第36話 罠

 西岡無念の道場の前。

 伊織と蔵之助、タマは物陰に隠れて様子をうかがう。

 人の往来はなく、辺りはシンと静まり返っている。


 暗い道場の前。中の様子は、外からでは分からない。


「気を引き締めるのじゃ」

「タマさんが一番、うるさかったのですよ」


 伊織が指摘すれば、タマが「ニャ!」と小さく不平を言う。


「でも、気を引き締めるも何も、誰もいないじゃないか。このまま、中に入っても大丈夫なんじゃないか?」

「いいや、こういうときほど、用心に越したことはないのじゃ」

「そうかな。まさか、こんなところにまで、侵入者がいるとは思わないんじゃねぇの?」


 どうやら、タマが肩に乗っていることで、気が大きくなって蔵之助は油断しているようだった。


「もっと中まで入ってみようぜ」

「蔵之助! ちょっと!」

「く、蔵之助! 待てというのに!」

「だって、ここからじゃ見えないし」


 タマの言うことを聞かないで、蔵之助はそろそろと前へ歩き出してしまった。


「仕方ない、伊織はここで待っておれ! 良いな、タマ達が戻ってくるまで動くんじゃないぞ!」


 タマ達が道場の中に入っていってしまった。伊織は、そわそわする。中の様子が気になる。首を伸ばしてみたが、見えるわけがない。

 

「ダメだ。こんなの待っていられない」


 伊織は、ついタマの言いつけを破って、西岡無念の道場へと入っていく。

 敵を警戒しながら、ゆっくり前に進むが、先に入ったはずのタマと蔵之助の姿が見えない。


 おかしい。

 ほんの一瞬であったはずなのに、なぜ蔵之助たちの姿は消えてしまったのだろう。

 伊織の予想では、蔵之助達の姿は、すぐ前の廊下を歩いているはずだったのだ。


 以前に侵入した時と同じ光景である。敵の道場の中心は、この廊下の先にあることは知っている。

 伊織は、履物をそのまま身に着けたまま、ゆっくりと廊下へ上がって、廊下をすすむ。板張りの廊下は、油断すればすぐに軋んで敵に侵入を知らせてしまうだろう。伊織は、猫のように慎重に足を進めて、道場へと近づく。


 道場の入り口。明かりがついているのが見える。


「子ネコ可愛さに耄碌もうろくしたな、猫よ」


 西岡無念の声が聞こえる。


「そう言うがの、お主のことはさっぱり覚えておらんのじゃ」


 タマの声も聞こえる。


「忘れただと? 何年、復讐のために探し回ったか!」

「だから、何年と言われても、そもそも貴様ごときを知らんと言っておるのじゃ」

「何?」


 苛立つ西岡無念に、タマが飄々と答えている。

 すっと伊織が広い道場があるはずの部屋を覗くと、タマと由岐が鳥かごに捕まって、西岡無念の横に蔵之助と桜崎陽介が座っている。

 

「あの馬鹿! また簡単に操られたんですね!」


 つい出てしまう蔵之助への悪態に、慌てて伊織は口を手で押さえ込む。

 

「だ~か~ら~! 知らんと申しておろうが! 分からん奴じゃ」


 一瞬、西岡無念に声を聞かれたかと案じたが、タマが一際大きな声で挑発する。

 タマは、伊織が見ていることに気づいているのかもしれない。

 知っていて、無念の目が伊織に向かないように、気を反らしているのかもしれない。


「おのれ猫又! 馬鹿にしおって!」


 タマの狙い通りなのか、無念はかなりイラついている。

 籠の中、タマは由岐の前に立ってずっと無念と言い合っている。

 後ろの由岐の表情は伊織からは見えないが、生きてはいるようだ。


「蔵之助も兄様も返してよ!」


 ……元気そうだ。涙声で、無念に由岐が怒鳴っている。声が枯れている様子からして、ずっと泣きながら怒鳴っていたのであろう。

 

「そもそも、タマや道場主の佐内がいない時に来て、子どもから看板を奪ったとドヤ顔されても、の。まぁったく、なんも怖れいらん。今、このタマを捕らえたのだって、蔵之助を人質にしおったから、タマが自分で籠に入ってやったのじゃ。自分で入った籠、その気になれば、いつでも出られるわ!」


 フォフォフォ! と、余裕たっぷりにタマが笑う。

 これは……伊織は気づく。

 確実に、タマは伊織が隠れて見ていることに気づいているのだろう。伊織が状況を把握しやすいように、説明してくれているのだ。


「減らず口を叩きおって!」


 人間の顔をしていた無念の顔がみるみる内に変化する。

 耳が生え、細く長い尾が現れる。

 鼻がとがり、歯が突き出る。


「ねずみだ……」


 伊織は、西岡無念が、大ネズミに変化したのを、確かに見た。

 操られたままの陽介も、蔵之助も、ネズミとなった無念には、少しも動じない。


「ふむ……やはりこの妖気はネズミであったか」

「この姿を見て思い出したか?」

「いいや?」


 タマは、わざと無念を怒らせているのだ。

 伊織は、タマが、無念を怒らせて反撃する隙を伺っているのだと、感付く。

 では、その隙に何をすれば、一番良いのか……。

 伊織は、キョロキョロと部屋の中を見渡す。


 ろうそくの明かりを消しても、妖の無念には意味がないであろう。無念を、伊織一人の力で打ち負かすには、無理がある。

 桜崎陽介は、きっと、伊織の力では元には戻らない。籠は、タマが今、『自分で出られる』と言っていた。

 ならば、伊織が考えなければならないのは、蔵之助の救出だ。

 蔵之助なら、前に耳にかじりついて戻した時ように、伊織でも元に戻せる可能性が高い。


 ……では、どうやって元に戻せば良いものか……。


 伊織は、無念の動きに注視して、無念に隙が出来るのをじっと待った。




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