遣唐使の恋

加須 千花

第一話 李 霞、夫の浮気現場を目撃し悲嘆にくれる事

 大暦だいれき十二年(777年)。


 とう長安ちょうあん


 広い屋敷を、若い家婢かひ(召使いの女)が歩く。

 

「旦那様、お水をお持ちしました。」


 家婢かひ── 薔薇ショウビは、赭支しゃし(チャーチ、現ペルシャのタシケント)産の瑠璃るり(ガラス)の水瓶すいびょうを盆に載せ、書斎に入った。


 戸を開けたことで、一月の凍える冷気が、ヒュゥ、と部屋にはいり、壁に飾られた吐蕃とばん(チベット)産の毛織物の四方から垂れる、柔らかいヤク牛の尻尾のふさが、さわ、と揺れた。


 この部屋は、本が沢山置いてあるだけでなく、豪華な調度品で飾られている。


 それは、ここが絹の道(シルクロード貿易)の贅沢品を扱い、成功した商家の住まいだからだ。


「水? 頼んでなかったが、まあ良い。机に置いておけ。」


 この珠玉しゅぎょくこう(宝石商)の跡継ぎ、 セイは、椅子に腰掛けたまま、机で何か書き物をし、薔薇ショウビを振り返らずに言った。


「はい。」


 机には、香木をあしらった木箱が置いてあり、ふわりと甘い匂いを放っている。

 無造作に蓋が開き、なかに、于窴うてん新疆しんきょうウイグル自治区)産の翡翠ひすいの首飾りが見えていた。

  セイが女に贈るつもりの品だろう。


(欲しい。)


 薔薇しょうびは十六歳。

 若さがはちきれんばかりの、女盛りだ。

 気の強さがあらわれた、きつめで大きな目。

 艶めいて肉感的な赤い唇。

 くびれた腰、たっぷりとした胸。

 薔薇しょうびは、自分がそれなりに美人であることに自信を持っている。


(欲しい。翡翠の首飾り。

 あたしも、この男から、このような首飾りを貢がれたい。  

 わかってる。これが奥様への裏切りになることは。

 奥様に恨みはない。

 でも、あたしは欲しい。

 青い目で、たおやかで、美しい奥様。

 奥様は、何でも持ってる。あたしは何一つ、持ってないのよ。

 高価な品物を持ち。贅沢に着飾り。何不自由なく微笑む。

 あたしも、その金持ちの世界に行きたい。)


 薔薇ショウビは、ニッ、と笑うと、机に置いた水瓶すいびょうをわざと下に落とした。

 半透明の瑠璃るり(ガラス)は、木の床にあたり、───カシャン、と高い音をたて、割れた。


「きゃっ、申し訳ございません!」


  セイが鋭く振り返った。

 三十代なかば、顔だちは整ってると言えよう。雄々しさと、少しの残忍さが目の奥に潜む。

  セイは怒りをあらわに、さっと立ち上がった。


「おいおい、それは赭支しゃし産の瑠璃るりじゃないか?!

 粉々じゃないか!

 どれだけ高価な品物だと思っている?!」

「お許しください!」


 薔薇ショウビは、さっとほう(上衣)を脱ぎ捨て、へそから上、白い肌をさらし、その場で───瑠璃の破片を器用に避けながら───膝をつき背中を セイに見せ、額を床につけるくらい、小さくなった。


「打ってくださいませ。」

「おい……。何も脱げとまでは言ってないだろう。」


 ぎょっとしたように、 セイが言う。

 家婢かひ家奴かど下男げなん)を叱る時に、裸をムチで打擲ちょうちゃくする事はあり得るが、こうやって家婢かひが自ら進んで脱ぐことはない。

 案の定、 セイは驚いたようだ。


「いいえ、いいえ、打ってくださいませ。あたしがもといた家では、家婢かひをこのようにしつけていました。あたしはもとは、それなりの家の良民(平民)だったのです。」

「ん……?」


  セイは、最近、買い出しの旅から帰ってきた。

 半年におよぶ長い旅。

 その間に奥様に拾われた薔薇ショウビのことは、詳しく知らないはずだ。


「家が火事で、父親が死にました。もとより母はなく、帰る家を失い、頼れる者もなく、兄と途方にくれているところを、奥様に拾っていただきました。

 父親は、 道俊ドウシュン、下級官吏でした。調べてくだされば、嘘ではないとわかりますわ。」


 嘘は言っていない。

 薔薇ショウビはあふれそうな胸を腕で隠しながら、ゆっくり立つ。


家婢かひの身分ではありませんのよ。」


  セイは女好きだ。

 一人の妻。

 五人のめかけがいる。

 のみならず、妓楼ぎろうにまで定期的に通っている始末だ。

 法律に違反はしてないが、あきらかに女の数が多すぎる男だ。


(だから、これでおとせるはずだ。家婢かひ仲間に人払いも頼んだ。邪魔は入らない。勝負よ!)


