金木犀の口当たり
彩煙
第1話
街を歩いていると、ふと幼い頃の懐かしい感覚が呼び起こされた。
――金木犀の匂いだ。
じりじりと焼けるような陽射しが降り注ぐ。時期と呼ぶには少しばかり気の早い、甘く柔らかな香り。その元はすぐそばの日陰でかがんでいる、エプロンをかけた女性からであるらしい。彼女はこの喫茶店の店員なのか、建物の前で掃除をし、ちり取りでもってゴミを集めている様子だった。
長い黒髪がその横顔を隠す。彼女は少し鬱陶しそうにそれをかき上げ、額ににじんでいた汗を右手の甲で拭う。その時、不意に僕と目が合った。僕は初対面であるにもかかわらず思わず会釈をしてしまう。それを見て彼女は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、僕に笑いかけ数歩こちらに寄り、
「もしよかったら、コーヒーでも飲まれて行かれますか」
と問いかけてきたのだった。甘い香りが再び僕を包む。
「じゃあ、一杯だけ頂いていきます」
僕は強いノスタルジーに刺激され、気が付かない間にそう答えていた。そして彼女が開けてくれた扉をくぐり、彼女の店へと足を踏み入れた。これが彼女と僕の出会いだったのである。
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幼いころの僕は辺鄙な田舎に住んでいた。辺りは田んぼと畑、川と山。それだけしかないような里山で祖父母と暮らしていた。両親は僕に物心がつく前に他界しており、顔も覚えていない。祖父母の話から彼らの事を漠然と知ってはいたが、写真の中の人であり、抱いている感情はテレビの向こうにいる芸能人と大して違いはなかった。そんな当時の僕にとって自然はとても身近な存在であり、朝起きては日が暮れるまで野山を駆け巡るという事を繰り返していた。遊びなんてものは、虫取りくらいしか分からなかった。
太陽がさんさんと輝いていた、ある夏の事である。僕がいつもの様に虫取りに興じていた所、見たことの無い女性がバスから降りてきたのを見止めた。真っ白のワンピースにつばが広く品の良さそうな帽子をかぶっている彼女の姿は、この辺りでは決して見ることのない都会の女性そのものである。彼女は重たそうなスーツケースを運転手から受け取ると、バス停のベンチに腰掛け何をするでもなく佇んでいた。僕はその様子を少し離れた所からしばらく見ていたが、その人は定期的にメモ帳を開き、確認するくらいで、何かを待っているかのように一向にその場から動く気配はない。
――迷子なのかしら。
そう考えて、僕は彼女に話しかけた。
「何を待っているんですか」
彼女は僕に一瞥をくれると何でもないと言う様に、
「何を待ってるんでしょうね」
と答える。
「どこかに行くんだったら案内しますよ。僕、ここに住んでるから」
僕は親切心というよりも、彼女に対する好奇心からそう続けた。しかしこの女性の答えは、僕の期待を裏切らず、まったく関係のないところを否定した。
「どこにも行かない」
「え……」
わけが分からなかった。彼女は何も待っていなくて、どこに行こうともしていない。なら、どうしてこんな田舎に来たのだろうか。
「どこに行きたいというわけでもないの。ただ、どこでもない所に行きたくなっただけ。そういう事あるでしょ」
どこかに行きたいわけでもなく、どこかに行きたくなる。そんな経験は僕にはない。そもそもどこかに行きたくても、祖父母の許可を取らないとダメだし、そんなことを考えたこともなかった。
「……よくわからない」
「うん。よくわからないね」
初めて女生と目が合う。大きな帽子の下から覗く彼女のほほえみが見える。大人っぽさの中にどこかあどけなさの残るそれは、少年の幼心には未経験の存在だった。漠然と「不思議な雰囲気な人だ」という印象を抱いていた。しかしどうしてか、僕のこの女性に対する興味が絶えることは無かった。彼女に向けた第一印象は漠然とした未知の存在であり、それ故に彼女に対して警戒心を抱くこともなく関わり続けたいと思ってしまったのである。
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「いらっしゃい」
喫茶店に入ると男性が一人で机を拭いていた。店内にはコーヒーのいい香りが漂っていた。もうさっきまでの香りはしない。女性は僕を案内した後、そのまま玄関先の掃除に帰っていったようだ。僕は窓際の席に座り、メニューの書かれた小さな紙に目を通す。軽食程度のものとドリンクが数種類という個人経営ならではと云った内容。僕は横に立った男性に「冷たいコーヒーを」と短く注文し、窓の外に視線を移した。スーツを着た男女が右から左へ、左から右へと慌ただしく横切っていく。誰もこちらに注意を払う事もなく、正面だけを見てあくせくと歩いている様子は、この空間から完璧に隔絶された異世界そのものであった。
――なるほど、おそらく僕も昨日まではこの人たちの一員だったのだろう。
妙に達観した態度でそれを眺めていると、不思議と自分が自分ではなくなっていくような感覚になった。普段感じている焦燥や怠惰とは違う、特別な虚脱を感じながら僕はそれを疎ましくは思えない。むしろ好ましい感情に思える。こんな風に社会から隔絶された空間を獲得したのはいつぶりだろうか。少なくともここ数年はそのような場所に身を置いた記憶がない。どうやら僕は、自分の思っていた以上に社会に溶け込めていたらしい。それに安心していいのかは分からないが、今はこの気持ちを楽しもう。そう思うと、僕の視線は自然と店の内側へと向いていた。
コーヒーのよい香りが空間を満たしている。僕以外に客の姿は見えないが、赤字になっているというような雰囲気はない。むしろ小ぎれいにされていて、普段は客の出入りがあるのだという事が伺える。今は偶然こんなタイミングになってしまったのだろう。僕が浮いてしまうなんてことがないから、個人的にはむしろありがたい状況だと思えた。
