3 - みどり萌芽

 雨気の中に僅か数秒だけ浸された身はそれだけのことで狼狽してしまっていたようで、「応接間」を出てダーリャに指示された部屋の中へと入ると、イジーは途端に、砂山が崩れるに任せるように全身の気が抜けていったのを感じた。内装をしげしげ眺めてやる時間すら惜しかった。ベッドはそれだから大仰にイジーの体を受け入れて、しかしシーツの生地の滑らかさに彼はまた起き上がった。これほどまでの感触が得られるのは、安息地ではなく人前でなければならないはずだった――たとえば、服屋でまず買う気の無いものの前に立って検討しているふりをするとき、など。

 彼には眠っておくべきなのかそうでないのかさえ今はわからなかった。眠れば寝込みを殺されやしないだろうか。今しがた理性的に話した相手をそうするようには、少なくともイジーには思われないが、相手は狂女なのだ……理性的に話ができる、狂女なのだ。何があっても不思議ではない。一方で、寝ないでおけば朝になって起きてきたダーリャにそのまま力負けするかもしれない。そう思えば寝て英気を養っておくべきだ。

 どちらにせよ致命的な事態に陥る可能性があるのだとすれば、意に従えば良いように思われた。

 イジーの意は、ひとまず即時の睡眠ではなかった。むしろ頭は妙な冴え方をしていた。厚いガラス瓶の中に封じ込められたような、外界はよく見えるように思われるが、実際にはそれが歪みきっていることを確信している、そういった精神状態を今の彼は持っていた。しかしながらその瓶を内側から割ることはどうやってもできない。錯誤だからだ。であれば、大したことはできなかった。一度書いたものの上にもう一度インクを乗せるような、益体もない反芻がほぼ自動的に脳裡に映し出された。

 ダーリャは何者なのか? 裕福であることはまず確かだ。それなら、親はブルジョワジーか貴族かだろう。どうせ体操クラブに通った経験もあるに違いない。なら、魔法の才もきっとあったのだろうけれど、そこで訓練をして大威力の雷撃かみなりを扱えるようになったと思えば筋が通る。そして気が狂って半ば勘当されるようにして金を持たせられてこんな地方都市送り、そんなところだろう。イジーはぬかるんだ意識でそう思った。

 それで、何を言っていたかといえば、なにかできることがあるはずだ、と。高尚なことである。おれを巻き込まない限りはな、とイジーは呟こうとだけした。

 ひとりの人間が責任を負って然るべき範囲は、いまイジーが倒れ込んでいるベッドよりも小さい。実際に負うことができる範囲はもう少し広く、この部屋の中すべてを含んでももしかしたら良いということがあるかもしれない。それに比して、ダーリャがすべきだと言ったことは空のすべてに責任を持つかのようだった。

 無理がある、と思われないわけにはいかなかった。溜息のようなものを吐いて一度目を閉じてみると、彼はそのまま眠りこけてしまった。

 翌朝は当然の権利として時間軸の上に居座っていた。目を覚ましたイジーが直面したのは、まさにそのような朝だった。窓からはゆるく、かつ同時にぴんと貼られた糸のような陽光が白色をして注いでいた。その光のせいか、少しの間ベッドの柔らかさがイジーの思考を阻害して、彼は起き上がろうとすることができなくなっていた。部屋には着替えも何も無い。時計さえ無い。日が出ているのだから相応の時間ではあるはずだが、果たしてダーリャが起きているような時間なのか、起きていたとしてイジーは起き抜けで訪ねに行ってよいものか、いやむしろ彼は半ば拉致されたような立番なのだからダーリャの方から出向くのが筋ではないか、などのことが思われた。結論としては、億劫が選ばれた。

 イジーはこの部屋には留まりたくないとは思っていた。さりとて何かをするならするですべきこと、すなわちダーリャへのを立てること、それを迂回して散歩にでも行くのは惮られた。昼間に殺人者になるような人間は夜よりは少ないとは思われるものの、それでもダーリャを苛立たせそうな行動を取れば、木に成った果物を迂闊につついて地面に落としてだめにしてしまうような、そういう不必要な不幸があるように思われたからだった。

 二度寝はできなかった。彼の頭は妙に冴えていた。いちど決めたはずの思考ばかりが脳裡をよぎっては返って、そしてまたよぎっていくのだ。尊大に足でも組んでソロモン王にでもなった気分を取ろうとしてみても、それが大嘘であることは思考の不安の優越によって明らかだった。小さいころに親に食べさせられた、野菜が細かく刻まれているだけで糊塗が足りていない炒め物のことを彼は連想した。

 そしてついに億劫は敗れた。尤も、それを破った相手はダーリャへの不安である。イジーはやおら起き上がると、ご丁寧に設置してあった鏡の前で軽く身なりを整えてから部屋を出た。

 日はすでに天頂近くからスラシーン市を睨めつけていた。朝方まではまだ雨が降っていたと見えて、地面にはまだ木陰のような湿り気が至る所に残っていた。上る階段もそうだった。それが一変、ダーリャの招きを受けて部屋に入れば屋内とはそのようにして己自身を種々区別するものなのだろうと思われるほどの、おそらく水溶性であろう空気があった。