「旦那さまァ……。」


 薔薇ショウビは甘ったるく微笑み、鼻にかかった声をだし、もったいぶりながら、胸の前で交差していた腕をほどいて、両腕を広げた。


「お疑いですか?

 あたしは、男としとねを共にしたことはありません。それが一番の証拠です。」


 もし、薔薇ショウビの話が嘘で、昔から家婢かひなら、この年齢、この美貌で、自分の身体を男から守りきれないであろう。

 家婢は家の主から、夜伽よとぎを命令されたら、拒否はできないのだ。


「ふん……。」


  セイは、興味をひかれたように、薔薇ショウビの顔を見た。じっくり胸を見て、腰を見て、ニヤリと好色な笑みを浮かべた。

 無言で薔薇ショウビの腕をとり、書斎の机の上に乱暴に押し倒した。





    *   *   *






  セイの妻、 は、思う。




 ───女の幸せとは、なんだろう?




 もともと、 は、大きな茶肆ちゃし(喫茶店)の主の娘で、ハク という名前の看板娘だった。

 男の客から、


「今日も可愛いね、ハク 

「白 霞の目は、母親譲りで、綺麗な青さだなぁ。」

康国サマルカンド(現ウズベキスタンの一都市)産の蒼玉ラズワード(ラピスラズリ)みたいな目だよ。」

「ああ、本当だ。」

ハク の顔を見たくて通ってるよ。」


 と、良く声をかけられた。

 母親も同じように青い目で、茶肆ちゃし木蘭もくらん蒼玉ラズワードと呼ばれていた。

 娘であるは、しょう蒼玉ラズワードと呼ばれた。



 客として通ってきていた セイに、


康国サマルカンド蒼玉ラズワードなら、うちの珠玉しゅぎょく(宝石店)でも扱ってる商品です。

 あなたの目は、正真正銘、最上級の蒼玉ラズワードの輝きだ。美しい。

 オレもあなたが目当てで通ってるんですよ。」


 と口説かれた。

 ハク は、十五歳。

  セイは、十九歳。


(顔がかっこいい。)


 そう思ったは、何回か街歩きを楽しみ、優しい人だと満足した。


「オレは未婚です。あなたを妻にしたい。あなたなら、オレの母につかえ、うちの珠玉しゅぎょくを支える妻となってくれそうだ。」


 両親に相談した。


門当戸対もんとうこたい(家柄が釣り合う)。良い相手ね。」


 と喜ばれ、結婚した。

 幸せに初夜をむかえた。


 だが、翌朝、めかけが五人もいると、知った。

 広い屋敷に、同居である。妾とは同居させるもの。別宅に追い出すと、嫉妬深い妻と世間から笑わるのだ。


「い、嫌っ!