「どうぞ」
僕の前でカランという涼しげな音がする。持ってきたのは、いつの間にか戻ってきていたらしい、店先の女性だった。
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気が付けばヒグラシの鳴き声が辺りに響き始めていた。日も少しずつ短くなってきている。いわゆる晩夏と呼ばれる季節だ。僕は、辺りでいい匂いがしてくるこの時期が一番好きだった。その匂いの原因は知らないけれど、何とも言えないこの香りは昔から好きなのだ。
あの人はあれから何度もここにやって来るようになった。今日のバスはもう終わっている。あの人はいつも最終便に乗って帰っていく。そして僕はまた、知らない感覚を彼女に対して抱いていた。大人っぽい彼女と対峙している時は、いつも学校でクラスの女の子と話している時とは違う、なんだかフワフワとした気持ちになってしまうのだ。それから彼女が帰っていってしまうのを見送ると、しばらくはバス停から動けなくなるほどの虚脱感に襲われる。いや、今日の様な見送りをできた日はまだいい方で、それすらできなかった日の僕と云えば、帰り道もぼんやりとしてしまうほどの後悔と喪失感を覚えるのだ。別に待ち合わせをしているというわけでもないから、彼女が僕を放って帰ってしまったとしてもそれは仕方のない事だ。僕が勝手に最終便のバスを見送りに行っているだけで、彼女に頼まれたわけでもそれを口にして約束しているわけでもない。ただ、僕がやって来た時に「あら、また来たの」と微笑みながら優しく受け入れてくれる様子を知ってしまうと、その行為に素っ気ない字面以上の想いを期待してしまう。彼女――ところで、彼女は何という名前なんだろうか。そういえば知らない。いつもは「お姉さん」と呼んでいたし、それで困ることもなかったから。
――次会えた時には名前を聞いてみよう。
次に会う日に向けた期待に胸を膨らませて、僕は立ち上がった。また会えるだろうという根拠のない考えを抱くだけで、今まで抱えていた虚無感を忘れてしまい、あの人と話をする想像で頭をいっぱいにしたまま揚々と帰宅できる。この幸福感は、夕飯に大好物が出た時よりもずっと大きなものだった。最近は最終便の時間に合わせてバス停に行って、その後に1人で色々と考える事をすっかり日課としていた。そしてそれは、僕にとってとても甘く柔らかな日々を与えてくれていた。彼女について考えるだけでも、甘く楽しい帰路になる。
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彼女がグラスを置いた時、またふわりと甘い香りがした。
「あぁ、ありがとうございます」
置かれたコーヒーから彼女の方へ視線を移しつつ、問う。
「金木犀、お好きなんですか」
「え?」
僕の急な問いに彼女は、一瞬驚いたような顔をする。まるで、今話しかけられるとは思っていなかったというような感じだった。
「あなたの香水。金木犀の匂いなのでは?」
「ああ、確かに似た匂いですね。もしかして、嫌ですか」
「いえ、そういうわけではないんですが。どうも懐かしい気持ちになって」
「懐かしい、ですか。金木犀に強い思いれでもあるんですか。例えば子供の時とか……」
「ええ、まあ少々……」
僕はそこまで言ってコーヒーに口を付けた。彼女は僕がそれ以上何も言わないのだろうと察して「ごゆっくり」と言うとカウンターの裏へと入っていってしまった。
言いたくない事ではないが、そっと蓋をしていた思い出。ずっと昔の、もう思い出す事もなくなっていた記憶の底を、彼女がまとう匂いはそっと目の前に指し示していた。金木犀に似た香水というサイケデリックな匂いが、自然に囲まれていた故郷の風景を思い起こさせてくる。野山を駆け巡っては色々な物を見つけて、色々な人と出会っていたあの頃を。
金木犀の匂いはそんなに強いものでもない。僕の周囲は既にコーヒーの匂いで包まれていた。グラスを傾けて、記憶をもう一度深く飲み込んだ。今となっては最早関係のない話だ。
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「お姉さんの名前って何て言うんですか」
今日はお姉さんがやって来たタイミングで出会えた。何となくバス停に訪れたら、初めて見つけた時の様に彼女がベンチに座っていたのだ。そこで僕は先日考えていた通り、名前を聞こうと思い立ち、今に至る。
「私の名前?別に何でもいいのだけど、そうね……。桐って呼んで」
「キリさん?それが名前?」
「そうではないけど、こういう名前も知らない関係っていうのも悪くないものなのよ」
本名を言いたくないのか、それとも言えない事情があるのか分からないが、それ以上追及するのはいけない気がして、詮索はしなかった。でも、そんな関係の何がいいのかは分からない。一緒にしゃべっている人の事はもっと知りたいと思うのが普通ではないのだろうか。よくわからない。本当によく分からない。僕は彼女の事をもっと知りたいと思うけれど、彼女は自分の一番個人的な所を教えたくないと言う。信頼されてないというわけではないと思うけれど、それでも名前すらも知り合わない関係でいいと思われている。どこまで親密になれたのだろうか。彼女の事を考えると彼女への不安が付きまとってしまう。彼女の事がますます分からなくなる。
だから、もっとほかの角度から知りたくなる。他の所から彼女という存在の輪郭を描こうとしてしまう。
「いつも、ここに来て何をしてるんです」
「気になる?」
「うん」
