はなんの権力も有しておらず、父は地方の下級役人という身分である。栄華を誇ったのは遥か昔の話だ。

 優しい母は不平不満を述べる父を宥めていた。

『家族が幸せに暮らせるなら、それでいいではありませんか、旦那様……』

 そんな穏やかな母の急死とともに、雪花の運命も激変する。

 後妻に迎えた女は、父と同じく現状への不満を吐いた。

 蘭氏の妻になった自分は皇后の身分なのに、この不遇は許せない。今の世の中は間違っている。兵を集めて蜂起し、玉座を取り戻すべき、と父をけしかけたのだ。

 すっかりその気になった父は密かに協力者を募り、兵を集めだした。

 これが瑞国の知るところとなったら、今度こそ蘭家は抹殺されてしまう。

 けれど幼い雪花にはどうすることもできないでいた。

 そんなとき、事件は起こる。

 雪花を邪魔に思った継母が、食事に毒を入れたのだ。

 致死量の毒を混入されたにもかかわらず、雪花は死ななかった。毒に耐性のある特異体質らしい。

 それを知ったときの父の言葉は忘れられない。

『これこそ、天の啓示だ!』

 雪花の身を案じるどころか、まるで天下を取ったかのように大喜びだ。

 その日から、雪花の食事には毒が混入され続けた。

 附子、鴆毒、砒素……どんな種類の劇薬でも、雪花は死なない。

 初めは嘔吐して寝込むこともあったが、年月とともに体は慣れていった。どんなに雪花が体調を崩しても、父は決して医師を呼ばなかった。

 やがて雪花の髪は老婆のような白髪になり、瞳と唇は毒々しい真紅に彩られた。毒の効果によるものらしい。

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