2 - 遠くへ導くもの

 雨は降り続いていたが、もはや関係の無いことだった。石畳からイジーとダーリャの靴たちが離れるのにはそう時間もかからなかったからだ。そうしてダーリャが先導しイジーも踏み入った建物は、イジーとしてはどこに連れて行かれるのかとひやひやしていたものだが、案外ふつうの二階建て集合住宅のように彼には見えた。少し見回せば、鉄の柱が使われた近代的な建物だということがすぐにわかる。没装飾だが、ゲートには少し彫り物があった。

 ダーリャはその1階を進み、ある部屋の扉を開けてからイジーの方を首だけで振り返って見た。イジーは無言で追随した。ダーリャの視線に掣肘を受けた気がして、彼はきょろきょろと見回しても品が無いか、と素直に歩き進んだ。部屋の前に表札の無いことには気が付かなかった。

 扉はごくゆっくりと、ワイングラスでも扱っているかのように閉められた。何も壊れてはいないはずだ。それなのに雨音は遠くなった。当然ながら、なにも不気味なことはない。ただ、イジーは今の状況について何も考えたくなかっただけだった。

 しかし部屋の角々に目線を遣ってしまうのもイジーの性格だった。窓から入る幽光を除けばほとんど闇の中に溶けてしまっていたその部屋は、ダーリャが燭台を点火したそのために角と面の区別を付けるようになった。正面には一昔前に流行ったようなスタイルの飾りが付けられた机と椅子が組になって置かれていたのが、まずイジーの目に入った。そのつぎは壁に向けられた。壁には何一つ特筆すべきことは無かった。部屋の角に目線は飛んだ。そこには小さな物置台があり、置き時計が止まったままになっていた。

 水回りは……彼はもう通り過ぎてしまったので、よくわからない。ただ汚れが山積みになっているとか、そういったことはなかったはずだ。そういえば玄関もそうだ。靴入れにはダーリャが先に入れたそれを除いて、何一つ入ってはいなかった。イジーは彼女の靴の隣に自身のそれを置くべきか、あるいはなるべく離しておくべきか……と一瞬脳裏によぎったとき、そのときの両目に映っていたものをなんとか思い出そうとしたが、やはり空隙に満ちた靴棚よりほかには何も無かったように思われた。

 ダーリャが机の向こう側に置かれた椅子に座って、イジーにも座るよう手で促した。促された先の椅子は、机を挟んでダーリャと向かい合うように置かれていた。はっきり言って、ここにダーリャが住んでいるとは信じがたかった。生活をほんとうにしているなら、おそらく外から見たところこの部屋よりほかに一部屋ぐらいしか無いだろう、そこに何もかもを詰め込んでいるに違いないが、そんなことをする道理はあまり無い。寝具、服、何かは知らないが趣味の道具、それをそう広くもないここと同じ程度の部屋に?

 ともかく、イジーは椅子に腰を下ろした。クッションはそれほど柔らかくは無かった。肘掛けがあったので両手を置いてみたが、あまり落ち着かず、すぐに肘は机の面に置き直された。

 そして押し黙った2人が机を挟んで向かい合っていた。イジーが耐えていられたのはそれほど長い時間ではない。だから、「なあ……」と小声でことを進めようとした。だが、ダーリャは掌を見せて制止した。彼女の目線の先を追えば、それは真正面、イジーの着ている服のボタンあたりになるだろう。それを本当に見ていると思うには、彼女の表情は深い水のようでありすぎた。

 なんであれ、イジーにはじっと見られることが浮足立つように思われた。首をすこし傾けると、ダーリャの点けた燭台があった。机の端に寄せられて、それは街路樹と同じように光を区切っていた。尤も、役割は真逆ではある。その燭台には火の点いた蝋燭が1本だけ立っていた。空席は2つあった。机の上を照らす分にはそれでも十分だった。おそらく銀色であろう、その燭台の土台部分が黒く染まる程度の暗さは、机を包囲するように湧いて出ていた。

 机上にはほかに観察すべきものは何もなかった。イジーの目線は滑った。目線を留めるべきものは、ニスの塗られた木の上のどこかにあるようには思われなかった。ダーリャの上に留めるのは意地でもと思って避けていたが、ダーリャがこれだけ眼差しを突き刺してくるのだ、おれがやったって何の問題があるか……と。