キリさんは微笑むと、「じゃあ、行きましょうか」と、足元の荷物を持ち上げて歩き出した。僕はあまり深く考えず、それに付いて行った。ただ、キリさんの事を知れるという高揚だけが僕の足を動かしていた。
「あ、そうだ。僕の名前はヒカルって言うんです」
「そう」
彼女は特段興味もなさそうにそう答える。そして、さっき言っていた名前さえ知らない関係という物を続けるためか、本当に名前に対する興味がないのか、
「君はいつも何をしているの」
と聞き返してきた。名前を呼んでもらえなかったことを残念に思いながらも「虫取りとかそんなの」と素直に答えると、キリさんはこちらを振り返って、また「そう」と返事をする。しかし今度の返事はさっきの興味なさそうな感じではなくて、むしろ嬉しそうににこりと笑っていた。
――虫が好きなのだろうか。
そう考えて、僕が今までどんな虫を捕まえたのかを紹介すると、やはり嬉しそうにほほ笑むのだった。いつもは誰もここまで虫の話を聞いてくれる人がいないから、僕も思わず饒舌になってしまう。どこで採ったのか、どうやって採ったのか、今までで一番大きな虫は何だったのか。今まで誰にも話したこともないような内容を、整理することもなく口について出るままに話をする。祖父母は僕がこういう話し方をすると「もっと落ち着いて話ぃや」と言ってくるから、キリさんの様に微笑みながら相槌を打って聞いてくれる大人など、周りには居なかったのだ。僕は、キリさんと話しながら何となく、写真でしか見たことのないはずの母親の事をぼんやりと思い浮かべていた。きっと母親というものがいるのなら、こんな風に話を聞いてくれるんだろうな、と想いながら。
どれくらい歩いたろうか。彼女は不意に足を止めて、前の方を指さしていた。
「いつも、ここで時間を潰してるの」
そこは、この集落を一望できる小さな丘の上にある広場だった。広場と言ってもなにか舗装とかをされているわけでもなく、大きな木が一本そびえている外には、ベンチと小さな机が置いてあるくらいの草原だ。ここまで来るには結構歩く必要があるから、住んでいる人は普段なら理由がなければ行こうとは思わない。その程度の場所である。
「ここで、絵を描いてるのよ」
そう言うとキリさんは、荷物を地面に広げ始めた。そこから小さな三脚の様なものを取り出し、机の上に置き、そこにキャンバスを立てかけていた。その様子は、本当にいつもここで書いているんだという事が伝わるような手際のいいものだった。
「君は、絵は嫌い?」
キリさんはふと僕の方を見てそう尋ねた。僕は絵なんてものを描かないから、嫌いとか好きとかそういった感情を持っていない。ただ、絵を描くよりも走ったりして体を動かしたりする方が好きだった。
「絵は、あんまり描かない。それなら本を読んでる方が楽しい」
僕が素直にそう答えると、彼女は微笑んで「そう」と呟き、
「じゃあ、私の持ってきた本でも読む?それとも、絵を描いてるところを見てたいかしら」
鞄から本を取り出しつつ、そう聞いてきた。大人の読む本は難しそうだが、ここで本を読むと答えないと、キリさんと一緒にいられないのではないかと想い、とっさに「本、読む」と妙に片言になりながら返事をした。彼女は、机に本を置いて、好きに読んでくれて構わないと言うと、筆を手にキャンバスの方に集中を注ぎ始めた。流石にこれ以上はしゃべっちゃダメだろうなと察した僕は、机の上に置かれた本を手に取り、木陰に座り込んでぺらぺらとページをめくり始めた。その時、彼女の香水と似ている甘い香りが、ふと漂ってきた。
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僕はこの喫茶店に定期的に通うようになった。ここで知ったこと言えば、金木犀の彼女が喫茶店のオーナーの姪で大学院生であると言う事と、ここで働きながら絵を描いて暮らしているという事。そして、彼女はいつも同じ香水をつけているという事だった。そんなある日、喫茶店の扉に一枚のポスターが貼られていた。そこには素っ気なく
『藤田佐紀 個展開催』
と書かれていた。どうやら彼女が個展を開くらしい。絵の良し悪しについて、僕は全くの門外漢だが、彼女の描く絵を見てみたいという思いはあった。やって来る客に対して、いつも愛想よく振舞う彼女が何を見て、何を感じ、何を作るのかという、作品の外に対しての純粋な興味だけがあった。
「扉のポスター、いつあるんですか」
僕は、注文を取りに来た彼女に聞いた。すると、彼女は表情にパッと花を咲かせて「興味あるんですか?」と聞き返してきた。
「ええ、まあ。あ、注文はコーヒー、アイスで」
作品そのものには興味がないという事を伝えるには気が引けて、何となく濁す。しかし、彼女はその喜色をよどませることなく、僕に話を続けていた。
「水原さん、意外と絵に興味があるんですね。あ、意外っていうのは別に水原さんの事をバカにしてるとか、そういうのではなくって……」
彼女は、顔の前で手を振りながら楽しそうに喋っている。僕はもう一度、
「個展の日程って、いつなんですか?」
彼女の機嫌を損ねないように、極力柔らかい口調でそう聞いた。
「あ、えっと、今度の日曜日にこの喫茶店を借りて、ですね。来てくれるんですか?」
「まぁ、予定が無ければね」
僕は、彼女から目を逸らしつつそう曖昧に答える。正直、その日になって興味が無くなれば行くつもりもない。そこまでの義理はないだろう。しかし彼女は僕の言葉をどう受け取ったのか、
「水原さんが来るの、楽しみにしてます」
と言い、くるりと元気よく振り返った。ふわりと金木犀の香りが漂う。
背中からは、揚々とした雰囲気しか感じ取れないが、おそらく彼女の表情は先ほどまでの嬉しそうな様子を崩してはいないのだろう。
そんな彼女から目を外して鞄から本を取り出そうとした時、不意に「あっ」という彼女の短い声が聞こえた。そして彼女はもう一度僕の方にやって来て、
