遣唐使の恋
加須 千花
第一話 李 霞、夫の浮気現場を目撃し悲嘆にくれる事
広い屋敷を、若い
「旦那様、お水をお持ちしました。」
戸を開けたことで、一月の凍える冷気が、ヒュゥ、と部屋にはいり、壁に飾られた
この部屋は、本が沢山置いてあるだけでなく、豪華な調度品で飾られている。
それは、ここが絹の道(シルクロード貿易)の贅沢品を扱い、成功した商家の住まいだからだ。
「水? 頼んでなかったが、まあ良い。机に置いておけ。」
この
「はい。」
机には、香木をあしらった木箱が置いてあり、ふわりと甘い匂いを放っている。
無造作に蓋が開き、なかに、
(欲しい。)
若さがはちきれんばかりの、女盛りだ。
気の強さがあらわれた、きつめで大きな目。
艶めいて肉感的な赤い唇。
くびれた腰、たっぷりとした胸。
(欲しい。翡翠の首飾り。
あたしも、この男から、このような首飾りを貢がれたい。
わかってる。これが奥様への裏切りになることは。
奥様に恨みはない。
でも、あたしは欲しい。
青い目で、たおやかで、美しい奥様。
奥様は、何でも持ってる。あたしは何一つ、持ってないのよ。
高価な品物を持ち。贅沢に着飾り。何不自由なく微笑む。
あたしも、その金持ちの世界に行きたい。)
半透明の
「きゃっ、申し訳ございません!」
三十代なかば、顔だちは整ってると言えよう。雄々しさと、少しの残忍さが目の奥に潜む。
「おいおい、それは
粉々じゃないか!
どれだけ高価な品物だと思っている?!」
「お許しください!」
「打ってくださいませ。」
「おい……。何も脱げとまでは言ってないだろう。」
ぎょっとしたように、
案の定、
「いいえ、いいえ、打ってくださいませ。あたしがもといた家では、
「ん……?」
半年におよぶ長い旅。
その間に奥様に拾われた
「家が火事で、父親が死にました。もとより母はなく、帰る家を失い、頼れる者もなく、兄と途方にくれているところを、奥様に拾っていただきました。
父親は、
嘘は言っていない。
「
一人の妻。
五人の
のみならず、
法律に違反はしてないが、あきらかに女の数が多すぎる男だ。
(だから、これでおとせるはずだ。
「旦那さまァ……。」
「お疑いですか?
あたしは、男と
もし、
家婢は家の主から、
「ふん……。」
無言で
* * *
───女の幸せとは、なんだろう?
もともと、
男の客から、
「今日も可愛いね、
「白 霞の目は、母親譲りで、綺麗な青さだなぁ。」
「
「ああ、本当だ。」
「
と、良く声をかけられた。
母親も同じように青い目で、
娘である
客として通ってきていた
「
あなたの目は、正真正銘、最上級の
オレもあなたが目当てで通ってるんですよ。」
と口説かれた。
(顔がかっこいい。)
そう思った
「オレは未婚です。あなたを妻にしたい。あなたなら、オレの母に
両親に相談した。
「
と喜ばれ、結婚した。
幸せに初夜をむかえた。
だが、翌朝、
広い屋敷に、同居である。妾とは同居させるもの。別宅に追い出すと、嫉妬深い妻と世間から笑わるのだ。
「い、嫌っ!
未婚だって言ったじゃない!」
「妻ははじめて
「霞姐姐(お姉さま)、仲良くしてくださいまし。フフフッ。」
五人の女たちは結託して笑った。
皆、年上だった。
霞姐姐、と言うことで、妻としてたてている、という体裁だが、世間知らずの小娘め、と
「五人なんて! 多すぎよ!」
「おまえは妻で、オレは夫だ。夫のする事に口を出すんじゃない。実家に帰るか? ん?」
「帰るわ!」
霞は決然と言った。
「馬鹿な女だ。」
と
霞は、実家に帰った。が、茶肆はその日、商いを休んで、扉がかたく閉じられていた。
霞は、扉を叩いた。
「あたしよ! なかにいれて!」
「結婚した女はそうやすやすと実家に帰るものじゃありません。もう、おまえの家はここじゃない。」
お母様の声がした。
「話を聞いて! お母様、
「知っていましたよ。」
「えっ?」
「
他に妾がいようとも、妻と妾は違います。妻は一人なんだから。おまえが一番大事にしてもらえば、それで良いのです。」
「嘘つきっ! 際限なく妾を作る男も、結婚しても平然と浮気をする女も、汚らわしいって言ってたじゃない!」
だん、と怒りにまかせて扉を叩く。
「………とにかく、おまえはもう、白家の者ではありません。李家にお帰り。」
「お母様っ!」
「李家の父母に、夫に尽くしなさい。」
「お母様! お母様……!」
人の気配が扉の向こうから消えた。
見捨てられた。
扉は開かなかった。
女とは、嫁げば、家を失うものなのだ。
それが身にしみた。
十五歳の霞は、他に行くあてもなかった。
泣きながら夫のもとに帰った。
霞はうなだれて李家の屋敷の門をくぐり、
(冷たい人だ。)
そう思った。
「…………戻りました。」
「馬鹿な女だ。自分の馬鹿さ加減がわかったか。」
悔しさがこみあげた。
「あたしは馬鹿では……!」
「わかってないようだな? おまえが妾の数が多すぎると騒ぎだしたんだろう?
オレはおまえをちゃんと妻として扱ってやってる。それを
(たしかに騒ぎたてたのは、あたしだ。)
「
せいぜい、李家に帰って尽くすのが婦人の道だと説得されたろう?
