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二宮 奏(にのみや かなで)。高校三年生。


国内において知らない者はいない、経済界の大財閥『二宮グループ』の令嬢である。


父の敷いたレールの上を進んでいれば、特に努力せずとも成功の道を辿ることの出来た奏だったが、幸か不幸か、音楽という世界と出会ってしまった。


『麻生 響』と出会ってしまった。


奏はこれまで、特に努力をしたことがなかった。

容姿端麗であり、頭脳明晰でもあった奏。学業は普段の授業を聞いているだけでほとんど理解できた。

それなりに運動神経もあった。

つまり、挫折を知らなかった。


そんな奏が、付け焼き刃では太刀打ちできなかったのが、音楽、そしてピアノであった。


きっかけは、父の趣味で連れていかれたクラシックのコンサート。

そこで見たものは、海外のオーケストラに混ざってピアノを弾く、たったひとりの日本人、麻生 響。


その存在感と、技術の高さは、素人だった奏と同行した親友を、一瞬で虜にしたのだった。


当初は嫌々訪れたコンサート。

そんなコンサートのなかで、たったひとりのピアニストに、音楽に心を奪われたのだ。



それからというもの、奏は必死に音楽を学び、ピアノは父の力を借り、講師を招いて練習した。


コンクールなどに出ることは全く考えていなかった。


ただ、『麻生 響』という、天才ピアニストに純粋に感動したから。

そして、自分に届かないかもしれない領域があるかもしれない、ということが単純に許せなかったから。


その日、コンサートが終わると奏は父にこう言った。


「お父さん、私……ピアノが弾きたい!あの人みたいになりたいわ!!」


父は、娘の願いを聞き入れた。

ピアノ室を増設し、グランドピアノも惜しげなく入れた。


奏は寝る間も惜しみ、友人との遊びの時間も捨て……


絶対に合格は不可能と言われた、日本でも屈指の音大の付属高校に入学を果たした。

英才教育を受けてきた、音楽のエリート予備軍たちに混ざり、2位の成績で合格したのである。


そして、入学の年……。

高校に合格した直後、響と再会した奏。もちろん響にとっては当時、観客の一人だった奏。自分のことなど知ってはいないのは当然だったのだが……。


奏は今日のもとでピアノを学ぶことに決め、響も、素人ながらも熱意溢れる奏のことを生徒として迎え入れた。


天才ピアニストという最高の講師のもとで技術を磨き、いまや奏は、校内でもトップクラスの実力者となったのであった。




――――――――――――――





部屋着に着替え、『ピアノ室』へ向かう奏。


『ピアノ室』とは、奏が音楽、ピアノを始めたいと決めたとき、父にその旨を話したところ……


……1週間で完成した、奏専用の完全防音部屋である。

ピアノ、録音設備、などなど……

奏が自らの音を磨きあげ、また確認するのに最適な設備が揃っていると言える。


そんな奏専用部屋のドアを開ける。

中はすっかり暖まっていた。


手には譜面。開くと赤と青のペンで至るところに文字が書き込まれている。


赤いペンが師である響が書いたもの。青いペンは、自ら注意されたところ、アドバイスされたところを書き入れたもの。

赤より青の書き込みの方がはるかに多いことから、奏の努力をうかがわせる。



「さて、やりますかー!」



ピアノ前の椅子に座り、その上に伏せてある、ふたつの写真立てを起こす。


ひとつは響と奏が写った写真。そしてもうひとつは奏と同じ制服の少女が写った写真。

どちらの奏も満面の笑み。響は相変わらずの仏頂面。そして奏と一緒に写る少女は、奏と腕を組み、こちらも満面の笑み。

奏と少女、ふたりとも整った顔にすらりとした体型。美少女ふたりが並ぶ姿は絵になる構図である。



そんな写真を交互にみやると、真剣な顔で


「まずはあなた達と同じ土俵に立たなきゃね。天才達の壁は高いぜ。」


とため息混じりに呟く。


ようやく準備が整った奏。演奏前には心を落ち着け、集中するために目を閉じる。

ひとときの静寂。


目を開いたとき、明るい奏の性格はなりをひそめ、

『ひとりの音楽家』としての奏が目を覚ます。


ゆっくり、静かにピアノを奏で始めた……



1音1音、確認するように丁寧に鍵盤を叩く奏。


『ミスが嫌い』


根っからの完璧主義者でもある奏は、一度夢中になったらとことんやる、ミスがなくなるまでる。

故に、シンプルに楽譜通りに弾くだけなら、何度も練習することで目的には達することができる。

だが、


「楽譜通りに弾くだけではピアノはただの楽器にしかならない。細かな抑揚、弾き方、感情の乗せ方次第で、その楽器は自分の気持ちを素直に表現する鏡にもなるんだ。」


毎度のレッスン後、響が決まって奏に注文するのは『表現力』。

逆に、それ以外の部分では指摘をしないところを見ると、響は奏の技術的な面はおおよそ認めているのであろう。


ピアニストにとって、重要な要素の一つ、それが『表現力』。

しかし奏には『気持ちの乗せ方』がまだ解らずにいた。



「あぁ……もう!」


一通り、曲を弾き終わるが、満足も納得もいかず、苛立ちの声をあげる。


「表現力ったって……どうすればいいの?何かを思うだけじゃ、ダメだっていうの?」


ピアノをいま、必死に練習している理由、それはふたりの『大切な人』に音楽の道に戻ってきてほしいから。

自分の弾くピアノで、少しでもふたりの背中を押せたら、その一心でしかない。だからこそ、奏は自分の熱意を、想いを曲に乗せて伝えたい、そう思っていた。



「でも、なんか違う……。聴いていても、弾いていても、私のピアノは……ドキドキしない。」


自分でも、奏でる曲の物足りなさには気付いていた。しかし、その物足りなさをどう解消させるのか、それが解らずにいた。


師である響に、意を決して教えを乞うた事がある。

それは、表現力とは何か、という素朴な質問。

しかし、響の答えは決まっていた。


「俺が表現のしかたを教えたところで、それは俺の表現方法でしかない。自分の表現のしかたは、何度も何度もピアノと向き合い、自分で見つけていくんだ。」


こと表現力の質問に対しての、響の答えは変わらなかった。



「ふぅ……今夜も解らずじまい。学園祭は近いし、私、大丈夫なのかな……」


結局、この日も表現力とは何たるかを理解するには至らなかった。

楽譜をしまい、エアコンを消し、ピアノ室を出る。

リビングに入ると、そこにはもう父の姿はなかった。


大きなソファーにぼふっ……と勢いよく座る。


「はぁぁ……。」


深いため息しか出てこない。


「……お嬢様、いまよろしいですか?」


ピアノの音が聞こえなくなったので休憩かと思ったのか、使用人が紅茶を持ってリビングに入ってきた。

優しい笑顔でカップを奏の目の前に、そっと置く。


「お疲れ様でした。」


「……ありがと。」


注がれる紅茶から、仄かにリンゴの香りがする。

奏はひとくち流し込むと、ふぅっ……と大きなため息を吐く。

温まる身体に、安らいでいく気持ち。


ついつい、弱気になってしまう自分がいる。



「私も……まだまだ、だなぁ……。」

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