 未婚だって言ったじゃない!」

「妻ははじめてめとった。」


  セイは悪びれず言った。


「霞姐姐(お姉さま)、仲良くしてくださいまし。フフフッ。」


 五人の女たちは結託して笑った。

 皆、年上だった。

 霞姐姐、と言うことで、妻としてたてている、という体裁だが、世間知らずの小娘め、とあなどる視線も感じた。


「五人なんて! 多すぎよ!」

「おまえは妻で、オレは夫だ。夫のする事に口を出すんじゃない。実家に帰るか? ん?」

「帰るわ!」


 霞は決然と言った。


「馬鹿な女だ。」


 と セイは冷笑した。


 霞は、実家に帰った。が、茶肆はその日、商いを休んで、扉がかたく閉じられていた。

 霞は、扉を叩いた。


「あたしよ! なかにいれて!」

「結婚した女はそうやすやすと実家に帰るものじゃありません。もう、おまえの家はここじゃない。」


 お母様の声がした。


「話を聞いて! お母様、 セイには妾が五人もいたのです!」

「知っていましたよ。」

「えっ?」

門当戸対もんとうこたいと言ったでしょう。おかげでうちの商いも潤いました。

 他に妾がいようとも、妻と妾は違います。妻は一人なんだから。おまえが一番大事にしてもらえば、それで良いのです。」

「嘘つきっ! 際限なく妾を作る男も、結婚しても平然と浮気をする女も、汚らわしいって言ってたじゃない!」


 だん、と怒りにまかせて扉を叩く。


「………とにかく、おまえはもう、白家の者ではありません。李家にお帰り。」

「お母様っ!」

「李家の父母に、夫に尽くしなさい。」

「お母様! お母様……!」


 人の気配が扉の向こうから消えた。

 見捨てられた。

 扉は開かなかった。

 女とは、嫁げば、家を失うものなのだ。

 それが身にしみた。


 十五歳の霞は、他に行くあてもなかった。

 泣きながら夫のもとに帰った。


 霞はうなだれて李家の屋敷の門をくぐり、 セイの前で無言でうつむいた。

  セイは薄く笑い、打ちひしがれた霞を楽しむように、無言でじろじろと見た。


(冷たい人だ。)


 そう思った。


「…………戻りました。」

「馬鹿な女だ。自分の馬鹿さ加減がわかったか。」


 悔しさがこみあげた。


「あたしは馬鹿では……!」

「わかってないようだな? おまえが妾の数が多すぎると騒ぎだしたんだろう?

 オレはおまえをちゃんと妻として扱ってやってる。それをまず、身勝手な嫉妬で騒ぎたてて。何も考えてないんだな?」


(たしかに騒ぎたてたのは、あたしだ。)


、実家に帰ってどうだった?

 せいぜい、李家に帰って尽くすのが婦人の道だと説得されたろう?

 それが道理だからな。

 おまえ以外は、皆、ちゃあんとわかってるんだよ。

 わかってないのは、お前だけだ。自覚できたか?」

「…………。」


(そうなのかもしれない。でも。)


「妾が五人もいる生活なんて、耐えられません。」


  セイは大きくため息をついた。


「おいおい。まだわかってないな?

 本当に馬鹿なのか?

 茶肆ちゃし木蘭もくらんでは、皆、おまえの美貌をちやほやして、しょう蒼玉ラズワードともてはやしていたから、勘違いしてないか?

 自分ほどの美女はこの世にいないと。」

「そんなことは……。」


(思ってない。)


「思ってないと言おうとしたな?」

「!」

「でもおまえは、思ってるんだよ。そんな卑しい思いを持ってるから、目が曇るんだ。」


(……そうなのかしら?)


「良く聞け、たしかにきわった目の色をしていても、おまえくらいの美貌、他のオレの妾たちも持っている。その上。

 霞より背が高い女も。

 霞よりふくよかで立派な身体つきの女も。

 霞より歌がうまい女も。

 霞より踊りがうまい女も。

 霞よりよっぽど閨房の技がうまい女もいる。」

「いやっ!!」


(汚らわしい!)


