第二十一話 方広寺鐘銘事件
秀吉の没後、秀頼――実質的には淀殿が、秀吉の追善供養として多くの寺社の修復・造営を行った。
かつて秀吉が建立し、慶長元年(一五九六年)の大地震で倒壊した方広寺だったが、慶長十三年(一六〇八年)より片桐且元を奉行として再建が開始され、慶長十七年(一六一二年)には大仏殿と大仏が完成した。慶長十九年(一六一四年)には梵鐘が完成し、開眼供養の日を待つばかりとなった。
ところが――である。
家康から豊臣方に待ったが掛かった。その梵鐘に刻まれた文字に問題がある――というのだ。
刻まれた文字に、『国家安康』と『君臣豊楽』の文字があった。
豊臣家の繁栄を願った『君臣豊楽』という語句、そして『国家安康』と家康の名を区切り、刻むことで呪詛を掛けている。それ故、大仏開眼供養を中止せよ――。
当時の風習、因習からすれば、〝
〝言い掛かり〟と言えない部分も確かにあったのだ。
この申し入れに、片桐且元が、駿河の駿府城に大御所として名目上は隠居していた家康を訪れた。弁明のためである。
長らく謁見の間にて待たされていた且元に、家康は気さくに声を掛けながら入ってきた。
「且元殿、よう参られた」
「は。大御所様におかれましてはお変りもなく、この且元、心より……」
且元は、座した家康に平伏し、挨拶の口上を述べた。家康は閉じた扇を振り、親しみの籠った顔で呼び掛けた。
「よいよい、堅苦しい挨拶は抜きじゃ。して、何用で参られた?」
「は、方広寺の梵鐘の件につきまして……」
「おお、あれの」
「もとより、あの文言に悪意はなく、ただ天下の安寧を願ったものでございまする」
「それで?」
「
「ならぬ」
家康は且元の嘆願を、ぴしゃりと断ち切った。正に、〝取り付く島もない〟――とはこのことか。
「どうしてもでございまするか!?」
「くどい!」
食い下がる且元に、家康は、話は終わりと冷たく言った。
「用向きはそれだけか? では、これにて失礼仕る。これ、且元殿はお帰りじゃ。お送りいたせ」
「はっ!」
「大御所様! お待ち下さりませ」
部屋を出て行こうとする家康に、且元は再び嘆願した。その語感の必死さに、何か感じるものがあったのか、家康は足を止めた。
「何じゃ?」
「もし……、もしでござる。もし、秀頼様が大坂城を出て、国替えに応じるならば……」
「うむ? さすれば、沙汰止みといたそう」
「はっ」
「そうじゃな。それとも、秀頼殿が江戸まで参勤するか……。もしくは、淀殿を人質として、江戸に置くか――じゃな」
「然らば、急ぎ大坂に戻り、秀頼様にお伺いいたして参りまする」
「うむ。よろしゅう頼んだぞ」
「ははっ!!」
今度こそ、家康は部屋を出て行った。
且元は残された部屋で、独り決意を固めていた。
「秀頼殿に、江戸に〝参勤〟に出向けとな!?」
「は。もしくは、秀頼様が国替えに応じるか。畏れながら、淀殿が人質として、江戸に置かれるか――。家康殿は、そのいずれかで沙汰止みにいたす……と」
大坂に戻った且元の提案を聞いた淀殿は、さらに且元を問い詰めた。淀殿にとっては、それらはあり得ぬ提案だった。
「且元殿。そなたはいったい、どちらの家臣じゃ?」
「某は、秀頼様の家臣にございまする」
「その家臣が、秀頼殿に、大坂を出よ――と申すのかえ?」
「は……」
苦境の且元を不憫に思ったのか、秀頼が口を挟んだ。
「母上」
「秀頼殿、何か?」
「秀頼は大坂を出ても、ようございます」
「何と!?」
「それで丸く収まるのなら、秀頼はそれでようございまする」
「お父上様が遺してくれた大坂城を出ると申されるのか?」
「それで徳川殿が納得して頂けるのであれば」
「なりませぬ」
「母上……」
秀頼が元服し、成人した今となっても、淀殿が傍を離れることはなかった。そればかりか、秀頼がしようとすることすべてに口を挟む。淀殿の裁可なくては、ことが運ばないのである。
(これでは、秀頼様も息苦しかろう。秀頼様はすでに立派になられたのに、淀殿のほうこそ、子離れが出来ておらぬとは……)
二人のやり取りを聞いていて、且元はそう思わずにはいられなかった。
結局、秀頼の意見は却下された。且元の提案した三つの案も拒否された。淀殿を筆頭に、大坂方は徳川に対する反発から、より態度を硬化させ、戦の準備を密かに進めていった。
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