帰路

 浅海蒼輔が目を覚ましたとき、彼は上空をかっ飛んでいた。


「……は?」


 ぐるりと辺りを見回す。灰色の狭い場所がまず視界に入り、次いで柔らかな座席に座らされているようだと気づく。さらに、背中から腰にかけての振動が、なんか動いているな自分、ということを伝えてきた。


 しばし呆然とした後に、急速に状況を理解する。すなわち、いつのまにか自分は、何か動く乗り物に乗せられているようだ――ということを。


「は!?」


 がばっと勢いよく身を起こす。咄嗟に横を向けば、視界に窓が映ってさらにぎょっとした。眼下に広がるのは青空と、水平線まで広がる野山だった。あれはもしかして、龍蛇村を取り囲む山々だろうか? つまり自分は今、空を飛んでいるのか?

 何がどうしてこうなった? と混乱したところで「あ、先輩、起きました?」と声がした。


 ばっと振り返ると、隣の座席には犬神真偽が座っていた。にこにこと笑って、浅海を見ている。


「は……え? 何、お前、これ……」


 浅海はとにかく大混乱したまま眉根を寄せる。ここまで来れば徐々に自分の状況が分かってきた。自分が乗っているのは多分、あれだろう。犬神家が個人所有しているヘリコプターだ。相変わらずわけのわからない家である。

 だが、いつのまに自分はヘリコプターに乗ったのか?

 すると、犬神は何度か瞬いて、ぽんと手を打った。


「ああ、そっか。浅海先輩、気絶してたから」

「は?」

「ええっと、浅海先輩、さっき襲われて倒れちゃったでしょう? あのあとすぐにヘリが来てくれて、私たち、助けてもらえたんですよ」


 瞬間的に記憶が蘇って、浅海はあっと声を上げる。

 そうだ、あのとき――


「犬神! 怪我は!?」

「ひょえ!?」


 がしっと彼女の両腕を掴んだところで、ぐらりと脳が揺れた。視界が波打つようにたわんで、平衡感覚を保っていられなくなる。

 あ、ダメだ、と思った瞬間、犬神が素早く浅海の頭を掴んで、自分の膝にぽすんと乗せる。


「ダメですよ先輩。まだ本調子じゃないんですから……あと私、どこも怪我してません」


 ぐるぐると回る視界の中で、浅海は呻く。だが、確かに彼女の声には覇気があったし、どこも問題なさそうな雰囲気だった。ほうと息を吐く。


「そう、か……」

「……先輩、さっきのこと、覚えてますか?」

「あ?」


 さっきのこと?

 何を言われているのか分からず、浅海は訝しげに眉を寄せる。さっき……さっきとは?


「いや、よく……分からん。分からないというか、あんまり覚えてなくて……なんかあったか? 俺が気絶するまでに……」

「ああ、えっと、気絶する前じゃなくて――うーん、やっぱいいです、覚えてないなら、それで」


 にこ、と彼女が笑った、ように見えた。

 だが、その顔はあまりに寂しげで、なんともいえない気分になる。別に何も悪いことなんかしていないはずなのに、妙に罪悪感の湧いてくる顔だった。

 自分が、何かとても大切なことを、忘れているような……


「ごめんなさい、先輩。変なこと言いました。まだ寝ててください。先輩は今本当にぼろぼろなんですから」

「いやお前……誰のせいだと……」

「分かってますよ、私のせいです」


 あっさり頷かれて、浅海は動きを止める。ひとりぼっちの迷子みたいな声で、犬神が言った。


「全部、私のせいなんです。ごめんなさい、先輩」

「犬神……?」


 思わず手を伸ばして、彼女の頬をこすった。いつもならそんな距離感を間違えた行動はしないが、なんだか彼女が、泣いているような気がしたのだ。

 だが、浅海の指が濡れることはなかった。柔らかな頬に指が沈む。彼女が笑って、その手を掴んだ。


「いいんです。先輩。ごめんなさい」

「何を……」


 謝っているんだ、という言葉は、音にならなかった。急に訪れた眠気が、浅海の頭を支配する。頬をこする指から力が抜けて、ほとんど彼女に掴まれているだけになってしまった。


「おやすみなさい、先輩。良い夢を」


 お前は? という言葉を、言いたかった。お前も、ここ数日、ろくに眠れてないんじゃないか、と。

 だが、それもまた音になることはなく――浅海の意識は、あっさりと深くまで沈んでいった。







 静かになったヘリの中で、不意に、運転席から軽やかな声がする。


『危なかったね、愛し子』


 くすくすと笑うかみさまの声に、真偽まきはゆっくりと視線を上げた。

 無言の彼女の前で、ヘリコプターを運転する燕尾服の男が笑う。相変わらず、男なのか女なのかが判然としない、奇妙なほど心地の良い声だ。


『分かっているよね、愛し子。君が今していることや、彼の魂がどうなっているのかを、彼に知られてはいけないよ』


 囁くような言葉は、契約の戒めの一つだった。


『他の人間はいい。だが、浅海蒼輔にこの計画を知られたら……彼自身が、自分の身に何が起きているのかを知ってしまったら、君は、彼を取り戻す手段を永遠に失うことになる。僕が彼を動かしている糸を、切ってしまうからだ』

「分かってるよ、ナナシさん」


 彼の頭をぎゅっと抱えて、犬神真偽は決意を固めた声で言う。


「全部、ちゃんと分かってるよ」


 ヘリコプターの操縦席から、軽く困惑したような気配が漂う。


『僕をそんなふうに呼ぶ子、あんまりいないんだけどな……ていうか、皆無なんだけど。君にはちゃんと無名むめいって名乗ったよね?』

「うん? だから、ナナシさんでしょう?」

『うーん、噛み合わないな……』


 そんなことはない。真偽は知っているのだ。みだりにかみさまの名を呼んではいけないということを。

 それもまた、祖母の教えの一つである。

 まあ、祖母の一番の教えを破っておいて、今更かもしれないけれど。


 でも、真偽は全く後悔していない。この、名も無きかみさまに祈ったことも、そうして彼の命を繋いだことも。

 これで良かった。あのときは、これが最善だった。そうであるはずなのだ。

 大丈夫、と自分に言い聞かせる。

 大丈夫。自分は全てを成し遂げる。浅海に気づかれぬまま、彼のたましいを全部取り戻してみせる。


 もうそれしか、犬神真偽には、選択肢が残されていないのだから。

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