後日談(2)


 間一髪で支えた体は重かった。全速力でカフェテラスの中まで走ってきた真偽は、浅海が倒れる直前、滑りこむようにして首の後ろに手を差し入れる。おかげで、椅子の背に彼の後頭部が激突することだけは防げた。

 それでも、人ひとりの体は存外重いもので、彼が倒れこんだ勢いはほとんど相殺できなかった。浅海と共に崩れ落ちるような体勢になりながら、彼の体を支える。なかば引きずるようにして、なんとか椅子に座らせた。


「はっ、はっ……」


 真偽はどうにか息をする。全身から血の気が引いていた。

 生きている? 死んでいない? 心は? 壊れていない?

 もうどこも、損なわれていない?


 ずぶずぶと、浅海の胸に沈みこんでいくガラス片を見つめる。まるで生きた心地がしなかった。カフェテラスを偶然通りかかっただけで、こんなに心臓に悪いことが起こるなんて思わない。

 果たして、それが全て飲み込まれた瞬間、彼の胸元がカッと白く光った。瞳が突発的に開き、体がガクガクと震える。真偽は咄嗟に彼の体に抱きつくようにして、少しでも人の目から浅海を隠そうとした。


「そんなことはしなくてもいいよ。ほら、もう人はいないから」


 穏やかな声が聞こえたのと同時、ふっと浅海から力が抜ける。

 彼女はおそるおそる顔を上げて、周囲を見渡す。授業真っ最中だからか、カフェテラスには全くと言っていいほど人がいなかった。入口付近に集まっていた女子たちも消えている。

 代わりに、にっこりと笑う鮮やかな色彩の男が、視界に入った。


「あ、なたは……」

「久しぶり、真偽まき。会うのは二度目だね」


 その言葉と、彼の全身を眺めて、真偽はぽつりと問いかけた。


「ヤオバミ……様?」

「そうだよ。よく覚えていたね、いい子だ」


 優しげに笑って真偽の頭を撫でようとした手を、ばしりと掴む誰かがいた。咄嗟に見上げた真偽の視界に、胡乱な目をした褐色の青年が立っていた。


「え……ナナシさん?」


 オニキスの瞳が鋭く真偽を見る。


『愛し子。君、昼間から堂々と浮気かい?』

「はい?」

「やめなさい、無名。蕃神あだしくにのかみが、人を怖がらせるんじゃないよ」

『あんたが来なけりゃ、俺だってこんなことしてませんよ』


 不機嫌そうな無名を見て、真偽はぽかんと口を開けた。彼が他のかみさまに対して、こんな態度を取るところを見たことがない。いつもは不遜ふそんに笑うか、かみさますらも嘲笑って挑発するかのどちらかだ。

 こんな、子供のような不貞腐れた表情をするなんて。


「お前、相変わらず人に擬態する気が微塵もないね。せめてこの国の人間の姿になりなさい」

『あんただって同じでしょうが。なんです、そのじじいみたいな色の髪は』

「こういう人間もいるんだよ。何かと神聖視されがちで便利だ。私がおかしな言動をしてもあまり悪目立ちしないしね」

『擬態できてないじゃないですか。俺のこと言えないでしょ』


 なんか一人称まで変わってるな……と真偽はひそかに思う。久々に会った親戚のおじさんを嫌がる、中学生男子みたいである。


 そっと、無名の隣に立つかみさま――ヤオバミ様を見る。真っ白な顔に血のような瞳。あのとき、祠を壊したときにいた、不思議な蛇と同じ色。

 もしかして、あれは、ヤオバミ様自身だったのかもしれない。


「そんなに警戒しなくても、今日は忘れ物を返しにきただけだよ。それももう終わった。聞きたいことも聞けたしね」


 はっと息を呑む。真偽は思わず口を出していた。


「せ、先輩に、何もしていませんか」

「うん? ああ……言っただろう、返しに来ただけだ。さっきの欠片は彼のものだろう?」


 その通りだ。あのガラス片は浅海蒼輔のたましいの欠片である。散らばった十二の破片のうちの一つ。真偽が必死に探し求めているもの。


「私が加護を与えた者が迷惑をかけたね。あの子はよくやってくれていたほうなんだが……私の子の遺体をわざと傷つけさせて、要りもしない人間を勝手に捧げたからね。きちんと処理したよ」

