第32話 山道

 那智黒石の数珠は、男の喉にはつっかえなかった。

 男は、妖の支配から逃れて、意識を取り戻した。

 野中忠助と名乗るこの男に、正気に戻ったのなれば、どことなりとも行けばよいと、五社は言ったのだ。何度も。


「いいえ! ご迷惑をお掛けした分は、お返ししなければなりません」


 忠助は頑固であった。先を急ぐ五社の後を付いて来て、離れないのだ。

 五社一人で歩くのならば、知った道のり、提灯も下げずに歩けるのだが、妖の呪力の切れた忠助を連れて歩くには、提灯がなければ、一歩も進めない。

 ツタとサエに頼んで、提灯を分けてもらったが、それでも夜道は歩き難いようで、忠助は五社の袂を離そうとしない。

 端的に言って、迷惑千万なのである。


「お返しと言ってもな、妖に操られていた時の記憶はないのだろう?」

「へえ。菩提寺の墓を参ったのち竹林に通りかかった時に、意識がなくなりそのままです」


 きっぱりと胸を張ってそう言われれも、五社も困るのだ。


「だったら、お前から手に入れられる情報はない。俺は、お前を操った妖の正体や、その手口が知りたいんだ」

「すんません」


 申し訳なさそうに頭を掻く忠助は、それほど悪人ではなさそうだ。

 だが、大きな図体のわりに、歩くのがとにかく遅い。

 古寺への山道を急ぎたい五社としては、できれば足手まといの忠助置いて行きたいのだが、忠助本人が、頑としてそれを許さない。


「忠助よ」

「佐内の兄貴! なんでしょう?」

「もう少しだけ……その、速く歩けんのか?」

「それが……意識が無くなっております間に、ふんどしが何故かなくなっておりまして。その……こすれて痛くて速くは歩けぬのです」


 顔を真っ赤にして困り顔をみせる忠助に、五社は何と言って良いか分からなかった。原因は、五社だ。五社が、忠助を押さえ込むのに使ったのだ。

 まさか、こんなところで支障が出るとは思ってもみなかった。

 五社は天を仰ぐ。

 そうは言っても、どうしようもない。

 ここで、代わりになるものを調達できそうにもない。


「やはり待っていろ。これ以上時間を取られるのは、敵わん。俺が、古寺で頼んでふんどしの一枚くらい分けてもらってくるから。な?」

「いや、それでは困ります。恩を受けて、さらにそのようにお気遣いいただくのは」


 どうやら忠助はとんでもなく真面目なようだ。残念ながら全く融通かきかない。

 どうしたものかと考えあぐねている五社が遠くをみれば、提灯の灯りがこちらの方へと近づいてくる。


「なんだ? あれは」


 この先は、五社の目的地である古寺しかない。

 人の出入りなんてほとんどない寺に向かって一直線に向かってくる光の速度は、五社の目から見ても速い。


 また、妖の手の者でも現れたかと五社が身構えれば、遠くから声が聞こえてくる。


「佐内の兄貴! 兄貴! どこですか!」

「辰巳?」


 辰巳は、子ども達とタマと一緒に道場で待っているはずである。

 何があったのであろうと、五社は案ずる。


「良かった! やっぱり兄貴だった! 遠くから、光が見えたんやわ!」


 近寄ってきた辰巳は、五社の顔を見て安堵する。


「どうした? 辰巳?」

「や、もう大変なんや。伊織君と蔵之助君が、黒雲の中にっ巻き込まれたみたいで!」


 ゼイゼイと荒い息をしながら、辰巳が訴える。


「伊織と蔵之助が? それで、タマさんは?」

「タマさん、探しに飛び出して行きよったんです。由岐さんは、留守番してくれてます」


 タマに任せていれてば、恐らくは、伊織と蔵之助は無事であろう。

 そうは思っても、子ども達もタマも、五社の大切な家族である。五社は、つい浮かんでくる悪い想像に、心がざわめく。

 一刻も早く道場に戻って、タマに加勢して、伊織と蔵之助を救い出したい。由岐もどれだけ不安な想いをしているだろう。


「辰巳、お前の速い足を見込んで頼みがある」

「何でも言うてください!」

「これから、俺の代わりに古寺へ行って、破邪の札をもらってきてほしい。なるべく多く」


 五社は、そう言うと、懐から財布を取り出して、辰巳に渡す。


「うわっ、ぎょうさん入ってますなぁ!」

「俺の全財産だ。あの古寺の和尚、強欲なんだよ。……で、だ。そこでこの銭でもらえる分の札をもらったら、ここに来て忠助と合流して、その黒雲の竹藪に来い!」

「忠助?」

「へい! 佐内の兄貴に恩義をお返ししたく、付いております。野中忠助と申します」

「なんですの? このデカいの」


 人のことを言えないほどのデカい図体をした辰巳が、怪訝な顔をして忠助を見る。

 

「おっと、ふんどしを一枚、忠助のために古寺でもらってくることもわすれないでくれ」

「ふんどし? いや、なんで?」


 ますます眉をひそめる辰巳に、「おたの申します」と、忠助が頭を下げた。

 辰巳にはさっぱり状況が分からなかった。


 混乱する辰巳を置いて、説明もせずに五社は道場へと向かって一人走り出したであった。



 



 

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