 顔貌かおかたちをイジーは深く表現する言葉を持っていなかった。灯火に照らされ、向かって右は明るく、左は暗くなっていた。そういう仮面が劇で使われていたはずだ、ということが思い出される方が先だった。少し下に目を向けると、襟には黒いレースが付いているのが見えた。そこから伸びた布は彼女の首をほぼ完全に、ぴったりと覆っていた。ほかのことは、高級そうな生地だ、ということしかイジーには判断できなかった。

 そこまでして、やっとダーリャの顔が動いた。すこし目線が上がったと思えば、イジーは瞬間的に目線を合わせられていることに気づいて首を跳ねさせた。そして唇の開くのが見えた。安堵と恐怖が同時に、ティンパニの連弾のようにやってきていた。

 そうだ、そういえばこの正面に座っている女、ダーリャとやらは狂女に違いないのだ。服は貴族然としているが、そして傘もなにやら装飾的だったが、それがどうした、住んでいるところはこんな狭小集合住宅なのだ、庶民でなくてどうする。息をひとつ吸うあいだに、イジーはそう考えて平静を取り戻そうとした。ティンパニの代わりにバイオリンの音が聞こえることは、それでも無かった。

「一度、自己紹介してくださる?」

「……名前はさっき言ったとおりだ。イジー・ヴォジーシェク。この街に住む……穀潰しだ。……定職には就いてない。……あとは、何だ?」

「あら、学生さんでは無いのね。日雇いをして暮らしているようにも見えないけれど」

「穀潰しだって言っただろ。ツケにしときゃ、ひとまず今のおれが払うこた無いんだ」

「わかったわ。なら、私が雇ったって構わないわね。まさか未成年では無いでしょう?」

イジーはできるだけ眉間に皺を寄せようとした。

「……一応聞いとくが、嫌だと言ったら?」

「選択権はあるわよ。誠実な対応なら私だって構わないわ。ただ……もし仮に、ここで口先でははい、はいと承服した振りをして……そして逃走した、なんてことがあったら……まあ、次に出会ったとき、どうなるかぐらいは誰にだってわかるでしょうからね」

ダーリャは口元を手袋を纏った手で隠しながら、ヒメリンゴめいた小ささで笑った。そんな狂女の『誠実』を探りたいと思えるほどの強心臓は、イジーの胸元には埋まっていなかった。

「ジョークよ、ジョーク。そんな野蛮なことはしないわ」

「どうだか……。……それよか、ほら、おれのことは話したんだ、ダーリャさんとやら、あんたのことも話してくれてもいいだろ」

「いいわ。私はダーリャ・コトラーロヴァ。人類の進歩を希う者よ。あなたが知るべきことは以上」

寄せられた眉根から発せられたなんらかの抗議メッセージは、明らかに受け取りを拒否されていた。

「で、おれの雇い主になるってわけか。差し詰めブルジョワの娘かなんかだろ、そんでママから金握らされてこれで好きなことやりなさい、って寸法だ」

「あなたが私についてどう見るかで自然法則が変わるのであれば、説明を尽くしたってかまわないけれど。でも、そうではないでしょう?」

イジーはあまりにもばかばかしく思った。蝋燭の火が彼の溜息に少し遅れて、慌てて揺らめいた。

「わーかった、それで調度品もいくらかちぐはぐなんだろう。もう一部屋も見てみたいもんだな、どんな生活してるんだか見当付かんからいくらでも面白いだろ」

鈍臭い燭台を飛び越えて、目線は壁の切れ目へと走査していった。暗がりの中に僅かな光を跳ね返すドアノブが眠りこけていた。そういえば深夜なのだ。これだけ部屋の中で会話していて、隣室の住人には迷惑だろう。ダーリャに謝りに行かせられるとしたら嫌だな、とイジーはぼんやり思った。