「ところで、ご注文は何でしたっけ」
と、恥ずかしそうに尋ねるのだった。
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キリさんとこの丘に来てどれくらい経ったろうか。本はやっぱり難しくてつまらなかった。大人はこんな内容を面白いと思って読んでいるのだろうか。僕は、本を読むのでなく、そこに書いてある文字列を何となく流し続けていたが、それにさえも疲れて彼女の方を盗み見る事しかなくなっていた。彼女はキャンバスに向かって、筆を動かし続けている。ここからだとキャンパスが背を向けていて、そこにどんな絵が描かれているのかは分からないが、絵を描いている彼女の姿は明媚そのものだった。日が傾き始めていて、僕からは逆光になっているのもその様相を強めているのかもしれない。正直に言うと、僕は彼女のその姿に見惚れていたのだ。
木陰で座り、風を浴びていると晩夏特有の哀愁の香りが漂う。日が大分傾いてきている。この季節はつるべ落としだから、気を抜くとすぐに真っ暗になる。ここ来るまでの道には街灯なんてないから、そろそろ帰らないと危ないのではないだろうか。それに、終バスの時間もあるし。僕はその事を伝えようと、キリさんの所まで行く。
「キリさん、そろそろ……」
僕はその時、初めて彼女の描く絵を見た。全体的にぼんやりとした色遣いで輪郭を持たないその絵は何が描かれているのか判然としていなかったけれど、一つだけ分かる物があった。
「これ、僕?」
思わず呟いて彼女に聞いてしまう。その絵には木陰に座った少年が描かれていたのだった。いや、そこに少年が本当に描かれているのかは定かではないし、何より彼女がこの場所の風景を描いているという保証もないけれど、少なくとも僕にはそう見えた。キリさんは「ふふっ」と笑って荷物を収め始める。僕の質問に対する答えを教えてはくれなかったが、片付けをしながら一言、
「絵っていうものはね、その人がどう受け取るかに意味があるの。その絵が何を描いているのか、何を表現しているのか。だから、それについてを私がとやかく言うつもりはないわ」
と教えてくれた。つまり、この絵に描かれているものは僕の様子なのだろうと決めつけると、彼女が僕と同じように僕を見ていた事に気が付き、なんだかムズムズしてしまう。だって、多分この姿は僕が本を適当に読んでいる時のものだ。全然かっこよくないし、幼い姿だ。それをこうして一枚の絵として残されてしまうというのは、存外恥ずかしいものなんだなとか色々と考えてしまった。
「そろそろバスの時間ね。今日はこれくらいかしら」
キリさんはその絵をしまうと、鞄の口を閉めて身支度を済まして歩き出す。僕も、それに着いて行く。
「本、どうだった?」
「えっと……」
内容を覚えているはずもなく、言いよどむ。
「難しかったかしら」
「……うん」
読んでなかったと素直に言えず、とりあえず彼女が出してくれた回答に便乗する。それを聞いて彼女は残念そうな表情をするでもなく、むしろ予想通りだと言わんばかりの顔をしていた。おそらく、僕が本を読んでいない事はバレていたのだろう。それにもしかしたらキリさんを見ていたこともバレているのかもしれない。それに気が付くと、いやに恥ずかしくなってきた。走り去ってしまうという事はなかったけれど、口数はいつもよりも減ってしまう。来た時と同じように話をしながらバス停まで歩いて行ったが、羞恥心が薄れるまではボソボソと話し続けてしまった。
僕らがバス停についた時には既に周囲は暗くなり始めていた。
「もう暗いから、君は帰りなさい」
キリさんはベンチに腰を下ろしながら、僕にそう言う。僕としては彼女といられる時間を自分から無くすのはイヤだったから、バスが来るまではここにいたいと伝えた。しかしキリさんは僕の方を見て、
「暗くなってからだと危ないでしょ。いいから帰りなさい。私なら、また来るから」
と諭すようにして説得してくれた。逆らえない。彼女の目を見てそう感じる。彼女が僕に対して慈愛の様な感情を向けてくれる時は、従うべきという気持ちと温かな思いに包まれてしまう。それは今日、一日中一緒にいて気付いたことだった。これがいったい何なのかは知らないし分からない事だけど、キリさんは他の大人たちとは違う特別な人なんだと思った。
僕はキリさんの忠告通り、そのまま家へとまっすぐ向かっていった。自分の家に近づくと、暗闇の中で美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。それに安心感を抱きつつ、さっきキリさんが言っていた「また来るから」という言葉を反芻して、初めて彼女が自分と約束をしてくれたことに嬉しく思う。多分それは「ただいま」の声色にも滲み出ることだろう。今夜は祖母から色々と聞かれるだろうから、適当な言い訳を考えておく必要があるかもしれない。そんな事を考えながら、玄関をくぐった。
その晩は、何となく仏壇に置かれている写真の母親と目を合わせられなかった。
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数時間ぶりに喫茶店の前に立つ。いつもなら閉店をしている時間だが、今日だけはいつもと様子が違っていた。中は明かりがともり、人が出入りしている。佐紀さんの個展が開かれているのだ。
ここまで来たものの、入るかどうか悩んでしまう。正直言って自分が門外漢であり、そこに展示してある絵に対して興味を持っていないという事実が、僕の足を進ませないでいた。絵なんてものは幼いころに一度触れる機会があったきりで、そこまで注意深く考えた事など無い世界である。しかも触れると言っても、人の描いた絵を見ただけで自分が描いていたわけでもない為、技術だとかそういったものはからっきしなのだった。