「それで、何かしら。緊急のときだけ来るように、と言ったはずだけれども」

「給与を含む待遇が決まってない。これは十分緊急性を持つだろ。それとも提示せずにおれを放逐するってんならそれでもいいが」

「……まあ、十分に妥当とするわ。私から最低限として提示できるものは……昨日言った通り、生活保障。すなわち、この建物の指定の部屋を提供すること、ならびに市内のレストランにおいて私の名で食事することの許可よ。ほかに要求は?」

「おれに対する制限は何だ?」

「私による命令権を、通常の封建的命令権と同列の水準において承認すること。これはつまり、私があなたの知識……魔法への通暁だとか、あるいは他に知識があるのかはまだ知らないけれど、習熟させてなにかに従事させる場合などを想定しているわ……まあ、そういうものを求めるとき、私がやりなさいと言ったことをやりなさい、ということよ。安心なさい、そう悪くは扱わないから」

「……おれが不服としたとき、命令を修正できるようにしてくれ」

「いいわ。他には?」

イジーは単純に驚いた。檸檬の酸味を毎度々々新鮮に思うのと同じような、鮮烈ながら受け入れれば心地よい驚きだった。

「いいのかよ。おれがあんたのの一文字ずつに反論して全部を掘り崩そうとしてるかもわからんだろ」

「そのときは放逐するわ。パンとサーカスを与えて不服なら、その人はろくでなしよ」

「深夜ってのはそういうろくでなしに出会いやすいもんだと思うがな」

「あなたは魔法技術をずいぶん持っているでしょう? 何を建てるにせよ、時間だけは不要になることは無いわ。そして根性の無い人間は時間を無駄にすることに執心したがるものよ。熱心に鍛える代わりに、ね」

ダーリャはそこまで言って、イジーの眼を真正面に捉えた。いまの彼女の目の中には、ゆるやかながら、それがために打ち壊し難い気がめぐっていた。

 問題があるとすれば、イジーにとりダーリャは本当に対話が可能な相手なのかまだ判然としない、ということぐらいだろう。雷雲に対話しようという者は無い。爆発した気缶になぜ人を殺めたと問うものも無い。さて、ダーリャは本当にこれらではないと確信を持って言えるのだろうか、とイジーは思った。その疑問も星座が本当に古代ギリシアの神々であるのかと問うような、それ自体において信頼性を持たないものであるように思われずにはいられなかった。

 それで、妥結は妥結ということになった。イジーには自分の境遇が水飴の中に沈んでしまっているように、動かせるのか動かせないのか、甘いのか甘すぎるのか、見えているのか歪んでいるのか、そういうものがすべて曖昧模糊に感じられていた。もしダーリャが弩級の善人で、言ったことすべてを額面通りに受け取ればよいのなら? なんと、幸運なことだろうね。ではダーリャが大嘘つきの罪人で、言ったことすべてがイジーを陥れるための罠であったら? なんと、不幸なことだろうね。ではダーリャが言ったことを少しだけ反故にするふつうの人間なのであれば? おお、普通だね。それで、幸不幸の差異は果たしてイジーに関係があるだろうか? 理屈で言えば無いわけは無い。だが、本当だろうか?

 イジーは木漏れ日だけを見てその木が何であるかを考えさせられているような気分を覚えた――直接見た方が何倍も早かったのに。

 ダーリャの顔が認識された。なるほど顔だ。目があり、鼻があり、口があり、耳があり、頬があり、顎があり、眉があり、あり。この間をずっとダーリャはイジーの目を見つめつづけていたらしい。しかし口は真一文字に結ばれていて、いかにも非妥協的であるように見える。なるほど、イジーが何を言おうと即座に言を返そうという魂胆だ。少なくとも、イジーはそう判断した。

 そういう手合いには、理屈の正当性を鉄を鍛えるように押し付けるのがよい。

「不当なら容赦なく全部言うからな。覚悟しとけ」

「では、早速第一の命令に不当な点が無いか指摘してみて頂戴。第一は、言葉遣いを整えるよう努めること。私の名を使うのであれば当然ではないかと思うのだけれど」

「整えるってのは?」

「やりなおし」

「……整える、というのは?」

「常にその水準にありなさい。ほかにも指摘したい点は山程あるのだけれど……まあ、今はまだいいわ」

イジーには反論の余地が無かったので、野望は砂上の楼閣を立つ前に崩される格好になった。

「それから、第二。あなた、あれだけ素早く魔法防御を展開できたのなら反射神経も瞬発力も良いに違いないわ。それならだってできるでしょう。私にやって見せてみなさい」

「無理だ。やったこた……やったことはない。理屈の上ではできるかもしれないが、そんなに危なっかしい……命の危険があるようなのは受け入れられない。手本も無ければ、特にそうだ」

「堕ちるときにうまいこと魔法でゆるめればそれでいいでしょう。いざとなれば私も手を貸すわ」

「……確かに全くできないだろうとは言わないが、それにしても」

「私は全面的な危険を提案しているわけでもなければ、真に危険が発生したときにも見殺しにはしないと言っているわ。それでも承服できないかしら。それなら私にも考えがあるのだけれど……」

ダーリャの頬が上がったのをイジーは認めた。陽光が部屋をとろ火で温めていたにもかかわらず、寒気は彼の背中を駆け抜けた。見て分かる毒であるだけいくらもましではあったが、だからといって毒が薬になったわけではなかった。

「……せめてパラシュートを付けさせてくれ。売ってるのかは知らんが」

ちなみに、飛行とは雷撃かみなりに似た魔法の用法で自身を吹き飛ばして飛ぶ曲芸である。

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