『何度でもあの場所から』
秋になり、近所の山で栗拾いをして蒸してホクホクの美味しい蒸し栗をたべたり、栗ご飯にして食べた。美味しかったので次の週の休みにも、その山に登った。だが、子どもの頃からよく来ていた道にもかかわらず、何故か迷ってしまった。
あれほど親しんだ森なのに入るたびに新たな発見がある。迷ったあの日、森の中で笛の音が聞こえた。別に広い森ではないので、小川さえ見つければすぐに帰れると思いぼんやりと歩いていると、首輪のついた大型犬がいた。整えられた毛並みは、面倒見の良い飼い主の存在を示した。
ごきげんな犬の尻尾の後ろを付いて行くと、急に道がひらけた。切り株に座って笛を吹いている老人に出会った。その老人は、目を丸くして私を見ていたが、やがて犬を撫でてから私の方を見た。
「君は、もしかして長瀬博士さんの息子さんじゃないかね。」
ぼくは、ええそうですぼくは長瀬ですけどと、そのおじいさんにいった。ぼくの父は菌類学者であり地質学者でもあった。母も植物が好きでよく昔、両親でこの山に来ていた。おじいさんの目を見て何か思い出せそうだったが、記憶にもやがかかって思い出せなかった。
「やっぱりそうだ、幼い頃よくここに両親で遊びに来ていたのを覚えているかね。君のお父さんとワシは古い友人でね。さぁ、中に入ってお茶でも飲もう。ちょうど、話し相手が欲しかったところじゃ。」
ぼくはその部屋の暖炉を見て全てを思い出した。すると、あの大きな犬はあのチーズか…。幼いぼくはこの暖炉の前で仔犬と遊んでいた覚えがある。
「わしも久しぶりにこちらに来てな。様々な思い出の品を整理していたところじゃ。ほれ、君たち親子の昔の写真もあるぞい。」
ぼくはその写真を見たが、それ以上に驚いたのがその山小屋にある美術品と書籍の山だった。その部屋は、おじいさんの知性の深さを表していた。
「実はな、孫に心配されてな…。都会に移り住むことなったんじゃ。ここにある荷物は、必要な物だけ送って、後は業者に頼んで処分するつもりだったんじゃ。どうかね。珍しいものでもあったかね。わしももう年じゃ、ほしい物があったらやるぞい。」
ぼくは目を輝かせた。優れた蔵書の数々に世界中の美術品、中にはわけのわからないアフリカの仮面や謎の土器などもあったが、それはそれで見ていて飽きなかった。ぼくはおじいさんに提案した。この山小屋と周辺の森と畑を管理する代わりにここに住まわせてほしいと。
おじいさんは少し悩んだあとで、
「そうじゃな、わしは4日後に孫の所に戻らねばならん。長瀬博士さんの息子さんじゃから心配はないと思うが、夏にまたここに戻る。その時まで、家や庭の木々、畑が綺麗に管理出来ていたら、わしがいない間この小屋を使っても良いぞい。」
ぼくは、つまり夏までは住んでいいということかな…と思いつつ、合鍵をもらった。実はぼくは大学生であり、寮費もばかにならなかったのだ。その日から4日間、その山小屋でおじいさんと過ごした。ぼくは、おじいさんの信頼を勝ち取り、山小屋に住むことが出来た。
おじいさんが帰ったあと、大学の勉強を終え、その蔵書を読むのが楽しみになった。大学卒業まで、ぼくはその山小屋で過ごした。時には、友達を呼びバカ騒ぎをしたりしたが、ちゃんと綺麗に小屋を管理し続けた。
ある日、棚の中からおじいさんが作ったであろう様々な手作りの笛が出てきた。ぼくはそれを真似て、自分で笛を作り吹き始めた。しばらくすると、笛作りも演奏もかなりの腕前になった。
大学院へ進み、彼女との結婚を気に実家に戻り、山小屋は綺麗にして合鍵をおじいさんに返した。あの小屋の時間は、何だったのだろう。あとで振り返っても人生で最も充実した時間の1つであった。
おじいさんの名前は知っている。高名な学者であり、その業界では有名人だ。だが、ぼくの子どもの頃の記憶でも、ぼくはあの人をおじいさんと呼んでいた。両親とおじいさん、それに子犬のチーズ。時間は全員に流れたが、全員が良き時間をあの場所で共有した。あの場所では、悲しいことは起こらず、穏やかで優しい時間だけが流れた。
どんな財産よりもあの場所の思い出を人生の中で持てたというのは幸運であり、例え、これからの人生で全てを奪われ失ったとしても、あの場所の思い出と記憶から何度でもやり直せるだろう。
世界で最も恵まれている人間は、そういった幸福な時間を大切な人と共有出来た人たちだ。人間にはそういった場所と空間を生み出し、次の世代に繋げる力がある。ぼくは、未来に大切な人とそれを作りたい。
とてもつらい時、あの笛の音が聞こえてくる。何度でもあの森に戻り、何度でもやり直せる。死を超えて何度でも、いつだってやりなおせる。
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