「え」


 あの子……とは、まさか。

 銀のナイフを村長に突き刺したときの感覚が、不意に左手によみがえった。

 目を見開いた真偽に、彼はくすりと笑った。


「まさか、私が加護を与えた人間が、あの程度で死ぬと思ったのかい? 人の子は可愛いね。無理だよ。私がきちんと加護を取り上げて蛇にしておいてあげたから、安心おし」


 何も安心できない。優しげな顔をしているが、彼もかみさまなのだ、と体の芯が冷たくなる。

 だが、何も答えられないでいるうちに、彼は浅海にするりと視線を移した。


「それにしても、惨いことをするね。その子、頭の中を弄っているんだろう?」

「……っ、それ、は」


 真偽は視線を下ろした。浅海の薄い胸が上下するのを見て、きゅっと唇を噛む。

 浅海蒼輔の今までの記憶には、いくつか偽りのものが混ざっている。彼が万が一、自分の身に起きていることに気づかないようにするため、無名が行なってくれている措置だ。

 異形と出会うことが、かみさまと関わることが、「ありえてしまうことだ」と思ってしまわないように――何が起きても、自分は普通の人間である、という認識を、消さないように。


 彼は別に、一年前のことが辛くて記憶を封じているわけじゃない。あくまでも無名が蓋をしているだけなのだ。

 彼が「世の中には理屈で説明できないものがある」と心の底から理解してしまったら、一年前の神在月かみありづきの悲劇を、思い出してしまうかもしれないから。

 自分が、何によってたましいを砕かれたのか、気づいてしまうかもしれないから。


「それは……分かっているんです、ダメなことしてるって……」


 本当は、座敷童子の出る宿で出会ったのは殺人鬼じゃなかったし、人魚の末裔が住むという島に監禁されていた女の子なんていなかった。いたのはもっとおぞましいものだ。

 それに、真偽が躊躇なく御札を剥がしたり祠を壊したりするのを、彼女自身の猪突猛進さ故だと浅海は思っているだろうが、それも違う。


 怪異の封印を解こうと神の領域を侵そうと、犬神真偽は絶対に死なないのだ。


 彼女の後ろには、十把一絡じっぱひとからげの怪異では太刀打ちできないほどの神格が、混沌の神が、死神の鎌を持って鎮座している。真偽のたましいは、この神にもうどうしようもないくらいに蹂躙されていて、他の怪異が入ってくる余地なんかないのだ。