 あまりの屈辱に、悲鳴をあげそうになり、ブルブルと震えた。


「霞、落ち着けよ。」


  セイがなだめるような笑顔になり、霞の両肩をつかんだ。


「霞のなぁ、魅力は、この育ちの良い、おかたいところだ。

 オレだけがわかる、霞の魅力なんだよ。

 霞は、自分で思うより平凡な女なんだ。何もできない女なんだよ。

 おまえは妻で、オレは夫だ。オレがついてる。愛してるよ。さあ、おいで……。」


 にやにや笑う妾たちに見送られ、夫に肩を抱かれて閨房まで歩き、褥を共にした。


 夫の愛してるよ、という言葉は空虚に響いた。

 それでも、その言葉をたのみにするしかない。

 抱かれれば、身体は火照る───。








 子供を授かる事ができれば良かった。

 子供を授からぬまま、一年すぎ、二年すぎ───。






 夫は、仕入れの旅で、一年のうち、半年は不在にした。

 長安にいる時は、昼間は毎日、霞と一緒に珠玉しゅぎょく(宝石店)に立ち、客には愛想良く接するが、が商売に口出しをすると、


「馬鹿な女だな。」


 と不愉快そうにした。が口を閉じると、


「おまえは何もできない女だな。」


 と満足そうに笑った。

 そして夜になると、夫は妾たちの部屋に消え、七日に一回は、霞を抱く。

 霞は、嫁ぎ先の商いに慣れるのと同時に、この生活に慣れた。





 五年すぎ、十年すぎ───。





「まだ子供はできないのかい。この時代、雑胡ざっこ(唐人と外国人の混血)だからってとやかく言わないけど、子供の一人もできないなんてね。

 しょうがない嫁をもらったものだよ。

 おまえは商売は良く見れるから、この屋敷に置いてやってるけど、そうでなければ、とっくに離婚させて、実家に帰してるよ。」

「申し訳ありません。お義母様。」


 あいかわらず、夫は、妾たちの間を行ったり来たりだ。


 毎日、お茶の時間に義母の相手をし、珠玉しゅぎょくの手伝いをするのは、妻である霞、一人だった。







 十五年過ぎた。

 霞は三十歳になった。






(このように人生とは過ぎていくものなのだ。)


 霞は、そう思うようになった。


 だが、この生活が幸せなのか。

 女の幸せとは何なのか。

 それだけがわからない───。




 


    *   *   *





 霞が日課である義母とのお茶を終え、庭を歩いていると、


「旦那さまは書斎にこもりっきりになりたいと仰せなんだから、今は掃除なんて良いんだよ! あっち行け、しっ、しっ。」


 若い家婢かひ(召使い女)が、掃除桶を持った家奴かど(下男)を追い払っているのが、目についた。


(人払いとは珍しい。)


「何かあったの?」

「あっ、奥様! はい、ここから先はご遠慮を……。あわわ……っ!」


 家婢はひどく慌てた。なにかおかしい。

 霞は家婢を押しのけ、書斎に入った。









 机の上で若い女を組み敷く夫の姿があった。









(汚らわしい。)


 霞は凍りついたように立ち尽くした。


 大きく足を開いた女は、半年前に路頭に迷っていたのを霞が拾って助けてやった女だった。


「きゃっ! 奥様!」


 全裸の女は素早く足を閉じ、胸を腕で隠したが、その口元が、ニヤリ、と勝ち誇ったように笑ったのを、霞は見逃さなかった。

 屈辱で目の前が真っ赤に染まるほど、頭に血がのぼる。


「チッ、勝手に書斎の扉を開けるな。

 いつまでたっても分からず屋の女だな!」


 衣をなおす夫は悪びれる様子もない。

 霞の目に涙が浮かんだ。


(もう我慢の限界よ!)


 霞は、そばにあった西曹国イシュティハン(現ウズベキスタンの一都市)産の白い玉で作られた、親指ほどの小さな壺を手にとり、床に思い切り叩きつけた。

 床にはなぜか瑠璃るりの破片も散らばっていた。

 高い音をだし、白い玉壺は粉々に砕けた。


「一片冰心在心在玉壺!(※注一)

一片いっぺん氷心ひょうしん玉壺ぎょくこり。ひとかけらの氷が白玉の壺のなかにあるように清く汚れのない心)」


 玉壺は砕けた。

 もうもとに戻ることはない。


(これがあたしの気持ちだ!)


「つけあがるな!」


 バキッ! と音がして、左頬に雷のような痛みが炸裂した。


「きゃっ……。」


 殴られた。

 夫に殴られて、身体がかしぎ、床に手をついた。

 瑠璃の破片で手のひらがえぐれた。


(殴られた。殴られた。殴られた……。)


 驚きすぎて、言葉を頭のなかで反芻はんすうしても、うまく理解できない。


(夫は、殴った! あたしを、殴った!)


「オレにそんな反抗的な態度をとったら、駄目だろう!

 打是親、罵是愛、棒槌底下出好布!

(殴るのも叱るのも愛だ。良い布はきぬたで打ちえた下から生まれる)」


 夫は霞に馬乗りになり、せきが切れたように何回も霞の顔を殴った。


 霞は悲鳴をあげ、今までの人生で味わったことのない痛みに恐怖し、心の底から怖いと思った。

 やっと夫が腹の上からどいた。


「うわあああああああ!」


 霞は叫び、泣き、怪我をした手を握りしめ、刺さった瑠璃の破片でさらに傷が深くなるのにも気が付かず、書斎から飛び出した。


「もう嫌──────っ!!」


(もう嫌だ。耐えられない。離婚よ!)


 十五年ぶんの我慢が弾けとんだ瞬間だった。





    *   *   *





 ↓手描きの挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093089476277070


(※注一)……芙蓉楼ふようろうにて辛漸しんぜんを送る

 おう昌齢しょうれい

[参考] 中国名詩鑑賞辞典  山田勝美   角川ソフィア文庫

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