天下取りへの策謀
第十九話 征夷大将軍
関ヶ原の合戦で敗れた、主だった大名家の処分を終えた家康は、しかし、不満が募っていた。
〝天下の家老〟などと呼ばれていても、あくまで〝家老〟であり、主君は豊臣秀頼である。そのことを再認識させられる呼ばれ方であった。
「何か、良い手はないものか……」
大坂城の西の丸で政務を執りつつ、珍しく塞ぎ込むように、ポツリと零した独り言に、反応した者がいた。
「妙案がございまする」
天海は天台宗の僧侶で、金地院崇伝とともに家康の知恵袋であった。その彼が、急に声を発し、良い案があると言う。
「何じゃ、天海。妙案とは?」
「大殿が憂慮されておられるのは、秀頼公のことでございましょう」
「うむ。このままでは、儂は〝豊臣の家老〟でしかない」
「その上、秀頼公もいずれは〝関白〟におなりになるに相違ございませぬ」
「忌々しいがな」
家康は、苦々しい顔で認めた。その顔を見て、天海僧正は、〝我が意を得たり〟――とばかりに頷き、
「なれば、〝関白〟よりも上の位に昇ればよろしいのです」
と、宣った。家康は首を捻り、
「何と?」
と問い返した。同じように、『何を言っているのか』という顔の金地院崇伝のことなど、眼中にはない、と天海は勿体ぶって言った。
「今は武士の世にございます。言ってみれば、大殿は武家を統べるお立場」
「勿体ぶっておらんで、さっさと言え」
「はっ。古来、武家の棟梁は〝征夷大将軍〟にございまする」
「征夷大将軍……!!」
家康は、それには思い至らなかった――と驚いた顔で天海を見た。
「左様。〝征夷大将軍〟こそが棟梁。豊臣をも統べる〝
「なるほど……。それは妙案じゃ」
頷く家康に、天海は深々と頭を垂れた。家康は、金地院崇伝を顧みて、
「崇伝。直ちに朝廷と諮り、手筈を整えい」
と命じた。
「ははっ」
崇伝も頭を垂れ、畏まった。
「なるほどのぅ。征夷大将軍とは思いもよらなんだ」
家康は得心するように、しみじみと呟いた。家康の征夷大将軍就任の手筈を整えるべく、金地院崇伝は早速、公卿らと諮り、朝廷に働きかけた。
慶長八年(一六〇三年)二月十二日。伏見城にいた家康に、後
家康は晴れて、征夷大将軍となった。これで、家康は幕府を開く権限を得たのである。
また、この日以降、家康から秀頼に会うということはなくなった。
「家康殿が、〝征夷大将軍〟とな?」
こう問いかけたのは、淀殿である。家康の将軍就任を伝えた
「はっ、〝征夷大将軍〟とは本来、
「そのようなこと、分かっておる!
征夷大将軍の故事を説明しようとする且元に、淀殿は一喝した。且元は平伏し、
「は、失礼仕りました。征夷大将軍となられたということは、
「〝幕府〟とな?」
「は、徳川殿の
と、改めて、その意を説明した。
「幕府……」
且元の言った言葉の意味を反芻するように、淀殿はしばらく小さな声でぶつぶつと呟いていた。その様子を伺っていた且元が、畏れ入りながら、言葉を続けた。
「それに伴い、徳川殿は右大臣に任じられましてございまする」
「うむ? それは?」
「つまり、位階におきましても、
「何じゃとっ!!」
身に纏った華美な意匠の着物が色褪せるほどに目を吊り上げ、鬼神の如くに怒りを露わにする淀殿と目を合わさぬように、且元は平身低頭のままに続けて言った。
「しかしながら、家康殿は
そう具申しながらも、且元は心中では、
(家康殿がようやく手にした政権を返す? そんなわけがあるものか)
と密かに思っていた。ただ、そんなことをおくびにも出そうものなら、淀殿が黙ってはおるまい。七面倒くさいことを押し付けられるのは、火を見るよりも明らかだ。
(煩わしい役割を命じられるのも、厄介ごとも御免だ。そもそも、亡き太閤殿下の命ならいざ知らず、某の主君は淀殿ではないわ)
そう、且元は考えていた。とはいえ、建前は必要だ。
「おお、そうじゃ! 家康殿は老年。秀頼殿の成人までに
「左様にございまする」
且元は迎合するように、淀殿に同意した。
脇に控えている
年寄りの家康は、いずれは死ぬ。そう納得することで、淀殿は機嫌を直した。
慶長八年(一六〇三年)三月。伏見城から二条城に移り、衣冠束帯を纏い御所に参内。家康は将軍拝賀の礼を行った。
家康が行ったこれらの行事・儀式を、淀殿は歯ぎしりするほどの思いで見ていたであろう。しかし、いずれは秀頼が全てを引き継ぐ。そう信じて、我慢した。
慶長十年(一六〇五年)四月。六十四歳と高齢の家康は、ついに将軍職を辞した。ただし――。
嫡男・秀忠へ将軍職を譲り、将軍は『徳川氏の世襲』であることを天下に示したのである。
淀殿らの淡い期待は、泡沫のように消えた。。
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