第二話 白 霞、恋心に悩む事。

 夜。

 ハク は、自分の部屋でひとり、物思いに沈んでいた。


(あたしはオウ クヮに恋をしてしまった。

 ……どうしたら良いだろう?)


 オウ クヮは、遣唐使。いずれ日本に帰る。ハク の結婚相手にはなり得ない。

 ハク は唐女。唐女は、唐の国外には出れない。


 雑胡ざっこ(ハーフ)である 嬉嬢キジョウは日本に行ける。


 ハク も、胡人こじん(コーカソイド)と唐人の雑胡であるが、母親は、もと細婢さいひ(レアランクの女奴隷)だったのを、父親が妻にする為に、唐人の養女にしてから、結婚した。戸籍上は、唐人同士の夫婦の娘、なのである。

 だから、唐の国外には、出れない。

 たとえ、 嬉嬢キジョウ仕女しじょになったとしても、だ。


オウ クヮに、恋してます、長安にいる間だけ恋人になってくださいと言う?)


 ハク の唇にさびしい笑みが浮かぶ。


オウ クヮはどれくらい長安にいるのだろう? 他の国の遣唐使は、元旦朝賀が終わったら、一月、二月くらいで帰るって聞いたことがあるわ。

 そんな短い間、恋仲になれても、あたしは満足できるんだろうか?

 きっと、オウ クヮのことをすごく愛してしまう。

 心の支えにするほどに。

 オウ クヮと別れる時には、傷つき、心が引き裂かれるように感じて、あたしは、今よりもっと弱くなってしまう。それが怖い。

 どうしようもなく怖い。

 あたしは一人になる。恋仲になったあとに訪れる寂しさ。あたしは耐えられる気がしない。)


 寝台に腰掛けたハク はうつむく。


(なんと大人とは弱いのだろう!

  セイと結婚する前の十五歳のあたしなら、こんな事は思わなかった。

 天真爛漫に恋を楽しみ、恋した男の胸に飛び込むのに、こんなに躊躇ちゅうちょする事はなかったはずだ。)


 ……実際に飛び込んだのは セイの胸だったのだが……。


(十五歳の時は、無邪気だった。何も怖くなかった。自分が弱いだなんて、思いもしなかった。

 あの若さは、どこに行ったのだろう?)


 ふと、手鏡が目についた。ハク は手鏡をとり、そこにうつった自分の顔を見る。

 そこには、三十歳、年相応の女がいた。

 目尻は、若い頃よりさがっている。

 顎の輪郭も、垂れて丸くなっている。

 なにより、毛穴が開いた。

 肌質が、若い子とは違う。輝くような若い子とは……。


オウ クヮは、あたしのことをどう見ているのだろう?

 オウ クヮの目には……。)


 オウ クヮは思わせぶりだ。

 ハク に嬉しそうに微笑みかけ、手のひらに口づけし、それは日本では友人の証だと言っておきながら、嘘だと明かす。

 きっと好意を……。


 いや、どうだろう?

 彼にはあれで、日本に恋する女がいるのだ。

 ハク には友情を感じているのだと、はっきり口にしたのだ。

 関係性は友人なのだ。


(どうして人は年をとるのだろう?

 …… セイと結婚する前に、オウ クヮに会いたかった……!)


 三十歳の阿姨あい(おばさん)ではなく。

 光り輝く若さを持った、十五歳の女として。

 あの頃のハク は、茶肆ちゃし木蘭のしょう蒼玉ラズワードと呼ばれ、たくさんの男がハク に笑いかけ、気をひこうとし、求婚者も大勢いた。


(あの姿で会いたかった。)


 そしたら、いくらか、オウ クヮハク を見る目も変わったかもしれない。日本という国にいる女を忘れるくらい……。


オウ クヮも、遣唐使ではなく、長安に生きる若者であったなら。

 あたしは、 セイに恋して結婚相手に選んだけど、もし、オウ クヮが隣にいたら、あたしは セイを選ばないで、オウ クヮに恋をしていたはずだ。自信がある。

 オウ クヮ セイなんて比べものにならないくらい、美形で、かっこいい。 セイの優しさは偽物だったけど、オウ クヮの優しさは本物だ。十五歳のあたしも、それはわかるはず。)


「う……うわぁ……。」


 たまらず、ハク むせび泣いた。


「うぁぁぁぁぁ……。」


(このように想像したって何の意味があるの。時は戻らない。ここにいるのは三十歳の阿姨あい。離婚して実家に戻ってきた女。何の希望もない。

 オウ クヮはいずれ日本に帰る。

 あたしはきっと、彼に何も言えない。恋人になってほしいと言えない。一人になるのが怖いから。せいぜい、今、ぎくしゃくしてる状態から仲直りして、良き友人としておつきあいするだけよ。

 そしてオウ クヮは去っていく。

 あたしは長安で、この先も、母親と、お見合いしたくない、と押し問答をしながら暮らしていくんだわ。

 そうやって生きて、年をとっていくんだわ。

 どうしてオウ クヮに恋をしてしまったの?)


 そこまで考えて、


 ───彼が中身がかっこいい人だから。


 と、自分の頭のなかで、回答が聞こえた。


「あたしのバカ!」


 ハク は泣きながら、自分をなじった。

 理性では、どうしようもない恋など諦めたほうが良い、とわかっているのに、はっきり自覚した恋心は、明瞭に彼に恋してる、と主張をする。






     *    *    *






 ハク はお嬢様育ちゆえ、自分が(女奴隷)に身をやつし遣唐使船に乗る、という発想がない。

 馬と同様の扱いをされるが、どのように惨めな存在か、長安育ちの彼女は良くわかっているからだ。


 そして、たとえのフリをしても、遣唐使船は婢を乗せることはない。

 経典、財宝、唐で学びを終えた留学生や唐から日本に行きたいと表明した人材。全てを運ぶには船は狭すぎる。

 遣唐使船はいつも、行きも帰りも、船の限界まで積荷を積み込む。

 婢を乗せるくらいなら、経典を乗せる。

 それが日本の遣唐使船だ、ということを、この時のハク は知らなかった。


 つまり、唐女のハク は、 嬉嬢キジョウ仕女しじょでも、のフリをしても、日本には行けないのである。







 ハク は、この恋心をどうしたら良いかわからない。

 わからぬまま、


オウ クヮに会いたい。)


 と思ってしまう。

 恋焦がれる男の顔を見たい、それは女の本能である。








 翌日。


 ハク の待ち望む客、美貌の遣唐使、オウ クヮ茶肆ちゃし木蘭もくらんに来なかったが───。

 

 ハク が顔も見たくなかった客が、茶肆ちゃし木蘭に来た。





     

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