 本当は、浅海蒼輔が心配することなんて何もない。

 でも、知られるわけにいかない。彼がこれ以上、彼岸に近づかないために。


 黙り込んだ真偽を見て、白髪の神は顎に手を当てた。


「ふむ……なるほど。無名が好きそうな子だ」

「え?」

『爺は黙ってくれませんかね』

「だったらもう少し、愛し子には優しくしてやるんだね。お前は愛でて愛でて、愛ですぎて壊してしまうのが玉にきずだ」


 なんだか、真偽には分からない話が進んでいく。困惑したまま黙っていると、無名に睨まれても全く怯まないかみさまが、優しげに笑った。


「真偽。あといくつだい?」

「え……」

「その子の命、あといくつ残っている?」


 それが、浅海蒼輔のたましいのことを指していると気づくのに、少し時間がかかった。いつの間にか乾ききっていた口の中を湿らせて、どうにか答える。


「五つ……いえ、四つ、です」

「そうか。折れてしまわないようにするんだよ」

「え?」


 首を傾げた真偽に、ヤオバミ様は言った。


「なんだか、そちらの子よりも、君のほうが先に折れそうだ」

「……え……」


 呆然とする真偽を置いて、男はするりと去っていく。不機嫌に鼻を鳴らす音が聞こえたかと思うと、無名もいつの間にか消えていた。


 二人がいなくなると、途端にその場がしんっと静まり返る。痛いくらいの静寂に、真偽はか細く呼吸を繰り返した。


 ぎこちない動きで浅海を見ると、彼は死んだように眠っている。呼吸なんか、とっくに止まっているんじゃないかというほど静かだ。


「せ……先輩、先輩、起きて」


 力の入らない手で、何度か彼を揺さぶる。

 だが、彼は起きない。完全に寝入っている。

 ……本当に?


 本当に、眠っているだけ?


「先輩、起きて……」


 腕を掴み、ゆさゆさと強めに揺する。それでも起きない。


 真偽はもうほとんど泣きそうだった。大丈夫、大丈夫、と理性が頭の中で呟く。でもそれは、自分に言い聞かせていないとダメになってしまうからにすぎない。


「先輩、先輩……!」


 ヤオバミ様が言ったことは半分当たっていて、半分外れている。


 真偽の心はもう折れているのだ。あの日、自分のせいで彼のたましいが砕けてしまったときに、もう取り返しのつかないくらいに折れている。元に戻るか分からないくらいに、心が砕け散っている。

 それでも。

 それでも、この罪を償うまでは。


「先輩、起きて!」


 肩を強くゆすったとき、浅海のまぶたがぴくりと震えた。うっすらと開いた目が、真偽の瞳とかち合う。


「は……犬神……?」


 その場に膝をついていた真偽は、座っている浅海とほとんど視線の高さが同じだった。頭の上にクエスチョンマークを浮かべた彼が、ぼうっとした瞳で手を伸ばしてくる。


 ぽん、とその手が、真偽の頭に乗った。


「何……本当にいる……? 幻覚じゃねえ……」


 幻覚?

 どうして急にそんなことを、と思ったとき、彼の手がするりと降りて、真偽の頬をすべった。


「何、泣いてんの、お前……」

「え……」


 そのとき初めて、ぼたぼたと涙が落ちていることに気づいた。彼の手が、不器用な動きで水滴を拭う。


「犬神って、泣くこと、あるのか……」


 その言葉を聞いたらもう、駄目だった。

 ぐしゃ、と顔が歪む。視界の中の浅海がぐにゃりと曲がって、視界があっという間に水の膜を張って、何も見えなくなる。


「せ、先輩がっ……先輩がっ……」

「え、俺が何……」

「先輩が、倒れるからじゃっ、ないですかあ!」


 うわん、とカフェテラス中に響くような大声で、真偽は泣いた。枯れきったかと思っていた涙が、ぼたぼたと床に落ちていく。

 ぎょっとした彼の手にすがりついて、真偽は泣いた。もう、どうして自分が泣いているのかも分からない。全て自分のせいなのに。自業自得なのに。


 それなのに、駄々っ子のような泣き声が止まらないのだ。

 彼の手を強く掴んで、その手の甲を自分の額に当てる。温かさに何度も嗚咽をこぼす。毎回毎回、彼の胸にガラスが押し込まれるのを見るたびに、こんなにも死にたくなる。


 死にかけているのは浅海蒼輔のほうなのに。

 全部、全部、真偽のせいでこうなっているのに。


「お、おい……なんか、よく分かんねえが……泣くなよ……」


 意識が戻ったばかりだからか、真偽が大泣きするところをほとんど見たことがないからか、彼は困り果てた声で言った。労わるように、真偽の頭を撫でる。


「泣くなよ……」


 その温かさに、真偽はまた泣いた。もう、これ以上何も、彼の中から奪わないでくれと願う。

 神には祈れないから、流れる星に託すように、真偽はひっそりとこいねがった。


 浅海蒼輔が元に戻りますように。

 自分が地獄に落ちてでも、彼が普通に戻れますように、と。

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