人里に降りるために服を買う
出版にあたって人と会ってお話しするというお仕事をいただき、人に会うためのちゃんとした服を買いに行くことにしました。
自己弁護ですが、決して私は服に頓着していないわけではなく!
むしろ「無印良品で全身を揃える」という確固たる意志を持っている、変な方向性にこだわりの強いタイプです。というか、ファッションに興味がない人間の意地とも言える。質素であることを誇りとしており、無印良品に全身を乗っ取られても笑顔で自我を霧散させる覚悟ができています。私は映画「ファイト・クラブ」の冒頭でIKEAの家具が燃やされたことをずっと悲しんでいたような奴なので。
でも流石に、「本を出しました〜!」という作家が全身無印良品で行くのはちょっと……私の感覚的に、なんか違うな……という思いがあり、年相応にお高くてちゃんとした服を買いに行くことにしました。なんだかんだ言ってルッキズムからいまだに抜け出せていないので、何よりもまず見た目を整えようとしてしまう。
ところで私は、昔は「店員さんに話しかけられると死んじゃう」というタイプの浮遊霊で、店員さんとにこやかに話して余計な雑談などを言うような人たちのことを「…………」という顔で見ていました。店員さんに話しかけられると死んじゃう人には分かってもらえると思う、この三点リーダーに込められた陽気な人々にコンプレックスのあるオタクの気持ち。
しかし現在の私は、「私は絶対に店員さんを避けて生きていってやる……」と覚悟を決めたティーンエイジャーの私が見たら三点リーダーの顔待ったなしというぐらい、店員さんに余計なことを話してしまう客になっています。
単純に人の温もりに飢えた悲しい獣になってきたからではあるのですが、最近「店員さんはめちゃくちゃ低レベルな質問をしても、割と親切に答えてくれるぞ?」と気づいたからという理由があります。
「なんか、えっと……ちゃんとした服がほしいんです、きちんとした場に行けるぐらいの! でも、きちんとしていないぐらいの!」
この程度のリクエストで、店員さんは五着ぐらい服を見せてくれる。
いや、本当に、プロってすごい。オシャレに興味がなさすぎて全身無印良品であることを唯一の誇りとしている私にとって、話さない手はなさすぎる。
ショップに行くと、私は商品をふらふら見ながら「話しかけてくれ……」というオーラを出します。
店員さんはそのオーラを大体キャッチしてくれるので、「何かお探しですか?」と言われた瞬間に私は「はいっ!」と店員さんにおぼつかない説明を始めます。
そして次の瞬間には、ご要望の商品が目の前に出されている。
すごい。
今回の私のリクエストは「ちゃんとした服がほしいんです、きちんとした場に行けるぐらいの!」だったのですが、それでお出しされたのは白くて綺麗なお洋服たちでした。
白って、もうずっと着てないんだよな……。
そんなことを思いながら試着してみると、やっぱり「オシャレな友達の服を借りた私」みたいな浮いた私がそこにいて、こうなったら理想の他人を作ろう!と思い立って色々と服を試させてもらった次第です。
無印良品じゃなくても、私の自我は安易に霧散する。
ところで私、今まで「タイトな服が入らない」という経験を全くしたことがなかったのですが、このお店で初めて「このワンピース、入らない」という経験をしました。
でも、無傷!
ルッキズムは捨てられていないけど、ボディポジティブだけは確立されてきてよかった〜!
でもなんとなく店員さんに「入らなかった」と言うのが憚られていたら、結局「ワンピースどうでしたか?」と聞かれて「入らなかったんです〜、ダメでした」と言ってしまいました。
そしたら、その瞬間。
「ダメじゃないです!」
小鳥が転がるような接客用の可愛らしい声で。
しかし、キッパリと。
私が取りこぼして口から出してしまった一言を、きっと私が気づけなかっただけで何かを損なって発せられていた言葉を、店員さんがすかさず拾い上げたからびっくりでした。
「そうじゃなくて、この服って元々かなり細く作られてるから、痩せてる人でも入らないってことがあって」
とか、なんとか。
ほぼ反射のように放たれた「ダメじゃない」の一言に、私は綺麗なお洋服をたくさん紹介してもらったときよりも、プロの矜持のようなものを感じたのでした。
私が変なことを口走らなかったら出てこなかった、こんなにも強固なプロ意識が、「何かお探しですか?」の奥には眠っていたのかと。
本当に、本当に頭が下がる思いでした。
結局、私が選んだのは偶然にもその店員さんが着ていたのと同じレースのスカートでした。
帰り際に、「お揃いですね、嬉しいです!」と言われて、誰かとお揃いになることってめちゃくちゃ特別だよなと思いながら帰りました。
ところでお洋服を売っている店員さんたちって、どうしてあんなに可愛らしい声をしているんでしょうか。
私のネット友達にも、初めて通話をしたとき「えっ、声めっちゃ可愛い!」と思った人がいたのですが、その人もよく聞くと有名アパレルブランドの店員さんだったことがあります。
店員さんの「お揃いですね、嬉しいです!」と私の「本当ですね」の返事、なんか全然違う世界の人間に見えるぐらい違う音質だったな。
そんなこんなでプロに手を引かれながら、今日からゆっくりと人里に降りていきます。
雨井の日記 雨井湖音 @rain_koto
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