「水原さん、来てくれたんですね。よかったらどうぞ」
私が扉の前で立ちすくんでいると、待ってましたと言わんばかりの様子で佐紀さんが扉を開ける。この様子では、私が来ないとは全く考えてもいなかったのだろう。僕は、他の客が個展の主の声に誘われ、こちらにちらりと視線をよこしたのを見逃さなかった。そして、ここまで来て帰るわけにもいかなくなってしまったなと思われた。
「この間、来ると言ったからね。意外だろうけど、せっかくだから見てみたいなと思っていたんだ」
「意外だなんてそんな……。あれは、水原さんは絵よりも文字の方が興味をお持ちかと思ってただけで……」
あくまでも絵に興味があると云う体を装う。彼女の言う通り、僕は絵に興味なんて持っていないし、どっちかと言えば、同じ芸術なら本を読んでいる方がいいと考えているクチだから、深く追及されないように軽口をたたきつつ、彼女の出迎えを受け入れた。
「まあ、本当に絵なんてものには触れてきてないから、何もコメントをできないだろうけど。それでも良ければ入らせてもらってもいいかな」
僕の発言に佐紀さんは嬉しそうに、
「ええ、是非。それに、感想は受け取り手次第ですから。」
と答えると、僕を喫茶店の中に誘導する。それに従って中に入ると、そこには5~6人程度の人がいた。一人は普段から喫茶店で見かける女性だったが、他の人は彼女の絵のファンなのだろうか、学生らしき人や興味深そうにして一枚の絵をにらんでいる人など様々だった。
「私の学校の同級生とか、そういう人たちなんです」
私の疑問に答える様に、佐紀さんが後ろからそっと教えてくれる。なるほど、彼女の知り合いがほとんどであるらしい。となると、そこまで親密な関係ではない僕は少し肩身が狭いような気がしてしまう。僕はどうとでもないという感じで彼女に曖昧に返事をして、そのまま手近な作品の前に立って、さもそれを吟味しているようなフリをする。一つずつ作品の前をゆっくりと歩いて、何もわかっていないのに「なるほど」などと呟いてみる。
佐紀さんと言えば、他の人と話をしているためこちらの様子に頓着してない。あの人も彼女の知人なのだろう。佐紀さんは「え~?そうですか?」だのと言いながらにこやかに話をしている。僕が来る前も同じ感じで色々な人と会話をしていたのだろうか、僕が思っているよりも顔が広いのかもしれない。普段の彼女を思い起こせば、確かに人好きのしそうな性格をしているから、きっとそうなのだろう。僕は一人で勝手に合点して、彼女から作品へと意識を戻した。
目の前の作品は、相変わらず何を描いているのか分からない抽象的な画風で、題名も「思い出の味」とだけ書かれている。何か食べ物のようにも見えるし、そうでない別の物のようにも見える。どこかで見た事のあるような気がするが、彼女の作品を知っているはずもない。おそらくデジャブというやつなのだろうが、この絵が気になって仕方がなかった。
しばらくその絵を見詰めた後、次の作品に移る。しかし、他の作品はさっきの絵の様に気に止めてしまうといった感じではなかった。いつの間にか、新しい作品が出てこなくなっていた。どうやら目の前のこれが最後であったらしい。そうなるといきなり手持無沙汰になる。ここにいたところで、特段何かをするわけでもないし、佐紀さんと言えば先ほどから色々な人に話しかけられては対応をしている為、僕は完全に部外者になってしまった。これ以上、ここにいる必要もないだろう。彼女の書いている作品の雰囲気だけでも知ることができたため、一応目的は果たしているのだ。僕はそのまま喫茶店から、彼女に何を告げるでもなく外に出て行った。しかしその時、
「水原さん!」
と佐紀さんが僕を呼び止める。
「もしよかったら、この後で少しだけお話しませんか。この展示ももうお仕舞の時間なので、その後にでも」
僕は彼女の言葉に面食らってしまい、思わず「あぁ、うん」と首肯してしまった。彼女はそれを聞くと、「じゃあ、20時くらいにまたウチに来てください」と言い、駆け足で喫茶店の中に戻った。そして、さっきまで話をしていた人に頭を下げてから話をし始めていた。
僕はそれを見ながら、正直「しまったな」と思う。これから3~40分もどこで時間を潰そうか。外でぶらぶらすると言っても、このじめじめとした空気だとその気すら削がれてしまう。それに、この辺りはこの喫茶店以外に明るくはないし、暇をつぶすような場所など見当もつかないのだ。
――とりあえずこの辺りで他の店でも入ってみようか。
僕は大通りに戻ると雑踏の中に帰り、適当な店を探しながらさ迷い歩くことにした。
・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・
キリさんは次の日には現れず、結局一週間くらいしてようやくやって来た。いつしか僕は帰りではなく、キリさんが初めてやって来た時の時間に合わせてバス停に来るようになっていた。そして彼女は一週間もかけて、ようやくここに現れたというわけだ。なので、僕はちょっとだけ不機嫌な様子でもって彼女と話をしていた。
「どうしたの?」
彼女は全く考えが及ばないと云う様に、僕に対して問いかける。キリさんがバスを降りてすぐの事だった。僕は素直に言うのも子供過ぎると思って、
「別に。何でもないよ」
と返す。かえって子供っぽい対応になってしまった。キリさんはどうしようもないと思ったのか「あらそう」と言うと、バス停のベンチに腰掛けて僕の隣に座っていた。その眼は何を見ているという事もなく、遠くの方をぼんやりと見つめている。僕はその眼が恐ろしく見えて、
「何を見てるの」
そう問いかけるが、彼女は僕がさっき言った事と同じ言葉を返すだけだった。
――大人気ないな。