「あちらの扉の向こう? 何も置いてないわ。この部屋を応接間として扱っているのだから。寝室は上階よ」

「げ……一棟貸しかよ、ボンボンめ」

「富裕は何も悪いことではないわ。特に、あなたはこれからその恩恵に浴するのよ。有難がられこそすれ、攻撃される謂れは無いと思うのだけれど?」

「……おれの負けだ。雇われてやろう」

「あら、詳しい話を聞く前に判断するのはそれはそれで危ないわ。毒酒を呷って死なないで頂戴、そうして困るのはあなただけではなくなるのだから」

イジーは押し黙った。背けた視線の先にあった溶け落ちる蝋がなにかのメッセージであるように思われたが、彼はそこから何も読み取れなかった。

「……とはいえ、具体的なことはまだ何も決まっていないの。あなたが理念水準の話の通じるひとであればよいのだけれど、まあ……そうね、分からなかったら口でも挟んで頂戴。

 さて、過去百年、我々人類は歴史上体験したことのないほどの進歩を遂げたわ。発明品は世に溢れ、職人たちの属人的芸術の発露の場だった工業製品も徐々に非熟練工が洗練された機械を用いて達成できるようになってきた。とりわけ、魔法技術に頼らないものが世を席巻した。これこそ画期的なことだわ。鉄道や汽船の労働現場では、魔法をうまく扱えるかどうかはピアノをうまく弾けるかどうか程度の意味しかもはや持たない。それであればこそ、身体技術と魔法技術の際限なく高度な調和によって為されていた職人仕事が奪われていくというものよ。

 この街、スラシーン市にだって比較的最近に鉄道が通ったでしょう。あなたが何歳かは知ったことでは無いけれど、生まれたときにはまだだったと思うわ。あれは素晴らしい。猛然と突進する蒸気機関車は、しかもただ早いだけでなく大量の人と物資を輸送できるのだから、あんなのを鉱山と製錬所の間に、製錬所と街々の間に通してしまえば、どれだけすばらしいか、わからないなら考える頭は無いでしょう。

 ただ……先ほど言ったことでもあるのだけれど、これにはひとつ残念な点があるわ。それは、魔法を使っていないこと。非魔法的手段によって目的が達成できるのであれば、それは大変結構なことよ。でも、こうは思わないかしら?

 を頼めば、もっと素晴らしいものができるのではないか、と。」

爛々ときらめくダーリャの目は雷を蔵しているようだった。その光はイジーの両の目にも届いたが、水晶体の奥の池に沈んだ。

「それはつまり、どういうものを想定しているんだ?」

「何も考えていないわ。考えていたらもう事業を興しているわよ。だからずっと考えていたの。考えて、考えて……ただ日だけが経っていくのは苦しかったわ。だから夜に歩けば考えも変わるのでは、雨に包まれればよく芽吹くのでは……と、そう期待したの。結果として、そんなことをしても考え自体はうまくまとまらなかったわ。けれど、魔法に長けたひとに出会えた。大収穫よ」

「……おれが考えろってか?」

「そうは言ってないわ。私のほうが頭も回るもの。それで、どうかしら、雇われてもらえるかしら?」

「あー、うん、いいだろ」

「契約成立ね。それなら、こんな夜更けに長々話しておく必要もこれ以上は無いわ。来客用の寝室は、この部屋の玄関を出て向かって右の一番端。鍵は掛けていないから必要なら内鍵を」

イジーの気が付いたときにはすでにダーリャは立ち上がっていて、燭台がまさに持ち去られようとしているところだった。闇は簡単にイジーに迫ったが、飲み込むのは躊躇したのかまだ遠巻きにしているように見えた。そうしているうちに急にダーリャが振り向いたので、イジーの内心にはまた遠雷が警戒心を響かせた。

「そうそう、もし何かあれば、私は外階段を上がって2階の一番手前の部屋にいるわ。緊急のときだけ来ること。では」

「待て、給金はどうなんだ?」

「……細かいことは決めていなかったわ。食費生活費保証、あとのことは……明日でいいかしら」

ダーリャはそれだけ言って、イジーはそこに言葉を挟み損ねた。大木がそうであるように、有無を言わせないように思われたからだった。

 ひとりで部屋に残されては、あまりにも静かすぎた。暗闇に放置されてなるものかと、イジーは指示された部屋へ向かっていった。

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