アラサー聖女は懐妊するまで氷の大公に溺愛される
沖田弥子
第1話
王女セラフィナは突然、気がついた。
自分がもとは日本人で、アラサーのおひとりさまだったことに。
「そうだわ……。どうして今まで忘れていたのかしら」
手にしていた桶が滑り落ち、汲んだばかりの水がこぼれる。
無残に土に染み込んでいく水は二度と桶に戻ることはない。まるで自分の運命を表しているかのようだった。
あかぎれだらけの荒れたてのひらを見下ろしながら、セラフィナは遠い記憶をたぐり寄せる。
「おひとりさまで寂しく暮らしていた私は恋人もいないし処女だし、しがない社畜だったわ……。子猫を助けようとして、車に轢かれて死んだのよね」
なにも楽しいことがないままに終わってしまった人生だったが、その代わり、こうしてバランディン王国の王女として転生することができたのかもしれない。
けれど、セラフィナは王女とは名ばかりの存在だった。
広大な大陸の中に位置する小国のバランディン王国は温暖な気候に恵まれている。その王家の第一王女として生を受けたセラフィナは、なんの不自由もなく育てられたが、幼い頃に正妃である母が亡くなると状況が一変。
後添いとして隣国から迎えた王妃クレオパートラは、前妻の娘であるセラフィナを目の敵にした。
王妃の侍女に階段から突き落とされたり、食事を抜かれるなどの壮絶ないじめを受けてきた。そしてクレオパートラが娘を産むと、義妹をセラフィナがいじめるといういいがかりをつけて離宮へ追いやったのだ。
離宮という名称がついているが、実際は物置のような粗末な小屋である。
侍女はおらず、身の回りのことは自分でやるしかない。掃除に洗濯。水はないので、桶を持って自ら川へ水汲みに行く。今も行ってきたところだが、前世の記憶を思い出した衝撃でこぼしてしまったところだ。悲しいことばかりの、つまらない日常しかない。
人に会えるのは、日に一度だけ。召使いがやってきてセラフィナの食事を置いていくのだ。それも乾いたパンと冷めたスープのみの貧しい食事だった。もちろん召使いはセラフィナと口を利かず、楽しく会話などすることはない。彼女たちは無造作に食事を置くと、逃げるように去っていく。
セラフィナが着ている服は、ぼろぼろになって色褪せたドレスである。ドレスとは言いがたいほど薄汚れていた。なぜなら、セラフィナの衣装はこの一着しかない。
母が生きていた子どもの頃にはクローゼットにたくさんのドレスやアクセサリーが収納されていたのだが、離宮に追い立てられたときにすべてクレオパートラ王妃に奪われてしまった。実の娘のダリラにこそドレスや宝石を与える価値があるというのが、彼女の言い分だった。父である王はクレオパートラの言いなりで、セラフィナを助けてはくれない。
よって、一着しかないドレスを洗濯するときには桶に水を汲んで、脱いだドレスを洗い、それが乾くまで裸でいなくてはならない。
小屋の隅にうずくまっているだけとはいえ、寒い日は凍えてしまいそうなほどに体が冷える。今日は温かな陽射しが降り注いでいるので、まだましといえた。
空になった桶を持ち直したセラフィナは、再び水を汲むために川へ足を向ける。
そのとき、近くを通りかかった召使いたちの声が耳に届く。
「新人は、ここに食事を運ぶ係になることもあるから。場所を覚えておいてね」
「この物置みたいな小屋に食事を運ぶんですか? いったい誰が食べるんです?」
どうやら召使いの先輩が、新人に仕事を教えている最中のようだ。
王女であるセラフィナがこのようなぞんざいな扱いを受けていることは、王宮の者しか知らない。
先輩の召使いは声をひそめることもせず、あけすけに言い放った。
「王女のセラフィナよ。前王妃の娘だから、クレオパートラさまにいじめられてるのよね」
「……そうなんですね。でも、王女さまをこんなところに住まわせて、王さまはなにも言わないんですか?」
「ほら、クレオパートラさまの出身はレシアト国でしょ? うちは小国だって王さまはよくわかってるから、レシアトに睨まれたくないってわけ」
召使いの言うとおり、強国のレシアトから嫁いできたクレオパートラは、それを笠に着て偉ぶっている。彼女はまるで自分が女王のように振る舞っているのだった。
バランディン王国は領土が狭く、主産業となるものが乏しい。軍隊も資金もないので、周辺諸国に攻め入れられたら、ひとたまりもないだろう。よって王は、婚姻による不可侵条約を周辺諸国と結ぶことにより、国の安寧を保つことにしたのだ。
クレオパートラは政治には興味がないらしく、国民には見向きもしない。ひたすら贅沢をして、セラフィナをいじめることに執心している。娘のダリラも母親によく似て、それを真似ていた。
父はそんな母子を放置している。不遇のセラフィナを助けてくれる人は誰もいなかった。
召使いたちは話しながら小屋を通り過ぎていく。
「セラフィナに気遣いは必要ないから。お菓子を差し入れようとした新人が王妃さまに鞭打たれたことがあるからね。あなたも王妃さまの命令に従わないと、すぐクビにされるわよ」
「……わかりました」
彼女たちの背を木立の陰からそっと見送ったセラフィナは溜息をつく。
召使いにすら礼節を尽くされず、見下されている。こうなるのも、すべて王妃の目論見どおりということかもしれない。
空腹のひもじい思いも、凍えるような夜の寒さも耐えがたいけれど、なによりもつらいのは、誰からも大切にされないことだった。
「せっかく王女に生まれ変わったのに、これじゃあ前世と同じね……。なにかいいこと、ないかなぁ」
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