僕は自分の事を棚に上げてそんな風に思う。何も僕に対して仕返しをしなくてもいいではないか。そもそも僕が不機嫌なのも、全部彼女が一週間も来なかったことが原因なのではないか。この間別れた時に「また今度」という言葉は嘘ではなかったけれど、僕を放っておいて、遠くの町で生活していた彼女が悪いのではないか。そこまで考えたが、彼女は「今度」と言っただけで、来る日についてを言及していない事に気が付いて情けなくなってしまった。思わずうつむいてしまう。その時に、ふといつもの何とも言えない匂いが漂ってきた。
「いい匂いね」
キリさんがふと呟く。僕は顔を上げて、キリさんに聞く。
「キリさんも、この匂い好きなの」
「金木犀かしらね。甘ったるくて好きじゃないけど、嫌いでもないわ」
キンモクセイ。この匂いの名前を初めて知った。
「僕は好き。この匂いがするから、今の時期が一番好き」
気が付くと、キリさんとは全く違う意見を言っていた。僕は焦ってキリさんの顔色をうかがったが、彼女はそんなことは気にしていない様子で、それを感じ取って安心してしまう。彼女の一挙手一投足に不安や安心を感じて、ドギマギする。彼女の様子を伺い見ては機嫌を損ねないように気を付ける。キリさんを怒らせてはいけない。そんな気がどこかでしていた。
「あ」
不意にキリさんが思い出したように声を上げる。そして鞄を開いて、先日描いていたキャンバスを取り出して僕に差し出した。
「最近はこれを描いていて来れなかったの」
その絵は完成したらしい。前見た時と同様、そこには色彩豊かに描かれた僕が描かれている。何も分からない僕でもそれだけは読み取れた。いや、本当は僕ではないのかもしれないが、少なくとも僕はそう感じ取った。でも、彼女はそれでいいと言っていたから、僕はその考えを改める気はない。これは僕なのだ。
「これ、よかったら貰ってくれないかしら」
彼女は僕にそう言った。しかし、僕はその絵をもらう事に対して異常なまでの拒否反応を示してしまった。
「……いらない」
僕は彼女に絵を返す。言葉にはできないけれど、その絵には何か特別な意味が含まれてそうで、そしてそれを僕が受け取ることが何かを決定付けてしまうような予感がしていた。だから、この絵を受け取ることができなかったのだ。
キリさんは驚いた表情で突き返されたキャンバスを受け取っていた。きっと、まさか僕が受け取らないとは思っても見なかったのだろう。彼女の表情が暗くなっていく。失望という言葉の意味を始めて理解した瞬間と言ってもいいかもしれない。それほど、彼女の落胆は目に見えたものだった。
「ごめんなさい。今日はもう帰ります」
僕は初めて自分から彼女のもとを立ち去った。罪悪感がすごくあったが、僕は走ってその場から離れて行った。
しばらくしてそこに戻った時、キリさんはその場にはおらず、彼女がやって来ることはそれ以降なかった。
・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・
20時を少し過ぎた頃、僕は喫茶店まで戻ってきた。さっきまで入っていた喫茶店は、味はいいものの、この店の様な居心地の良さを感じる事はなかった。
「あ、水原さん。叔父さんには伝えてるので、適当に座っててください。もう少し待ってもらえれば、コーヒーできるので」
佐紀さんはカウンターにいた。当然ながら僕以外に客の姿は見えない。店の様子もいつもと同じように戻っている。僕はカウンター席に座ることにした。
「僕だけしかいないというのも、なんだか不思議な感じだな。店長にも悪いような気がするし」
「そこまで気にしなくても大丈夫ですよ。説明したら、笑いながら了承してくれてました。ある程度なら在庫を使ってもいいって言ってましたし。まあ、私のお給料から引かれちゃうんですけど」
コーヒーを二つ持って来て、佐紀さんが僕の隣に座る。僕は、置かれたアイスコーヒーに口を付けた。そこで一つ違和感を覚える。
「あれ、普段コーヒーを作ってるのって……」
「あ、バレましたか。実は普段は叔父さんが作ってるんですけど、最近ちょっとずつ勉強し始めていて。どうですか」
佐紀さんは上目遣いに出来栄えを聞いた。
「いや、十分美味しいよ」
もう一度グラスを傾けながら僕はそう答える。それを見て「よかった」と微笑み、自分も口に含み、それをコクンと飲み込むと、意を決したように真剣な表情で、
「今日の作品、どうでしたか。さっき聞きそびれちゃってたので気になってて」
と尋ねる。
「僕は作品がどうこうなんて言える立場じゃないけれど、「思い出の味」っていう作品は好みだったよ」
「あぁ、あれですか……」
佐紀さんは僕の指摘に対してどこか恥ずかしそうに話しながら、語尾をすぼめていってしまう。
「ちなみに、あの絵って人が描かれているように見えたんだけど、僕の気のせいかな」
僕は気になっていたことを彼女に問いかけた。
「思い出って言うほど昔の人じゃないんです。むしろホントに最近にあった人なんです」
僕の方をじっと見て彼女は、そう力強く答えた。金木犀の香りと抽象的な絵が、僕の感情を強く揺さぶった。悪戯心が首をもたげる。
「随分と大切な人のように思えるけど、学校の人だったりするのかい」
「学校の人じゃないんです。よくウチにやって来るお客さんです」
仕様もない押し問答。そもさんと聞いて説破と返答するだけの定型的なやり取り。しかし、その中で彼女が伝えたい事が何であるかという事くらいは僕でも理解ができる。そしてその好意を無碍にするつもりもなく、むしろ受け入れたいと思っている。
「なるほど。嫉妬してしまうな」
「ふふ、そうですね」
それから、僕らはどちらからという事もなく店を一緒に出て、ホテルへと向かいそのまま朝まで時間を共にした。彼女の体と一緒に金木犀の匂いを確かに僕は掻き抱いていた。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