それが道理だからな。
おまえ以外は、皆、ちゃあんとわかってるんだよ。
わかってないのは、お前だけだ。自覚できたか?」
「…………。」
(そうなのかもしれない。でも。)
「妾が五人もいる生活なんて、耐えられません。」
「おいおい。まだわかってないな?
本当に馬鹿なのか?
自分ほどの美女はこの世にいないと。」
「そんなことは……。」
(思ってない。)
「思ってないと言おうとしたな?」
「!」
「でもおまえは、思ってるんだよ。そんな卑しい思いを持ってるから、目が曇るんだ。」
(……そうなのかしら?)
「良く聞け、たしかに
霞より背が高い女も。
霞よりふくよかで立派な身体つきの女も。
霞より歌がうまい女も。
霞より踊りがうまい女も。
霞よりよっぽど閨房の技がうまい女もいる。」
「いやっ!!」
(汚らわしい!)
あまりの屈辱に、悲鳴をあげそうになり、ブルブルと震えた。
「霞、落ち着けよ。」
「霞のなぁ、魅力は、この育ちの良い、おかたいところだ。
オレだけがわかる、霞の魅力なんだよ。
霞は、自分で思うより平凡な女なんだ。何もできない女なんだよ。
おまえは妻で、オレは夫だ。オレがついてる。愛してるよ。さあ、おいで……。」
にやにや笑う妾たちに見送られ、夫に肩を抱かれて閨房まで歩き、褥を共にした。
夫の愛してるよ、という言葉は空虚に響いた。
それでも、その言葉をたのみにするしかない。
抱かれれば、身体は火照る───。
子供を授かる事ができれば良かった。
子供を授からぬまま、一年すぎ、二年すぎ───。
夫は、仕入れの旅で、一年のうち、半年は不在にした。
長安にいる時は、昼間は毎日、霞と一緒に
「馬鹿な女だな。」
と不愉快そうにした。
「おまえは何もできない女だな。」
と満足そうに笑った。
そして夜になると、夫は妾たちの部屋に消え、七日に一回は、霞を抱く。
霞は、嫁ぎ先の商いに慣れるのと同時に、この生活に慣れた。
五年すぎ、十年すぎ───。
「まだ子供はできないのかい。この時代、
しょうがない嫁をもらったものだよ。
おまえは商売は良く見れるから、この屋敷に置いてやってるけど、そうでなければ、とっくに離婚させて、実家に帰してるよ。」
「申し訳ありません。お義母様。」
あいかわらず、夫は、妾たちの間を行ったり来たりだ。
毎日、お茶の時間に義母の相手をし、
十五年過ぎた。
霞は三十歳になった。
(このように人生とは過ぎていくものなのだ。)
霞は、そう思うようになった。
だが、この生活が幸せなのか。
女の幸せとは何なのか。
それだけがわからない───。
* * *
霞が日課である義母とのお茶を終え、庭を歩いていると、
「旦那さまは書斎にこもりっきりになりたいと仰せなんだから、今は掃除なんて良いんだよ! あっち行け、しっ、しっ。」
若い
(人払いとは珍しい。)
「何かあったの?」
「あっ、奥様! はい、ここから先はご遠慮を……。あわわ……っ!」
家婢はひどく慌てた。なにかおかしい。
霞は家婢を押しのけ、書斎に入った。
机の上で若い女を組み敷く夫の姿があった。
(汚らわしい。)
霞は凍りついたように立ち尽くした。
大きく足を開いた女は、半年前に路頭に迷っていたのを霞が拾って助けてやった女だった。
「きゃっ! 奥様!」
全裸の女は素早く足を閉じ、胸を腕で隠したが、その口元が、ニヤリ、と勝ち誇ったように笑ったのを、霞は見逃さなかった。
屈辱で目の前が真っ赤に染まるほど、頭に血がのぼる。
「チッ、勝手に書斎の扉を開けるな。
いつまでたっても分からず屋の女だな!」
衣をなおす夫は悪びれる様子もない。
霞の目に涙が浮かんだ。
(もう我慢の限界よ!)
霞は、そばにあった
床にはなぜか
高い音をだし、白い玉壺は粉々に砕けた。
「一片冰心在心在玉壺!(※注一)
(
玉壺は砕けた。
もうもとに戻ることはない。
(これがあたしの気持ちだ!)
「つけあがるな!」
バキッ! と音がして、左頬に雷のような痛みが炸裂した。
「きゃっ……。」
殴られた。
夫に殴られて、身体がかしぎ、床に手をついた。
瑠璃の破片で手のひらが
(殴られた。殴られた。殴られた……。)
驚きすぎて、言葉を頭のなかで
(夫は、殴った! あたしを、殴った!)
「オレにそんな反抗的な態度をとったら、駄目だろう!
打是親、罵是愛、棒槌底下出好布!
(殴るのも叱るのも愛だ。良い布は
夫は霞に馬乗りになり、
霞は悲鳴をあげ、今までの人生で味わったことのない痛みに恐怖し、心の底から怖いと思った。
やっと夫が腹の上からどいた。
「うわあああああああ!」
霞は叫び、泣き、怪我をした手を握りしめ、刺さった瑠璃の破片でさらに傷が深くなるのにも気が付かず、書斎から飛び出した。
「もう嫌──────っ!!」
(もう嫌だ。耐えられない。離婚よ!)
十五年ぶんの我慢が弾けとんだ瞬間だった。
* * *
↓手描きの挿絵です。
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093089476277070
(※注一)……
[参考] 中国名詩鑑賞辞典 山田勝美 角川ソフィア文庫
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