第2話 秋刀魚

 とりあえず、何もないのは宜しくないだろうと、かまぼこ板に『天然またたび流』と五社がしたためた物を、伊織は看板があった辺りに取り付ける。

 本日の用心棒の仕事先で五社がもらってきたかまぼこの板が、こんなにもすぐに役立った。


「五社先生、これ……駄目かもしれません。大きさが全然違うから、白い前の看板の跡がかえって目立っちゃいますよ」

「そうか……だが、そんなにデカいかまぼこはないから困ったな……」

「いや、先生。かまぼこ板でなくっても良いんですよ。板なら」


 あごの無精ひげを擦りながら、五社がのん気に笑う。伊織は、道場の顔とも言える看板がこんな状態で大丈夫なのかと一抹の不安を覚える。

 

「食ってみたいがのう。そんなデカいかまぼこがあるのであれば……」


 タマが自分の三倍はあるであろうかまぼこを想像してジュルリと舌なめずりする。


「あ、いかん。よだれが……」

「もう……タマさんは、食欲ばかり」

「腹が減っては戦は出来ぬであろうが! もう、そんな板ッキレのことは良いから、秋刀魚じゃ! 早く食おうぞ!」


 ぷんすか怒るタマを抱き上げて、伊織は五社と共に家に入る。

 いつもの座敷では、由岐と蔵之助が夕餉の支度をしている。美味しそうな秋刀魚が人数分。添えられたカボスの緑が鮮やかである。それに芋の吸い物と飯、かまぼこまでが添えてあるから、豪華である。


「腹が空いた!」


 伊織の腕をスルリと抜けて、タマはいつも通りに五社の隣の座布団にちょこんと座る。一人前の膳を前にワクワクしている。

 人間と同じものを食すことが出来るのは、タマが普通の猫ではなく猫又だからだろう。


 待ちきれないタマがカボスを絞れば、部屋中に爽やかな香気が広がって、伊織の食欲をくすぐる。我ながら、良い焼け具合だ。秋刀魚の焦げ目を見て、伊織の腹がグウと鳴る。


 タマがヒョイと秋刀魚の端をつまんで、パクリと一飲みにしてしまったのを見て、ますます早く食べたくなる。

 五社が箸を付けたのを見て、ようやく伊織もカボスを絞ってふっくらした秋刀魚に箸を入れれば、ふっくりした身ははらりと解れて、フワッと湯気が舞い上がる。

 口に含んだ秋刀魚の油は、カボスの酸味が良い塩梅でしつこさを消してくれている。どうやら、ほんのりと聞かせた塩も良い加減だったようで、口の中は秋刀魚の旨味でみるみる唾液がにじみ出てくる。


「ふむ。良い秋刀魚じゃ!」


 タマがゴロゴロと喉を鳴らしながら舌なめずりする。


 五社の仕事の報酬は、控えめに言って高くない。

 だが、五社を気に入っている仕事先は多く、道場の困窮は知っているから、野菜や米を少しずつ分けてくれるところが多い。「この魚をタマさんに」「子どもらに、柿でも喰わせてやんな」そんなこんなで、天然またたび流の台所は案外潤っている。

 だから、伊織たちは貧しくとも、喰うに困ったことはない。

 

 明治の世になっても、庶民の暮らしはまださほど変化は無い。

 江戸にビフテキ屋が出来たとか、政府なるものが徳川様に変わって帝と一緒に国を治めるのだとか、そもそも江戸が『江戸』とは呼ばなくなったとか、そんな話は聞こえてくるが、片田舎の庶民の日常なんて権力者が変化しても一朝一夕には変わらない。今まで通りに畑を耕し、家族で飯を食み、じわじわと侵食してくる新しい世の中が、少しずつ浸透してくる。


 髷を切った男が闊歩し、成金が洋装を見せびらかし、レンガ造りの建物が増えて、街灯が街に新しい灯りを灯し始めるても、それでも、きっとタマと五社と伊織と由岐と蔵之助と、皆で夕餉を囲めたらそれで幸せなのだろうと、伊織は思う。

 だが、それにしたって、皆が集う場所であるこの道場で、看板が盗られたのは、ちょっと具合が悪いのではないだろうか。


「やっぱり取り戻しませんか? 看板……かまぼこ板は良くない気がいたします」

「そうですよ。先生! 取り戻しましょうよ!」


 由岐も伊織に賛同する。

 五社がかまぼこを一つまみ、口に放り込んで頭を掻く。

 

「取り戻すったって、どこの誰だよ。このボロ道場の看板を持っていくなんて酔狂は」

「えっと、名前は……」

西岡無念にしおかむねんだそうです!」


 今までずっと黙っていた蔵之助が、由岐が道場破りの名を思い出す前に叫ぶ。


「俺、悔しくって!」


 蔵之助がポロポロと涙を落とす。





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