佐紀さんと関係を持ってから幾月が経ち、彼女は相変わらず喫茶店で働きつつ絵を描いて生計を立てていた。
「お待たせしちゃってすみません」
そう言いながら佐紀さんが店から出てくる。これから彼女は大学に向かい、そこでしばらく創作を行うらしい。僕はそれまでの付添いだ。
「いつもすみません。水原さんの家とは全然違う方向なのに、大学まで送ってもらって」
「いや、いいんだよ。僕はこの時間が好きでやってるんだから」
申し訳なさそうに言う彼女に対して、僕は素直な考えを伝える。隣りからは金木犀の香り。実際、僕はこの時間が最も好きな時間だったのだ。こうして彼女と並んで歩き、彼女と話をして、少しずつ彼女の事を知れる事が何よりも楽しく嬉しいものであることは間違いなかった。佐紀さんは、今日一日でどんなことがあったのかを楽しそうに話してくれる。そして、僕はそれに相槌を打って笑う。これだけで充足していた。金木犀の香水をつけた彼女が何を考えて、何を話すのか。後になって思い出すだけでも十分すぎる程に満足感を獲得できる。そしてこれは、もはや僕の習慣ですらあった。
「じゃあ、まあ明日」
「ありがとうございました。また明日ですね」
さすがに校内に部外者が入るわけにもいかず、僕たちは門前で別れる。そして、中に入っていく彼女を見送ると、僕は踵を返し自宅へと向かって行った。毎度同じ淋しさはあるが、しかし次に彼女と会う時の事を考えれば自然とその足取りは軽くなる。それは多少の幸福など大したことではないと思われるほど、僕にとっては幸せなものだった。
翌日、いつもと同じように彼女を迎えに行く。いつもの様に佐紀さんが店から出てくる。いつもの様に彼女の話を聞きつつの帰路。今夜は創作をしなくてもいいらしい。そのまま彼女のアパートまで送ることになりそうだった。しかし、今回はいつもとはどこか違うものを感じていた。いつもの金木犀の香りが彼女から漂ってこない。香水を変えたのだろうか、いつのよりも清涼感のある香りをまとっている。それに気が付くと、僕は途端に不愉快な気持ちを覚えた。この隣りにいる女性は誰だろうか。なぜ僕はこの人の話を聞いていないといけないのか。
――この女は、なぜこんなにつまらない話を楽しそうにしているのだろう。
僕は急に彼女に対しての興味を無くしてしまった。
「今日は泊まっていきませんか」
気が付けば、彼女の部屋の前まで来ているようだった。扉を開けて僕を誘っている女性。僕は適当に首肯しつつ、その扉をくぐった。そして扉が閉まると同時に後ろに立つ女性の腕をつかみ、ベッドに放り込む。彼女は突然の事に思考が追い付いておらず呆けていたが、そんなことは関係ない。僕はいつもよりずっと荒く彼女を探した。
――あの人はどこ。あの人に会いたい。
息を荒げて金木犀の匂いを探すが、それはどこを探しても見つからない。目の前の女は、自分の状況をようやく理解したのか、身を固くしたがそれ以上の抵抗を示す事はなかった。
この女は一体何なんだろうか。ここまでつまらない人間だっただろうか。こんなにもどうしようもない女性だったのだろうか。だとすれば僕はこれまでの時間を一体何に費やしていたのだろうか。そこまで思考が働くようになった頃、急激に僕の中の熱は失われていた。
先ほど脱ぎ捨てた服に紛れていた携帯を取り出し、『佐紀』と書かれたアドレスを削除した。そして、服を身にまとうとそのまま部屋を出て行く。
「どうしたんですか」
部屋の主の声は不安に揺れていた。
「いつもと様子が違いましたし。あの、私が何か不愉快な気持ちにしてしまったのなら謝りますから」
何もわかっていない。その不器用さと幼さが僕の哀情を一層掻き立てた。
「別に君の言動の問題じゃないんだよ。ただ、君と一緒にはいられないような気がしてるだけだ」
僕はそれだけ伝えると、足早にその場を離れる。そして大通りに出ると、すぐにタクシーを捕まえて自宅までの道を伝える。そしてそこまでした後、僕はさめざめと涙を流した。
――あの人は、もう僕の前に現れてくれないのだろうか。やっぱり僕のことを怒っているのだろうか。
「ごめんなさい」と呟き続ける僕から異様な空気を感じ取ったのだろう。運転手は何も話しかけてくることはなく、ラジオの音量を少しだけ上げていた。自宅に着くまでに何度か携帯の着信が鳴っていたが、そこには同じ番号が写っているだけで、何の解決も図ってくれそうにはなかったため、僕は携帯の音量を切っていた。
「お客さん、着きましたよ」
運転手の声で我に返る。言われた額を支払う時に、
「何があったのかは分からないけど、そんなに自分を卑下しちゃダメですよ」
そう声をかけてもくれたが、僕はそれを無視して車を降りた。ポケットの中で携帯が震える。画面には先ほどまでと同じ番号。僕は一度咳払いをして、その着信を受け取った。
「もうかけてこないでください」
僕は突き放すようにそう言うが、それに対して相手は全く反応しなかった。
「あ、やっと出てくれた。今、どこにいますか」
電話の向こう側は息が上がっている。走っていたのだろうか。
「どこって、自宅です。他に行くところもないですから」
「わかりました。すぐに行くので逃げないでくださいね」
女性はそれだけ伝えると電話を切った。携帯からは無感情な機械音だけが鳴り続いている。今からやって来ると云う事だろうか。何とたくましい精神を持った女性だろう。上手く回らない頭でそんなことを考えつつ扉の鍵を開ける。部屋の電気は付けない。今は何も考えることなく、ただぼんやりとしていたかった。着替えることもなく、そのままベッドの縁に座り込みただ時間が過ぎるのを待っていた。さっきまで泣いていたせいか、頭がぼぅっとして思考がままならない。ただ、キリさんに対しての罪悪感に苛まれる。
