第72話

百花は、百瀬に詫びて、少し離れた場所で電話に出る。

「はい! もしもし! あぁ! 久遠部長! お疲れ様です」

 電話の相手は、百花と同じ黒蝶で働く久遠文哉(40)だった。

『お疲れ。今、電話大丈夫か?』

「今ですか……」

 百花は、久遠と電話で会話をしながら、百瀬に、アイコンタクトで、自分が乗るはずだったエレベーターが到着したことを知らせる。

 そんな百瀬のアイコンタクトに、気づいた百瀬は、やってきたエーベルトに乗っていた男性社員に「乗りません」と小さく返事をした。

 百瀬の返事に、エレベーターの扉は閉まり、そのまま下に降りて行った。

 百花は、その様子を電話越しに見つめながら……

「あぁはい! 大丈夫です」 

『良かった!』

「久遠部長?」

『あぁ悪い? 市宮、お前、まだ残業してるのか?』

 今日の黒蝶は、18時から、他の部署との会議が入っていた久遠部長、そして、報告書の提出が期限(明日)に迫っていた百花、あと、資料整理をしている百瀬の3人を除き、ほとんどの社員が定時(19時)で帰宅した。

 本来、雫丘出版は、残業は余り推奨していない。

 その為、もしやむを得ず残業をする場合は、編集長に事前に残業届を編集長に提出しなければいけない。

「私は、終わったので今から帰ります!」

『私は? って? ことは、お前以外にまだ残っている奴がいるのか?』

「はい! 百瀬が」

『ももも百瀬!』

 百瀬という単語に、電話越しから驚きの声が聴こえてくる。

 それもそうだ! 

 百瀬なるは、残業が嫌いなのだ。

 そんな百瀬が、1時間も残業をしているんだ。

 久遠が驚くのも無理もない。

「はい! 今、担当している俳優Tに薬物に関する資料を今日中にまとめておきたいそうです」

『そっか? だとしても珍しいな? 百瀬がこんな遅くまで残業するんなんて』

「そうですね? けど、それだけ今回、力が入ってるんじゃあないですか? 百瀬! あぁ見えて努力家なんですよ? 本人は、否定してますけど」

(あいつのこと、よく見てるんだな?)

 電話越しに聴こえてくる久遠の独り言。

「部長?」

『なんでもない! 市宮?」

「はい!」

『お前? このあと暇か?』

「えっと……」

 部長からの誘いなので、本来は、断ってはいけないのは分かっている。

 でも、今日は一週間ぶり琢馬さんが、探偵の仕事(潜入調査)を終えて帰ってる。

『なにか? 用事があるのか?』

「用事って程ではないんですけど夕飯の買い物をして帰ろうかなって?」

『夕飯? だったら丁度いい? 俺も会議が終わって帰る所なんだが、よかったら一緒に食事……』

「ごめんなさい! 旦那が一週間ぶりに仕事先から帰ってくるんです」

『旦那! お前? 結婚してたのか?』

「すみません。1年前に。棗編集長と水川副編長、あと……どう……動揺させてしまうと思ったので、二人以外には、自分が結婚したことを伝えていなかったんです!」

『そうなのか……それはおめでとう!』

「ありがとうございます。って! 本来なら、1年前に言わないといけないんですけどねぇ」

 電話越しに百花の申しわない言葉が聴こえてくる。

「プライベートの報告は、個人の自由だろ? それに、棗編集長と水川副編集長には報告してたんだろう?」

「はい」

「だったら問題ないんじゃあないのか? 市宮、お前が、誰と結婚しようと俺たちには関係ないだし」

 _チクリ_

 その言葉を発した瞬間、久遠の胸に小さな痛みが。

 しかし、すぐに消えた。

「……久遠部長?」

「どうした?」

「私……本当は、今でも堂城先輩が好きなんです。でも、それ以上に堂城先輩にも幸せになって欲しいんです」

「……市宮」

 電話越しに聴こえてきた百花のすすり泣き声に、久遠は思わず百花の名前を呼ぶ。

「あぁ! すみません。旦那からオレンジからきたので」

「市宮!」 

 電話を切ろうとした百花を久遠が引き止める。

「辛くなったら俺に言えよ!」

「ありがとうございます。でも、旦那がいるので大丈夫です。じゃあ失礼します」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る