スパイ勇者、魔族学園でモンスター娘たちにバレまくる。

訳者ヒロト(おちんちんビンビン丸)

一章 その吸血鬼は求めている

第1話 擬態の勇者

 夜空には月が輝いている。


 魔族連合軍の駐屯所、その最奥に首領のためにこしらえられたテントがある。木の枠組みに布を被せただけの野生的な空間だ。


 テント内、ボスオークは石の玉座の上にどっぷりと腰を下ろした。緑色の汚い肌、黄ばんだ歯、湯浴みなど生まれてから一度もしたことがない。人族の拠点への略奪を終え帰還したばかりである。


 その横には小柄なオークが控えている。他のオークとなんら変わりないように見えるが――その正体は勇者。変装を得意とし、現在オーク軍に潜入中のエージェントだ。


 名をエディ。この物語の主人公である。


 エディはボスオークに気づかれないように鼻をつまんだ。


(こいつ、臭すぎる。今日はいつにもましてひどい。鼻がきかなくなってきた。労災だろこんなもん)


 ボスオークはエディの用意した酒を浴びるように飲み、そしてゲップする。エディは息を止めた。


 ボスオークの前には若い人族の女が転がっていた。意識はない。装いからしてただの町娘であろう。これが今回の戦利品の目玉である。


「おい、起こせ」


 ずんぐりとした腕で小突かれて、エディは人族の女の側に寄った。


「ハロー、どうも。オーク軍です。起きた方がいいぜ」


 頬をぺしりと叩いてみる。女はゆっくりとまぶたを開いていき、そして絶叫した。


「イヤァァァッ!!!」


 エディは顔をしかめ、ボスオークは愉悦で口を半月状に歪めた。よだれが垂れている。


「雑用、こいつを食うならどんながいいだろうか」


 エディは質問の意味をすぐに理解できずあごに手を当てて考え込んだ。


「生のまま丸かじり、以外にありますか? まさか調理なんてことをするつもりで?」


 ボスオークは膝を叩いて鼻を膨らませた。


「ああそうだ。おれさまは最近気づいたんだが、火で焼くとウマい」


「……なんて先進的」


 ボスオークは愉快そうに女をじろじろと観察する。女は体を震わせて怯えるあまり叫ぶことさえできなくなっているようだった。


「若くて柔らかそうな肉だ。今回はミデアムというのを試してみよう」


 ボスオークはそう言って女に手を伸ばす。エディは慌てて口を開いた。


「ボス、提案があるのですが……人族は満月の日に食べるのが一番美味いのです。もう少し我慢してみては?」


「次の満月はいつだ?」


「明後日です」


 もちろんエディは明後日までにどうにか女を逃してやろうと思っている。しかし――


「そんなに待てるわけないだろッ!」


 ボスオークは唐突に吠えた。空気がビリビリと震える。女の目の端からボロボロ涙が落ちていった。


「どうしても今日食べたいのですか?」


「今から食う!」


 エディは息を吐き出した。こうなったボスオークは誰にも宥められない。救うことはできなさそうだ。今は潜入任務の最中であり、バレるリスクは犯せない。


「ならどうぞ。火を起こしますか?」


 ボスオークは鼻息荒く立ち上がった。巨体がテントを圧迫し、その吐息一つで屋根が揺れる。女は本能的に後ずさった。


 黒一色の不気味な目玉がぎらぎらと嗜虐的に輝く。


「いらんっ! 生で丸かじりだ!」


「そうでしょうとも。調理なんて似合わないですよ。文明的すぎる」


 丸太のような腕が女の足首を掴み軽々と持ち上げる。女は必死に手足をバタつかせたが、ボスオークは気にかけもしない。


 エディは目を閉じた。凄惨な光景にはもう慣れたが、それでも同族の死を見たいとは思えない。


(すまない。痛みは少ないはずだから…… 俺じゃ君を救うことはできない。民間人の命ひとつよりも任務が優先。兵士は感傷なき駒であれ。そうだろ)


 閉じた視界の中で自らに言い聞かせる。


 鼓膜を破るかのような悲鳴と、耳障りなオークの笑い声。


 女は叫んだ。


「誰か……誰か助けて――勇者様ッ!」


 それはエディのことを呼んだわけではないはずだ。ただ絶望の中で人が縋るのが勇者であったというだけ。


 それでも――エディの体は動いた。


 同志たちが心の中に浮かび上がり、説いたのだ。こういう人々を守るために戦っているのだと。先に死んだ者はそのために死んだのだと。お前は戦うように運命づけられたのだと。勇者とは人族の守護者であると。