「ありがとうございました」
外から車のエンジン音が意識を現実へと引き戻す。インターホンが鳴った。
「水原さん。開けてください」
切羽詰まった声が扉の向こうから聞こえる。扉を叩く音も聞こえる。しばらくそれが続いていたが、不意に扉が開く音が聞こえた。流石に驚いたが、自分が鍵をかけた記憶がないことに気が付き、すぐに問題ではなくなってしまった。
「水原さん、入りますよ」
玄関から不審そうな声が聞こえる。
「もう放っておいてください。今は誰とも会いたくないんです。特にあなたとはもう会う必要がないんです」
部屋の電気が付いた時、僕はそう言って突き放す。しかし、この人は僕の前に座った。その時に微かに金木犀の香りがした。驚いて顔を上げる。服が帰宅した時と違っていた。おそらくこの匂いは昔付けたものの残り香なのだろう。しかし感覚が敏感になっていた僕にとって、その匂いは強い刺激として襲い掛かって来ていた。
記憶が呼び起こされる。そして僕はタクシーの中と同様に、その匂いに対して謝り続けていた。彼女はまた僕の前に現れてくれた。この間の粗相を許して欲しい。その一心だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
「……何がですか」
目の前の女性は僕の豹変ぶりに驚きつつも、冷静にそう質問してきた。しかし、この謝罪が自分に対しての謝罪ではない事は理解しているようだった。
「この間、せっかく描いてくれた絵を受け取れなくてごめんなさい。離れて行かないでください。もっと知りたいんです……」
僕は、かつてのキリさんに対しての謝罪を述べる。おそらく目の前にいるこの女性には何のことだか理解できない事だろうが、それでも僕はこの匂いを通して謝り続けていた。三度も別れを味わいたくない、考えていることはそれだけだった。
その時、突然体が匂いに包まれた。どうやら女性が僕を抱いているらしい。微笑んでいるらしいことを気配で察する。
「私は、あなたの事が好きですよ」
それを聞いて、僕はなんだか虚しくなってしまった。きっとこの人は理解していない。しかしこの言葉は、金木犀の匂いからの言葉であった。極めて幼い僕の支離滅裂な言動をこの人は慈愛でもって救済してくれる。その事実は、初めて出会った時の帽子の下から覗くキリさんの優しそうな目を連想させた。僕は匂いのもとを強く抱きしめる。そして深く息を吸い込み、「金木犀」と小さく呟き、「甘ったるくて好きじゃないけど、嫌いでもないわ」とかつて聞いた言葉を続ける。そして匂いに包まれたまま、少しずつ意識を手放していった。
――この匂いがするから、この時期が好き。
薄れていく意識の中で、そうつぶやく佐紀さんの声がかすかに聞こえた気がした。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「この匂いがするから、この時期が好き」
私は落ち着き始めた彼を抱いたまま、いつか聞いた言葉を呟いた。そして私の胸の中で寝息を立てている彼をそのままベッドに寝かせると、その場にへたり込んで深い溜息を吐いた。
彼には言っていないが、私は彼が喫茶店に来る以前からその存在を知っていた。と言っても、幼い時の雰囲気と彼の名前だけを、随分と昔に伝え聞いた位のものだったが。それでも、初めて見た時に私は彼を「水原ヒカル」なのだと気が付くことができた。だからこそ彼に話しかけたのだ。そうすることで、私が絵を描くきっかけになった義姉の話を聞き出せるという打算があっての事だった。
――とはいえ、ここまでトラウマを持っていたとは思わなかった。
義姉さんは、たまにどこかにふらっと行っては絵を描いて帰ってくる人だった。私はその時の話を聞くのが好きだったが、特に好きだったのは彼女がその先で、ある少年と交流している話だった。いつも楽しそうにその少年の話をする義姉さんの様子を見て、私はいつの間にかその少年に対しての慕情を密かに抱いていた。だから、この出会いは十数年にわたる思慕があってこその奇跡だ。
しかし、その人と目の前にいる人が同じ人だという確たる自信は先ほどまでなかった。今までは、下の名前と金木犀の香りが好きで同じ地方の出身というだけの、もしかしたら別人の可能性すらあった。いや、その可能性の方がよっぽど高い物だったろうと思う。それでも私はもしかしたらという可能性に賭けた。しかし、この人は彼である。その事実はたった今のやり取りで決した。私は分の悪い勝負に勝ったのだ。
――もし、香水の匂いに気付いてくれなかったら、わざわざ家まで追いかけるようなこともしなかった。
彼は私の想像通り、義姉さんに対する罪悪感に苦しんでいた。そしてそこからの救済を求めていた。仮にそうじゃなかったとしたら、この人が水原ヒカルであっても「水原ヒカル」ではない。そうだったとしたら、わざわざ売れない作家をやっている価値がなくなるところだった。抽象画という、義姉さんの模倣をしている意味がなかった。そういう意味でも、本当に彼が「彼」でよかったと思える。
「私があなたから離れることはありませんよ」
私は義姉さんが遺した小さなキャンバスを鞄から取り出し、苦しそうに眠っている彼に囁いた。全てが決まった今、私は今日の香水を再びつける必要はない。彼が私を通して義姉さんを見ていたのだとしても、私は一向に構わない。たかが義姉さんと同じ香水を着けているだけで彼が手に入るのならば、それ以上の何を望むことがあろうか。
私は彼の頭をなで、彼がいい夢を見ていられるように祈った。
金木犀の口当たり 彩煙 @kamadoma
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