第8話 怒られました

 緊張した面持ちで、伊織と蔵之助は由岐の部屋の障子に手をかける。

 まさかこの奥に自刃して血塗れの由岐が……そう思えば、伊織の指先が冷たくなる。


「何をやっておるのじゃ?」


 頭の上が急にモッフリと重くなって、見上げればタマがいた。


「あ……いや、声を掛けても返事がないから。ひょっとして、由岐が悔しさで切腹でもしてたらどうしようと思いまして」

「由岐が切腹ぅ?」


 タマが腹を抱えてゲラゲラと笑う。


「だってタマさん、あんなに悔しがっていたんですよ?」

「由岐をみくびるでない。お前たちより長く『天然またたび流』を学んでおるのだ。伊織程度に負けたくらいで命を捨てる馬鹿はせん」

「伊織程度に負けたから悔しいんだろう」


 これは聞き捨てならないと、伊織はむくれる。


「ちょっと! タマさんも蔵之助も、僕をどう思っているんですか? 一応、タマさんに助言はもらいましたが、今日は蔵之助にも由岐にも勝ったのですからね!」

「まぐれだよ、あんなの! 次は負けない」

「まぐれだとしても勝ちは勝ちです! 次も勝ちますって!」

「ほっほっ! そんなのでは、二人ともまだまだじゃのう!」


 蔵之助と伊織が言い合っていれば、由岐の声がする。


「うるさい! あんた達、人の部屋の前で何やっているのよ!」


 声は、後方から聞こえてきた。


「あ……由岐」


  由岐は鉢巻をしめた勇ましい姿で、汗だくである。


「伊織、調子に乗るんじゃないわよ! まだまだ持久力が足らないから、私は負けたの。本来なら負けないんだから!」


 『本来』とは? と、聞き返したい気持ちを伊織はグッと押さえる。

 ここで言い返しても、きっと今度は由岐と喧嘩になるだけだ。今は由岐を慰めに来たのだ。

 ……とは言っても、由岐の様子からして、慰めなんて必要なさそうだ。


「良かったです。元気そうで」

「本当だよ。悔しさのあまり切腹でもしているんじゃないかと思った」

「切腹? 馬鹿ね。そんなわけないでしょう?」


 『切腹』と聞いた由岐の眉が、一瞬ピクリと震えたのを、伊織は見ていた。

 ほんの一瞬だけ、由岐の表情が強張って、すぐ元に戻った。


 どうしたのだろう……。

 伊織は、心配になる。


「由岐? 何か……」


 一瞬の曇りの真意を確かめようと開いた伊織の口を、タマが前足の肉球で無理矢理塞ぐ。


「ふぎゅう……!」


 柔らかい肉球に阻まれて、伊織の口からは、おかしな声が出る。


「此奴らが、由岐の部屋を覗き見しようとしておったから、このタマが止めておったのじゃ」

「おい、タマ!」

「タマさん、それはっ!」

「なんですって!」


 明らかに由岐の顔が怒りで赤くなってくる。


「道場に正座してなさい!」

「それは良いの! ぜひそうしろ!」

「おい! タマ!」

「タマさん! それはっ!」


 一番年長である由岐に命じられ、『天然またたび流』の秘術そのモノの化身たる猫又タマに言われれば、伊織も蔵之助も、逆らうことは出来なかった。


 五社に笑われながら、暗く冷たい道場に、由岐が気の済むまで、伊織と蔵之助は、正座させられていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る