 地面に転がっていたナイフを掴み取り、飛び上がって一閃。


 背後からの攻撃に対応できるはずもなく、ボスオークの太い腕は綺麗に両断された。女は落下してエディの腕の中へ。


 ボスオークも、女も、わけがわからず目を丸くしていた。


「この女は俺が喰うッ! ――ってのは冗談」


 エディは指を鳴らした。


 体中に小さな震えが走る。それは「擬態」が解けるときの合図だ。筋肉が収縮して骨が歪んでいくような感覚。体を作り替えられる不快感はもはや慣れたものだった。


 緑色の肌が色を失い、体格が一回り縮んでいく。オークから人族へ。


 変化が終わると、そこにいたのは黒い髪と鋭い目つきの少年だ。これがエディ本来の姿であった。数日ぶりの人族の姿はむしろ違和感がある。


 ボスオークは血が滴る腕を放置してエディを見つめた。


「なんだ……? どうなってる……? 人族が二人に増えた。女が子どもを産んだのか?」


 エディは女を背中に庇い、立ち上がった。握るのはなまくらのナイフ。だがこれで充分だ。


「あーあ。やっちまった。……まあどうにかするしかない。あんたのバカっぷりは嫌いじゃなかったが、こうなったからには死んでもらう」


 刃こぼれして頼りない刃を、敵に向けた。


 ボスオークが状況を正しく理解したかは定かではないが、少なくともエディをエサとして認めたらしい。


 片腕で棍棒を担ぎ上げ、獰猛に歯列を剥き出しにする。それだけで砂ぼこりが舞い、テントの柱が軋んだ。巨体は立っているだけで圧し掛かってくるような存在感がある。


「男は痛めつけてから食うと決めてるんだ。肉が硬いからなあ」


 脅し文句は聞き流し、エディはぼやく。


「なら女に化ければよかったぜ」


 ボスオークが棍棒を振りかぶった。ぶつかれば全身の骨を砕き折る一撃である。風をぶうんと切り裂きながらエディの脳天に迫ってくる。


 だが――遅すぎた。


 エディはとっくにナイフを振り抜いていた。残っていた腕も刎ね飛ばし、棍棒はあらぬ方向へ飛翔する。


 エディはナイフを握りしめ、その切っ先を光らせた。ボスオークはそれを見つめるだけ――理解が追い付いていないのだ。


「アレ?」


「死ね、魔族め」


 エディは迷うことなくボスオークの喉元に狙いを定め、放つ。ナイフは驚くほど軽やかに皮膚を裂き、血が飛び散った。


「ガアアアアアアァァァァッツ!!」


 駐屯所全体に響く咆哮を残しながら、ボスオークは倒れ込んだ。数度の痙攣を繰り返し、ぴくりとも動かなくなる。


 エディはぱんぱんと手を払い振り向いた。女はまだ目を白黒させていた。


「怪我はない?」


 エディの手を借りて、女は立ち上がる。繋いだそれは柔らかくて温かい人族の手だ。


「はい、ありがとうございます……」


「ここは魔族側の領域だから、君に一人で逃げろと言うわけにもいかないし、俺も任務の最中だし……」


 それに、と呟きながらエディはテントの外のざわめきに耳を澄ました。


 さきほどのボスオークの断末魔はやはり全軍が聞いてしまったようだ。何事だろうと足音が近づいてくる。それは軍隊の行進そのものだ。


 女は恐怖のあまりに腰を抜かして崩れ落ちた。エディがその背中をさする。


「大丈夫。俺に任せろ」


 エディは策を閃き、にやりと笑う。


「こういうのはどうだろう。俺はここのボスになる。そして君は非常食になるんだ」


 女はぱちりぱちりとまばたきを繰り返した。


「どういうことでしょう……?」


「まあ見てて」


 エディは指を鳴らした。


 再びの体が作り替えられていく不快感。骨と肉はむくむく膨張して頭がテントにぶつかりそうになり、肌は汚い緑色に染まり、髪は消えていく。


 エディは――なんと――ボスオークそっくりの容姿になってしまった。


 口を開くと大きな牙がちらりと覗く。


「怯えないでね」


 声までしゃがれて耳障りなものに変わっている。女ははっと息を呑んだ。


「もしかして……あなたは……」


「ご明察。俺は勇者。人族を守るため祝福と責務を背負わされた哀れな子羊です。……この姿なら潜入任務も続行できるかも。内緒で頼むぜ」


 女は口に手を当てて小刻みに頷く。


「助けてくれて、ありがとう」


「そう言ってもらえると、勇者に生まれたのも悪くないって思えるぜ。こちらこそありがとう」


 テントの外から呼びかける声がした。エディは慌ててボスオークの死体を隅に押しやり布を被せて、咳払いする。


「なんでもない! ただ……間違えて鼻に指を突っ込んだだけだ。よくあることだろ」


 テントの入り口を開く。


 完全武装したオークたちが数百も並んで、真っ黒な目玉がエディを凝視した。先頭の側近がすんすんと鼻を嗅ぐ。


「ボス……?」


 冷や汗が背中を伝っていく。


 エディは一歩前に進み出た。黄ばんだ牙を出して不機嫌そうに唸ってみせれば、オークたちは顔をこわばらせて頭を下げる。


 オークの一人がエディの背中に隠れている女を指差して金切り声をあげた。


「ボス! 喰ってしまいましょう! 苦しむ声を聞かせてくだせえ!」


 女がひいっと身を縮ませる。オークたちは女の怯える様に大喜びして飛び跳ねた。公開ショーをお望みらしいが、エディにそのつもりはない。


 少し悩んで、エディは女の腰を掴み、高く掲げた。


「この女は俺のモンだ! 最高の日に最高の調理方法で食うから、その日まで決して手を出すな!」


 しかしオークたちは沈黙した。訝しむような視線を投げかけてくる。たった数秒でエディの心拍数が跳ね上がった。見抜かれたのか?


 だが次の瞬間、歓声が上がった。「調理なんて……さすがボスだ!」


 エディはほっと息を吐いてさらに続ける。


「一口ずつなら分けてやる!」


 歓声が爆発する。オークたちはボスオークを称えて騒ぎ始めた。人族の若い女はご馳走なのだ。


 エディは女にだけ聞こえる声で囁く。


「俺を信じてくれるかな? 信じてくれないなら――食べることになるケド」


 女はくすりと笑った。


「食べられたくはないので、信じます、勇者様」


「君は無事に返してみせる。それが俺の務めだから」


 エディはぱちりとウインクした。女はまたおかしそうに口元を緩めた。


「ウインク、下手くそですね」


「まだ練習中なんだ」


 彼は勇者。”擬態”という祝福を生まれながらに授かった、人族の守護者である。

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